虚像のゆりかご

新菜いに/丹㑚仁戻

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第五章 八尾彰

〈二〉嘘と現実

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 何故急に立ち止まったのだろう――八尾を家から付けていた尾城は、少し離れたところにいる相手の姿を見て疑問に思った。
 ここは日陰のない真夏の屋外だ。それも天気予報では危険とまで表現されるような暑さが広がっている。そんな中を八尾は歩いて出かけていたが、突然信号もないところで立ち止まったかと思うと、そのまましばらくそこを動かなかった。

「こんなとこでのんびりされると辛いんだけどなー……」

 八尾の自宅を見張る時は停車した車の中だったが、今は尾城も外に出て歩いていた。彼の自宅付近は住宅街のため車で徐行すると迷惑になるし、何より目立つのだ。八尾には見張ると伝えてあるから問題はないのだろうが、流石に下手すぎる尾行をするのも自分のプライドが許さなかった。
 だから尾城は、八尾に気付かれないくらいの距離を取って後を付けていた。そのせいで彼が何をしているのか見たくても、彼の向く先は死角に入ってしまっていてそこにいると判断するのがやっとの状態。距離を取っているせいで八尾が誰かと喋っているかどうかも分からないし、仮に多少近付いたところでこのセミの大合唱は普通の話し声なんて聞かせてくれないだろう。

「――お、動いた」

 自分も動きながら、念の為死角だった場所に八尾と話していた相手がいないか確認する。だが八尾は一人で立ち止まっていたのか、それとも相手はもう去ってしまったのか、尾城には彼以外の姿を見つけることはできなかった。


 § § §


「――全っ然見つからねぇわ」

 尾城が八尾の見張りを別の警官と交代して署に戻ると、自席に座る河野が疲れ切った様子で天を仰いでいた。彼の机の上には殴り書きされたようなメモが散らばっており、そこに書かれた数字を見る限り情報を求めて方方に電話でもかけていたのだろう。

「まだ一日じゃないですか。常にこの街にいる保証もないんですし、しょうがないと思いますけど」

 そう言って尾城が帰りに買ってきた冷たい缶コーヒーを渡せば、河野は小さく礼を言いながらそれを受け取って飲み始めた。ゴクゴクと勢い良く数回喉を鳴らしたところで大きな溜息を吐くと、「だとしてもこの顔なら目撃情報くらい出るだろ」と絵の印刷された紙を尾城の方へと突き出す。それは八尾の証言で作成された、偽物の橘椿の似顔絵だった。

「意外とみんな美人には興味ないってことですね。この暑さでそれどころじゃないんじゃないですか?」

 尾城が無意識のうちに目を逸らしてしまったのは、この似顔絵を見るたびに背筋にぞっとしたものが走るからだ。
 似顔絵でも分かるくらいに美人だということもそうだが、何よりその特徴に見覚えがありすぎる。まるで本物の橘と東海林美亜のドッペルゲンガーのような――長い黒髪も、似顔絵から抱く印象も、八尾の母校で東海林美亜の写真を見た時に感じたものと同じなのだ。
 既にそんなよく似た二人の顔を知っているせいもあって、この似顔絵が余計に生々しく感じられる。しかもこの絵は同じような容姿の人物がもう一人いると示しているから、一層尾城の中に嫌悪感を生み出すのだ。

「でも八尾の話じゃあ、毎回真っ黒のワンピースを着てるんだろ? まさか奴に会う直前に着替えてるわけでもあるまいし、こんなクソ暑い中そんな暑そうな格好だったら嫌でも目立つと思うけどな」
「夏物のワンピースでしょう? だったらそこまで暑そうに見えないんじゃないですか?」
「そういうもんかねぇ……」

 納得いかないと言わんばかりの表情で河野が目の前に掲げた似顔絵を睨みつける。それを見て尾城がよくそんな直視できるなと考えていると、「どっかで見たことあるんだけどな」と河野の呟く声が聞こえてきた。

「東海林美亜や本物の橘じゃないですか? 別人だと知らなければ、二人の知人はその似顔絵を見て彼女達の名前を挙げそうですけど」
「んなこと分かってるんだよ。そうじゃなくて、もっとこう、昔にだな……」
「昔って平成初期ですか?」
「ああ? 平成を昔とか言ってんじゃねぇぞ」
「三十年前は十分昔ですよ。俺生まれてませんもん」
「……自分を基準にするんじゃねぇよ」

 河野は溜息を吐きながらそう言うと、缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。空になった缶を机の端に避け、思い出したように尾城の方へと視線を戻す。

「そういえば行ってきたぞ、新宿」

 少し低くなった河野の声に、尾城はそれまでのふざけた雰囲気をしまい込んだ。彼が新宿に行った理由は尾城も知っている――里中の死の詳細を聞くためだ。

「どうだったんですか?」

 河野の隣の席に座り聞く体勢を整える。それを見た河野は自分の手帳を取り出してページを捲くると、静かな声で話しだした。

「四日前――二十四日に雑居ビルの間で遺体となっているのを発見されたらしい。死んだのは恐らく二十三日だそうだ」
「他殺っていうのは確定なんですよね?」
「ああ、首に手で絞められた跡があったってよ。抵抗した痕跡は出てない」
「抵抗してないって、そんなことあります? たとえ自分で首絞めてくれって頼んだとしても、縛られでもしていない限り無意識のうちに抵抗するでしょう」
「首を絞められる前に額を壁に強く打ち付けられていたらしくてな、抵抗できない状態だった可能性が高いそうだ」
「……明確な殺意じゃないっすか」

