虚像のゆりかご

新菜いに

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第二章 橘椿

〈三〉黒髪の女

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 尾城達が八尾を訪ねた三日後のことだった。時間の経過と共に落ち着きかけていた東海林卓の遺体発見現場付近の雰囲気は、再び慌ただしいものとなった。そのすぐ近くで別の遺体が発見されたのだ。

「またかよ」
「またって言うとちょっと違いません? こっちのホトケさんは東海林より前に亡くなってることは確かなんですから」

 尾城が河野にそう断言できたのは、見つかった遺体の状態のせいだった。腐敗の進んだ遺体は髪の長さと服装で女性だと判別できるものの、死後数週間以上は経過していると見られている。

「そういう意味じゃねぇよ。こんな狭い範囲で二件目かって意味で言ったんだよ」

 河野が溜息を吐きながら言うと、尾城は「確かにそうですねぇ……」と周囲を見渡した。そこは荒川の河川敷で、歩道の整備された土手から川辺までは生い茂った雑草に覆われている。
 女性の遺体が発見されたのは土手側ではなく川の中にある草むらだった。今は足首までの水かさしかないため歩いていけるが、近隣住民の話ではここのところ増水していたせいで浮島のようになっていた場所らしい。
 遺体が最初からそこにあったのか、それとも後から流されてきたのかは現時点では不明だ。しかし川の水で人々の生活圏から切り離されていたせいで発見が遅れたのは間違いないだろう。周囲には腐敗による悪臭が漂っているが、悪臭のしてくる方との間に川があれば人はそれ以上踏み込まない。小さい川ならまだしもここは荒川だ。川幅が広く危険もあるため、興味本位で無理をしようと思う人間はいないだろう。

「東海林の件でこの辺一体を浚ったから偶然見つかったようなものですからね。実は結構あちこちにこういう場所はあるんじゃないですか?」
「馬鹿野郎、そういうことは思っても言うな。ていうか思うな」
「『思うな』は流石に酷くないっすか……?」
「お前は思ったことがそのまま口に出るから、それくらいじゃないと駄目なんだよ」

 河野の言葉に何か言い返そうとした尾城だったが、ちょうど他の捜査員に遺体を運び出す許可を求められてしまったためその機会を失った。
 今回発見された遺体は事件性があるかどうか定かではないが、尾城達の担当する事件の捜査中に見つかったため、こうして指揮を取っている。

「これで東海林の件と関係なかったら無駄骨ですねぇ……」

 運び出されていく遺体を見送りながら、尾城はこっそりと大きく呼吸をした。これまでは腐敗臭を吸い込まないようにしていたせいで少し息苦しくなっていたのだ。臭いの元が遠ざかったため多少は臭いがなくなっているはずだが、思い切り吸い込んだ空気はそれほど澄んでいるとは思えなかった。

「関係なかったらそれでいいんだよ。そんな何人も殺されててたまるか」

 河野が東海林の件を殺人と断定した言い方をしたのは、これまでの捜査でそう結論付けられたからだ。司法解剖の結果、東海林卓の死因はやはり頸部の裂傷による失血死で、凶器に使われたのは現場である倉庫の割れたガラスだった。傷口の角度から、窓へと倒れ込むようにして窓枠の下の方にあったガラス片が首に刺さった可能性が高いらしい。
 これだけならまだ事故と言えないこともなかったが、実際に凶器とされたであろうガラス片の状態が第三者の関与を裏付けていたため、殺人事件として扱われることになったのだ。

「まあ、東海林の件は突発的なものと思えなくもないですからね。そんな犯人がつい一月前に別の殺人に関与してたっていうのもおかしな話ですし」
「本当にそう思うか? 殺したのは突発的だったとしても、その後の証拠の始末はしっかりしてただろ。首を掻っ切ったであろうガラス片は完全に粉々、どうにか見つかった欠片だって血と指紋が拭き取られた痕跡がある。ガイシャの傷口にガラス片が残ってなかったら、凶器の断定にもっと時間がかかったはずだ」
「初めての殺人でそこまでできないってことですか?」
「できる奴は少ないだろ。まあ、犯人がその少ない奴って可能性はあるがな」

 そう嫌そうな顔で言った河野だったが、すぐに「そういえば」と思い出したような声を上げた。

「東海林の足取りの確認は取れたのか?」

 その言葉にまだ共有していなかったか、と尾城は内心焦ったが、冷静を装って「ああ、それですね」と手帳を取り出した。河野が呆れたような目をしているのが見えたが、気付かなかったふりをする。

「事件前に一緒に新宿で飲んでいたという友人の話ですが、彼の言うとおり、東海林は午前零時頃には新宿駅から千葉方面への電車に乗るのが防犯カメラに写っていました。自分の足でこのあたりの駅まで来たのは確かです」

 この友人というのは、遺体が東海林卓のものだと判明した後に自ら警察に情報提供をしに来た里中さとなかという男だ。彼の話では東海林と新宿で酒を飲んだ後、次の店に行くかどうか歩きながら話していた時に東海林が突然帰ると言い出したらしい。
 八尾の名前が挙がる前には彼の話は聞けていたのだが、終電間際の新宿駅ということで確認に時間がかかってしまったのだ。

「東海林の家は中野だろ? 逆方向じゃねぇか」
「それは里中さんも思い当たるものがないそうです。でも彼の話では、本当に突然帰ると言って理由も聞けないまま歩き去ってしまったようで……」

