東雲を抱く 第一部

新菜いに

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第五章

〈四〉狩りの獲物・肆

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 昇陽にとっては、既視感のある光景だった。どこかで見たような、だなんてものではない。それは間違いなく数分前に見た光景だ。
 白柊の守護が主の命令で何かを取り出す――そしてその何かは見覚えがあって、それを見た途端、自分の心臓を掴まれたような感覚を覚えるのだ。

 だから三郎が持つもの――捨てたはずの手拭いを見た時、昇陽は自分の中の勢いが急速にしぼんでいくのを感じていた。白柊を騙すと覚悟が決まり、そのせいかどこかずっと興奮していた頭は、冷水をかけられたかのように冷え切っている。
 有り得ないのだ。雪丸が倒れたのは日暮れ前、そこから毒を盛られたという疑いが出たのはどう考えても日が沈んでからだろう。実際、自分が隔離されたのも夜になってからだ。ただでさえ陽の光が届きにくい山の中、そんな暗闇の中でたった一枚の手拭いを探せるわけがない。「どうして……」、無意識のうちに声を零せば、白柊はにやりと笑った。

「親切な人間もいるものだ。貴殿達が下山する際にこれを落としたのを見て、届けてくれた者がいてな」

 わざとらしく言う白柊の言葉を聞きながら、三郎は嘘ばっかり、と心の中で呟いた。そんな偶然、あるはずがない。
 事前に白柊が天真に言付けていたのだ――今日、鹿狩りに昇陽達が出かけるはずだから、後を付けて帰り道で昇陽が落とした物は全て拾え、と。毒物が付着している可能性を天真に伝えたのも白柊だ。つまり彼は、最初から昇陽が今日、何をするつもりなのか知っていたということになる。
 それなのに先程からずっと、はっきりと全てを語らない。滝之助に対してもそうだったが、今だって敢えて昇陽を泳がせ、彼が見つけた逃げ道を一つずつ塞いでいくのを楽しんでいる――背中から感じる主人の上機嫌に、三郎はこっそりと溜息を吐いた。
 と同時に、「明月介」とまた声がかかる。三郎は考えていることに気付かれたのかとどきりとしたが、白柊の視線は彼女の手の中の手拭いにあった。それを広げろということだと理解して、三郎は胸を撫で下ろしながら指示通りに手拭いを広げてみせた。
 
「このとおり、拾った時から手を加えずそのまま持ってきた。少し土が付いているが、どう見ても蛙が這った跡はない。つまりここから毒が見つかれば、この手拭いで拭った物に毒が付いていた可能性があるということだ」

 そう言って口端を上げた白柊を見て、昇陽の顔が引き攣った。けれど何か葛藤するように、眉を小刻みに動かしている。

(まだだ。まだ言い逃れはできる)

 昇陽は恐れを追いやり、無理矢理口を開いた。

「しかし蛙が這った場所に落ちた可能性は!? 貴方様も先程おっしゃったはずです、『この季節に山の中に落ちた時点で、いつ毒が付着したのか証明できない』と!」
「ああ、言ったな」
「ならば……!」
「だが、蛙の毒そのものかどうかは簡単に調べられる」
「え……?」

 思いもしなかった白柊の言葉に、昇陽の顔から表情が抜け落ちた。

「蛙の皮膚から直接付着した毒は長持ちしないんだ。知らなかったのか? この容器の中身のように、毒性を長く保つには正しく処理をしなければならない。つまり手拭いに未だ有毒なものが付いている時点で、それは自然では有り得ない――人間により付けられた毒だということだ」

 嫌な汗が、昇陽の背中から吹き出していた。激しく脈打つ心臓は自分の焦りをそのまま表わしているかのようで、更に焦燥感を掻き立てる。

「し、しかし……! 偶然長持ちするということも……!」

 我ながらなんて苦しいことを言っているのだろう、と昇陽にも分かっていた。苦し紛れとはこのことだ。普通に考えたら有り得ないようなことを、否定の材料として無意識のうちに口走ってしまう。
 白柊も昇陽の状況は分かっているはずなのに、彼の言葉を馬鹿にする様子はない。むしろ納得するように頷いていた。

「まあ、生き物のことだ。絶対に有り得んとは言い切れないだろう」
「そ、そうでしょう! ならばその手拭いに蛙の毒が付いていても、何らおかしくは――」
「ああ、そうだな。――しかし鳥の毒だったら、おかしいとは思わないか?」
「は……?」

 何を言っているのだろう、と昇陽の眉間に皺が寄せられる。そして同時に、得体の知れない嫌な感覚に身を包まれた。
 これは何だ――そう思った瞬間、昇陽の脳裏には少し前の光景が浮かんだ。自分が最初に諦めを感じたきっかけ。白柊の言葉よりも前に、全て知られているのではないかと思った理由。

