虚像のゆりかご

新菜いに/丹㑚仁戻

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第一章 虚夢

〈五〉苦い青春

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 高校時代にあまり楽しい思い出はない。むしろ当時は僕にとって人生のどん底だったとも言えるだろう。何せその少し前――中学卒業を間近に控えた僕は、父さんの真実を知ってしまったのだから。

 思えば僕は、それなりに不幸な人生を歩んできた気がする。
 僕の母さんは僕を産んだ時に亡くなったらしい。だから僕は父さんと生活していたのだけれど、その父さんは僕が小学校に上がる前に縊死してしまった。
 そしてその後は、僕は父さんの妹に引き取られた。叔母は僕を引き取った時まだ二十代で、給料もそれほど高くなかったようだ。だから僕を養うために相当無理をしてしまったらしく、四年後には風呂場で倒れてそのまま死んでしまった。
 後から聞いた話では、倒れたこと自体はそれほど問題はなかったそうだ。ただ、打ちどころが悪かった。そのせいで叔母は短い生涯を閉じ、彼女以外に引き取り手のなかった僕は施設に行くこととなった。

 そして、高校生。この頃の僕は今とは違って、父さんに対する感情に折り合いを付けられていなかった。
 思春期というただでさえ多感な時期に実の父親が異常者だったと聞かされて、それまで大切な思い出だった父さんとの記憶がゴミ以下に思えるようになってしまったのだ。叔母が倒れるまで頑張ったのも、父さんのしたことへの罪悪感からだったかもしれない。そう考えると叔母は父さんに殺されたようなものだと感じたし、母さんだって実は父さんの異常な部分に触れて身体をおかしくしてしまったのではないかと思うようにもなっていた。そう思わないと、僕の方がおかしくなりそうだった。
 そろそろ分別のつく年頃だからと、施設側の判断で高校に上がる前に聞かされた身内の死の原因。確かに背景を含め理解をすることができたが、そのどれもが僕と関わっているような気がしたのだ。母さんは僕を産んだせいで死んだし、母さんを失ったせいで父さんはおかしくなって自殺した。父さんが死んだせいで、叔母の人生は狂って早死に追い込まれた。
 僕が、起点となっている。僕が生まれたからみんな不幸になってしまった――そう、考えた方が自然だったから。

 だから当時の僕は父さんに対する怒りや嫌悪感と同時に、自分という存在にも疑念を抱いていた。そんな状態で周りと楽しく話せるはずもなく、ただでさえ友達がいなかった僕は高校で完全に空気になった。幸いにもいじめられることもなかったが、楽しい出来事なんて何もなく、ただただ暗く後ろ向きな自問自答を繰り返す日々はまるで生き地獄のようだった。

 だから東海林美亜が自殺したと聞いた時、僕は正直羨ましいと思った記憶がある。クラスメイトとはいえど彼女とはろくに話したこともないから、死自体が他人事にしか思えなかったというのも大きいだろう。
 他のクラスメイト達は何故彼女が死を選んだのか理解できないようだった。僕も東海林美亜という人間については何も知らないも同然だったから理解できなかったけれど、周囲のそれは彼女の人となりを知っているからこそのものだったらしい。彼らは嘆き悲しみ、『どうして』だとか、『悩みに気付いてあげられていれば』だとか、ありきたりな――それこそニュースで誰かの死についてインタビューされた人々と同じようなことばかりを口にしていた。

 別に僕にはそれをとやかく言うつもりはなかった。こういうのがきっと人付き合いというものなんだと思うし、正常な反応なんだろうとも理解していた。
 だから、僕はただ彼女の死を羨んだだけだった。こんな生き地獄から抜けられていいなと感じて、その後は特に何も思わなかった。
 けれど――

『アンタが殺したんでしょ!』

 誰かが僕に向かって言った。僕はしばらく自分に言われたと気付かなくて、周りからの嫌な空気を感じて初めて自分が今まさに攻撃されているのだと知った。

『な、何……?』
『とぼけるなよ! アンタが美亜を殺したんだ!!』
『どうして僕がそんなこと――』
『美亜に告白したでしょ!? それでフラれたから屋上から突き落としたんじゃないの!?』

 寝耳に水だった。僕が東海林美亜にフラれただなんて、事実無根もいいところだ。
 だって僕は彼女に告白すらしていない。第一まともに話したことのない相手を好きになるわけがないだろう。もし好きになったとしても、当時の僕には誰かと付き合う余裕だってなかった。自分の存在自体も嫌だと感じていたから、自分は一生独身でいるべきだと考え始めていた時期でもあるのだ。