 そういうことをする人間ではない、というのが里中の東海林に対する評価だった。東海林は義理堅い性格で、相手に対し礼を欠く行動をすることも滅多になかったという。今回の場合では、急用を思い出したのであればその場でそう言うか、後からフォローの連絡をしてくるようなタイプなのだそうだ。
 だからこそ、それができないほど泥酔していたわけでもないのにそのどちらもなかったことが気がかりだったらしい。里中が東海林と別れた場所だけでなく時間をも比較的正確に覚えていたのも、不思議に思って何度も確認して印象に残っていたからだそうだ。

「東海林が急に帰った理由が分かればな……」
「ええ。十中八九事件に関係あることでしょうしね」

 その時、「すみません」と尾城達に声がかかった。見ればそこには制服を着た捜査員がいて、手には汚れたバッグを持っている。
 そういえばここは別件の現場だった――東海林の話に集中していた頭を切り替えて、尾城は捜査員の方へと向き直った。

「これが近くの茂みから見つかりました」

 差し出されたバッグは有名なブランドのものだった。若い女性でも時々持っているのを見かけるようなブランドで、尾城は女友達が自分へのご褒美だと言って奮発したバッグを思い出した。

「この汚れ方は結構外に放置されてた感じですね」
「元がそれなりに汚かったかもしれないだろ」
「それはないんじゃないですか? 結構高いブランドですよ、これ。それに綺麗なデザインだから、汚れた状態で使う人はいないんじゃないかな」
「ほー。俺にはそのへんのオバサンが持ってるのとそう変わらなく見えるけどな」
「河野さんだってオジサンじゃないですか」
「黙れ」

 河野の怒りから逃れるように尾城は慌てて手袋を嵌めた。それを見た捜査員がバッグの口を開いて、中を見せるように持ち直す。尾城は内心で相手に礼を言いながら、丁寧な手付きで中のものを取り出し始めた。

「流石ブランド品、中は案外無事ですね。――お、財布ありますよ」
「免許証は?」
「ちょっと待ってください。ええと……ああ、ありました。黒髪ロング、さっきの遺体と同じ髪型ですね。名前は……――え?」
「なんだよ」

 免許証に印刷された名前に、尾城は自分の眉間に力が入るのを感じた。同姓同名だろうと住所を見れば、こちらもやはり見覚えのある地名が並んでいる。

「河野さん」

 いつになく真面目な口振りの尾城に、河野が訝しげな表情を浮かべた。

「関連性、ありそうです」


 § § §


 つい先日来たばかりの家の中を見て、尾城と河野は顔を顰めた。前回来た時は家主不在だったため中には踏み込まなかったが、今回は別だ。数週間前に亡くなったであろう人物の家かもしれないとなれば、中を確認しないわけにはいかない。
 今は真夏、一月も家を閉め切っていればかなり匂いが込もっていることを想定していたが、玄関ドアを開けた時に出てきた空気にそこまでの印象はなかった。ならば窓を開けっ放しだったのかと思えば、それは違うと断言できる。家に入る前に外から確認していたし、何より今直接この家唯一の窓が閉まっているのを見ているからだ。

「……コーヒー飲んだマグカップって、一ヶ月経ってもこんなもんなんですかね?」

 ローテーブルの上に出しっぱなしになっているマグカップを見ながら、尾城は河野に問いかけた。

「腐るもんでもないだろ。ただまあ、うちにあるのとそう変わらないように見えるけどな」
「うち?」
「たまに使った後何日か片付け忘れるだろ。そういうのだよ」
「え、河野さんそんなに長い間使ったコップ放置するんですか? 汚ッ……」
「お前が潔癖すぎるんだよ」
「俺別に潔癖じゃないんですけど」

 だよな、と尾城は自分の行動を思い返した。汚いものに触れるのは確かに好きではないが、後で手を洗えばいい話だ。何かに触れるたびに消毒したくなるわけでもないし、自宅も多少散らかっている。
 流石にこの家のように使ったものを出しっぱなしにはしていないが、これがそれほど珍しくないとも理解していた。

「最後に出かけた時は急いでたんですかね。全体的には綺麗に片付けられてるのに、ところどころ探しものしたみたいに散らかってますし」
「……何を探してたんだろうな」

 低い声で言った河野の視線の先にはゴミ箱があった。この部屋の雰囲気に合った、白いバケツ型の綺麗なデザインだ。
 尾城はなんとなくその中を覗いてみると、中に捨てられていたものに眉を顰めた。

「絆創膏の包み紙に……これは湿布の剥離フィルム? えらい量ですね。派手な怪我でもしたのかな」

 女性の遺体の状態を思い出そうとして、尾城は慌てて首を振った。折角記憶から薄れているのに腐敗した遺体をあまり思い出したくなかったし、何よりあの状態では多少怪我していても自分には分からないからだ。たとえ骨折していたとしても、思い切り有り得ない方向に曲がっていない限り気付けないだろう。

「あの遺体の人物が誰かから暴行を受けたか、あるいは……――」

 相変わらず低い河野の声が、尾城の背筋を伸ばす。少しふざけても河野が許してくれるためついつい甘えてしまうが、今はその時ではないと察したのだ。それに何より、この後に続く河野の言葉が分かってしまった。

「――八尾が使ったか」

 河野もそう思ったか、と尾城は表情を固くした。東海林卓の遺体発見現場近くの防犯カメラに映っていた男は、『友人である橘椿の家で怪我の手当てをした』と言っていたのだ。そしてその彼の顔には打撲の跡がまだ残っていた。実際は顔だけでなく身体のあちこちに打撲や擦り傷を負っていたのであればこのゴミの内容も頷ける。
 ただそうなると、『橘椿と一緒にいた』という彼の発言は嘘の可能性が出てくる。何故なら遺体のものと思われる免許証に書かれた名前――今尾城達がいるこの部屋の契約者の名前もまた、橘椿だったのだ。
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