「貴殿の部屋からこれをいただいたのは、だ」

 その言葉と共に、白柊が守護の手の中の容器を示した。ありきたりな見た目をしたそれは、先程から彼が毒の入れ物として扱っている物。わざわざ中身が何なのか自分に聞いたのに、その答えを聞かないまま毒だと決めつけている物だ。
 しかしそれは間違ってはいないことを、昇陽は知っていた。何故ならその容器は、彼が自分自身の手で処分したはずだからだ。中身を矢に塗りつけ、証拠を残さないために隠すようにして捨てたはずなのだ――この日の朝に。

「二日前……?」

 だから時間が合わない。白柊の言葉を信じるならば、彼の持つものと自分が捨てたものが同一であるはずがない。ならば今朝自分が触ったものはなんだったのか――昇陽が混乱のままに白柊を見上げれば、冷たい眼差しが自分を射抜いていた。

「この容器の中身は蛙の毒だが、貴殿が矢に塗ったのは私が二日前にすり替えておいたものだ。よくある入れ物を使っていてくれて助かったよ、お陰で楽に用意できた」

 視線の冷たさはそのままに、しかし楽しそうに白柊が笑う。

「私が用意した毒はヒクイモズという鳥から抽出したものでな。つまりこの手拭いに付いているのは鳥の毒ということになる。鳥は地面を這わないだろう?」

 白柊が言う鳥の名を、昇陽は知らなかった。だが鳥が地面を這わないというのは考えなくても分かる。そんな生き物の毒が手拭いから見つかれば、もう言い逃れができないということは明らかだ。

(いや、最初から言い逃れなどできなかったのだ……)

 自分の部屋から毒を見つけたのが二日前という時点で、全ての企みは目の前の子供に知られてしまっていたに違いない。何故なら相手は時嗣の御子――過去を読む時和なのだ。毒という決定的な品、その上手拭いという証拠まで押さえられているのだから、きっとここに来るまでの間にその過去を読み取られていたのだろう。
 それなのに自分を止めなかったのは、していないことは罰せられないからだろうか――確実に自分を罰するためにこんな少年がそんなことを企んだのかと思うと、昇陽は背筋が冷たくなるのを感じた。

(やはり時和だ。時和がいつだって私の邪魔をする)

 何故この力が自分にないのだろう。時和になれなかったことで家族に見下され、どんなに知恵を絞って企てたことでさえも、時和の前には無力。ほんの少し自分にもこの力があれば、もっと違う生を送れたはずなのに――昇陽は顔を顰め、大きく息を吐いた。

「過去を……読んだのですね……」

 昇陽が諦めたように言えば、白柊は「それは私の言葉を肯定していると取っていいのか?」と問いかける。
 否定できるはずもない――昇陽にはもう、首肯することしかできなかった。彼のその行動を見た白柊は小さく息を吐いて、「私の守護は過保護でな」と口を開いた。

「たとえ密閉されていようが、毒の入った物には触れさせてくれない。手拭いも同じだな」

 昇陽はいきなり何の話だと思ったが、その言葉が意味するところに気付き顔を上げた。時和が物の過去を読み取るには、対象物に触れていなければならないと聞いたことがあったからだ。

「では、読んでいないと……?」
「必要ないだろう。過去を読まずとも大筋は分かるのだから」
「そんな……一体どうやって……? 時和の力を使わずに、どうして私が毒を持っていると分かったのです……!?」
「貴殿が誰かを殺そうとしているならば、毒の一つくらい持っているだろうと考えて当然だろう?」

 どういうことだ――昇陽は疑問に思ったが、すぐに自分が勘違いしていることに気が付いた。始まりは毒が自分の部屋から見つかったことだと思っていた。
 だが、それだとおかしい。白柊が自分の部屋から毒を探す理由が必要だったのだ。

「貴殿が雪丸殿を害そうとしていることは、とうに分かっていた」

 目を見開く昇陽に構うことなく、白柊は言葉を続ける。

「事故を装おうとしたのだろう?」

 それまでよりも幾分か柔らかいその声に、これまでずっと与えられていた緊張感から解放されたような感覚が昇陽を包んだ。そしてそれは彼の中にあった諦めや苛立ちさえも溶かしてしまって、その口からは「はい……――」と無意識のうちに零れ落ちていた。

「――過去に蛙の毒により、今回のような事故が何件か起きているのを知り……」
「だがその蛙はウルシガエル――貴殿が用意した毒とは別の種類だろう?」
「そうです。ですが症状も似ていますし、流石に触れただけで死んでしまうような毒を、自分も触る可能性のあるものに塗る勇気がなく……」