『何の話かよく分からないんだけど』

 僕が困惑のままに口にすると、僕を糾弾していた女子は一層顔を歪めた。そしてそれを見た周囲の人間は、何故か彼女に味方し始めた。ところどころから聞こえる言葉から察すると、この女子は東海林美亜と仲が良かったらしい。そう気付いた途端、僕は最悪だ、と天を仰ぎたくなった。
 親友を亡くした可哀相なクラスメイト――それが、この女子に対する周りの認識だ。その彼女が勇気を出して糾弾する僕は彼らにとって敵としか映らない。
 僕の味方をしてくれる人なんて勿論いない。だって僕は空気だから。誰も僕という人間を知らない。知らないから、聞いた情報でしか判断できない。心情的には東海林美亜とその親友に同情している彼らが、その情報の真偽を確かめようとしないことくらい考えなくても分かった。

『とぼけたって無駄だからね! 絶対に許さないから!!』

 その日から僕は空気じゃなくなった。

 僕は、人殺しになった。


 § § §


 嫌なことを思い出して、僕は深い溜息を吐いた。狭いネットカフェの個室ではその音は存外大きく響き、より一層僕の気分を重くさせる。
 学校という閉ざされた空間では、実際にどうであれ周りの僕を見る目が僕という人間を形作るのだ。だからあの女子に人殺し扱いされ、否定しても信じてもらえなかったあの頃の僕は周囲に人殺しとして認識されていた。
 そのせいで空気だった頃よりも学校という場所は居心地の悪いものになった。腫れ物のように扱われ、かと思えば時々理不尽な暴力を受けることもあった。僕を人殺しだと思っているならもっと恐れて遠巻きにしてくれればいいのに、結局のところ誰も心の底では本気にはしていなかったのだろう。本気にしていたとしても多分僕が直接東海林美亜に手を下したとは思っていなくて、間接的に彼女の死に関わったとしか思っていないから、だから余計にちょっかいを出したくなったのだと思う。
 正義の名の下に日頃の鬱憤をぶつけていい相手――それが僕だったのだ。

 さらに僕のことで警察が動かなかったことも彼らを助長したように感じる。いくら人殺しでも危険はない人間だと思わせてしまったのだろう。
 それは僕にとっては不都合であると同時に好都合でもあった。警察が動かないということは、僕の無実の証明にもなるのだ。お陰で暫くは鬱陶しかった同級生達も、僕と東海林美亜の関係についての噂がただの女子高生の妄想であって真実ではないと悟ったのか、時間が経つにつれて落ち着いていった。

「……なんで忘れてたんだろ」

 否、なんで思い出してしまったんだろう。東海林美亜という名前を聞いたせいとは分かっていたものの、最近ではすっかり薄れていた嫌な記憶が引っ張り出されるのは気分の良いものじゃない。
 しかもこれもある意味では冤罪だ。どうして僕はこうも無実の罪を着せられるのだろう――そう考え始めた時、ふと嫌な考えが脳裏を過ぎった。

「警察が僕の名前を知ってるってことは……高校の人達にも会いに行く……?」

 それは駄目だ。いくら無実だと言ったって、僕が東海林卓の妹の自殺に関わっているだなんて思われたら不利にしかならない。たとえ物的な証拠がでなくとも、相当深く疑われることになるはずだ。

「口止めを……駄目だ、名前が分からない」

 あの女子の名前も、他のクラスメイトの名前も。恐らく見たり聞いたりすれば思い出せるのだろうが、一人ひとりを今思い出そうとしても自信がなかった。
 それに名前が分かったところで、あの女子以外の誰が東海林美亜の死の原因として僕の名前を出すか検討も付かない。全員そう言うかもしれないし、誰も言わないかもしれない。どちらだとしても確証がなかった。それだけ、僕はあの頃のクラスメイト達のことを知らなかった。

「名前を出されても平気なようにしなきゃ……」

 そのために必要なのは、あの夜の情報。東海林卓が死んだ前後――僕の記憶にない空白の時間。
 恐らく気絶していただろうから、記憶自体はあまり期待できない。だから探すべきは、あの時僕が本当に気絶していたという客観的な証拠だ。僕が意識を失っている間に東海林卓が死んだのだと証明できれば、たとえ僕にとって不利な証拠が出てきても潔白を証明することができる。
 真犯人がそんなものを残しているとは思えなかったが、探すしかないのだ。奴が僕を陥れようとして犯した、僅かなミスを――。
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