 白柊の問いに答えながら、昇陽は自分が情けなくなっていた。少し前に鼻を明かしてやろうと思っていた相手は自分よりもずっと上手で、もはや聞かれるがままに答えることしかできない。その上、自分の発言は度胸がないと言っているようなものだ。

「――かと言って自分は絶対に触れることなく、雪丸殿にだけ触れさせる手段が思い浮かばなかった、と」

 白柊はきっと自分の意気地のなさに気付いているだろう。だが彼はそれについて何も言わず、事実だけを確認するように言葉を発する。それがかえって現実を突きつけてくるようで、昇陽は余計に自分の無能さを思い知らされる気分だった。
 もう、こんな自分にできることなど一つしかない――昇陽はぎゅっと拳を握り締めた。最後の力を振り絞るように、必死に自分の中の砕け散った覚悟を拾い集める。

(昇陽殿は、まだ何か隠してる……?)

 二人の会話を聞きながら、三郎はおかしいなと思った。蛙の毒での死亡事故はそんなに頻繁なものではない。白柊の言ったとおり、ウルシガエルにしろネツガエルにしろ、正しく抽出し処理をしなければ分泌された毒は長持ちしないのだ。たとえこれらの蛙が地面を這おうと、直後でなければ触れても問題はない。だから事故が起きるのは、直接蛙に触れてしまった場合のみだ。
 そしてその事故は、先日白柊が調べていたところによるとここ十年で三件しか起きていない。しかも犠牲者は庶民。貴族であれば話は違ったかもしれないが、庶民の死亡事故など普通に月霜宮で暮らしていたら耳に入るはずもない。それを何故昇陽が知っているのか――三郎が考えていると、昇陽が意を決したように口を開いた。

「全て私が一人で企てたことです。今は流行病などの可能性も出ているようですが、貴方様のお言葉であればそうではないと皆信じましょう。だからどうかこの私の首一つでお許しいただきたい」

 それまでの態度を一変させ、床に頭を擦り付けながら昇陽は白柊に許しを乞うた。顔の見えない白柊がどう感じているかは昇陽には分からない。
 しかし何も言わないことから、自分のこの変わり身に驚いているのだろうなとも思う。我ながら不自然な態度だと自覚しているのに、昇陽は自分の行動を変えることができなかった。

『事が明るみに出たら、分かっているな?』

 昇陽の頭の中に、大嫌いな、しかし逆らえない声が響く。今朝珍しく自分の激励に来てくれたその人は、美しい笑顔でそんな言葉を言い放った。それは昇陽に全ての罪を被って死ねと、そう言っていたのだ。
 雪丸を殺そうとしていないと言い逃れできれば、まだ違ったかもしれない。だが今はもう、白柊の目を誤魔化せる気がしなかった。
 そう思うと、自然とその恐ろしい言葉を実行せねばという使命感が昇陽の中に湧き上がってくる。従う必要などないではないかとどこかで自分が言うのに、その声から耳を背けて、あの言葉通りにすることしかできない。

(これくらいは、成功させねば……)

 毒を事前に奪われていたということは、雪丸は本当に死ぬのかすら怪しい。全てを知られた上に当初の目的を果たせなかったなら、そこにもう自分の居場所はない。
 どうせ居場所がなくなるのなら、せめてこの死は少しでも意味のあるものにしたい――そう思って頭を下げ続ける昇陽だったが、白柊から投げかけられたのは冷たい声だった。

「嘘を吐くな」
「嘘などと……! この期に及んでそんなこといたしません!」

 昇陽は咄嗟に床から顔を離し、白柊を見上げる。
 真実とは違うことを言っている自覚はあった。しかし、否定しなければならない。そうしなければ自分の役目は果たせないのだから――昇陽の目に力が込もった。

「だが少なくとも、貴殿に蛙の毒のことを詳しく調べて聞かせた人物がいるのだろう?」

 その瞬間、昇陽の顔が驚愕に染まった。何故知っているのか――そんな言葉が聞こえてきそうな顔で白柊を見つめる。

「その首一つで本当に足りるか?」

 白柊がそう言うと、昇陽の顔色がみるみる青くなっていった。彼の言葉は他の人間の関与を疑うもの――自分が今必死に隠そうとしている真実を、暴こうとするものだった。

(どうして……)

 言葉にならない疑問が昇陽を襲う。それでもどうにか白柊の言っていることを否定しなければならないのに、どうすればそれができるか全く思いつかない。しかしできなければ、自分に待つのは今までよりもずっと惨めな生だ。その恐れが昇陽の身体を小刻みに揺らしたが、それは彼の冷静さを余計に奪うだけで何の役にも立たなかった。
 そんな昇陽に視線を落とした白柊は、ふう、と一つ息を吐いた。そして――

「ま、貴殿の首なんぞいらんのだがな」

 そう言って、意地悪く笑った。
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