 首を絞めてしまっただけなら、頭に血が上って咄嗟にやってしまったということもあるだろう。だが頭を打って動けなくなっている相手に追い打ちをかけるようにとなると、犯人が最初から里中を殺そうとしていたとしか考えられない。
 そうでなくとも、正常な感覚を持っている人間の仕業とは尾城には思えなかった。頭を打ったところまでは事故かもしれない。けれど目の前で頭を打った人間が意識を朦朧とさせていたら、普通の感性を持つ人間であれば救急車を呼ぶはずだ。
 そう考えての発言だったが、河野からは意外にも「分からんぞ」という言葉が返された。

「頭を打ったのが自分のせいだって自覚があるなら、慌てて口を封じようとしたとかな。人間追い詰められたらどんな行動するか分からないんだ。普段が聖人君子みたいな奴でも、猟奇的な行動を取るかもしれない」
「また極端な……性悪説ってやつですか?」
「そうは言ってないだろ、パニックになった時の行動なんて予想できないって言ってるだけで。だから元がクソみたいな奴でも、いざとなったら他人を助けるのに全力を尽くす可能性だってあるって話だ」
「そんなこと言ったら誰だって凶悪犯罪を犯しかねないってことじゃないですか」
「そう言ってるんだよ」
「げ」

 それは警察官の発言としてはどうだろう、と尾城が眉根を寄せると、「だから俺は情状酌量ってのがあるんだと思うけどな」と河野は溜息を吐いた。

「ま、そんなこと今はどうだっていいんだよ。話を戻すとだな、里中は殺された可能性が極めて高いから、新宿の連中は俺達が里中に話を聞いた件が関わってるんじゃないかって考えてるらしい。東海林の事件に関する資料寄越せとよ」
「渡すんですか?」
「上に言われたらな。だからそれまでにこっちで片付けときたいんだよ。ってことでお前、いい加減それこっちに渡せ」

 それ、と言われて尾城は何のことか分からず一瞬動きを止めた。答えを得ようと河野の視線の先をなぞるように追っていけば、が視界に入る。と同時に、自分の顔が一気に引き攣るのを感じた。

「……あ、忘れてた」

 河野の視線の先――自分の手の中にはファイルがあった。これは先程外から帰ってきた時に、自分を探していたらしい警官から受け取ったものだ。

「これ、橘の解剖結果だそうです」
「やっと出たか。つーかそんなもん忘れんじゃねぇよ」
「いやぁ、すみません」
「寄越せ」

 尾城の手から書類をひったくった河野は中身を確認していったが、すぐに「微妙だな」と溜息を吐いた。

「やっぱり死因分かりませんでした?」
「いんや、死因は頸髄損傷だとよ。首の骨も折れてたし頭蓋骨にも若干陥没があるみたいだから、どこかしらから落ちて頭で着地っていう可能性が高そうだな。まあ傷の位置やら大きさ的には、転んで頭から突っ込んだっていうのも十分ありそうみたいだが」
「ってことは、落ちたにしてもそこまで高さがなかったってことですよね? 川で落ちるっていうとやっぱり橋でしょうけど、あの辺ってそんなに低い橋あったかな……。頭から落ちたったことは事故か、誰かに突き落とされたか……」
「どっちにしろ、なんで橘が川の方に行ったか、だ。職場と自宅までの往復じゃあ、川の方には行かない。連れ去られたんじゃなければ、何か用があって行ったはずだ」

 河野の言葉を聞きながら、尾城は頭の中に現場付近の地図を思い浮かべた。橘の自宅は職場から一つ隣の駅にある。自宅の方が荒川に近くはあるが、最寄り駅は彼女のマンションを挟んで川の反対側だ。考えられる通勤経路ではそもそも向かわない方向だし、その方向にスーパーなど彼女が行きそうな店もない。
 しかも橘の自宅から荒川まで、一番近い場所でも徒歩で二十分程度はかかるだろう。遺体発見現場となれば更にそこから十分ほど必要なはずだ。
 散歩ということなら有り得るかもしれない。だが彼女の死亡時期は既に梅雨が明けていて本格的な夏が始まっていた。日焼けや化粧崩れを気にする若い女性がそんな季節に散歩をするというイメージは尾城の中にはなく、しかし他にこれという理由も思い浮かばない。
 第一、散歩するにしても日傘くらいは持っていそうなものだが、発見された彼女の所持品にそれはなかった。橘が日頃から日傘を持ち歩くタイプなのであれば、彼女が家を出たのは日が暮れた後とも考えられる。
 橘はどうして川に向かったのだろう――その答えは、現段階で考えても分かりそうにない。尾城は早々に思考を打ち切ると、河野の話を聞いて気になっていたことを思い出した。

「橘が転落死の可能性が高いってなると、東海林美亜と一緒か……。あんなによく似た二人が同じ死に方するなんて変な話ですよね」
「あ?」
「だってそんな偶然あります? 確かに転落死ってそう特殊でもない死に方ですけど、どっちも事故かどうか分からない状況っていうのも偶然にしては一致しすぎですよ。しかも二人共八尾と繋がりがある」
「八尾が殺ったんじゃないかって?」

 怪訝な顔で河野が問う。どこか呆れも感じさせるその表情は、彼が尾城を嗜める時によくする顔だ。不確かな情報で決めつけるな――そんな叱責が飛んでくるかもしれないと気が付いて、尾城は慌てて「そう考えるとすっきりするんですけどね」と誤魔化すように付け足した。

「今ある情報だけじゃそうは言い切れないんで、考えの一つってことで。まあ、橘の件はともかく東海林美亜に関してはもう証拠なんて出ないでしょうし……これで偽の橘も遺体で見つかったりしたら、もう八尾しか考えられないんですけど」
「滅多なこと言うんじゃねぇよ」

 ギロリと河野に睨まれて、「すみません、口が滑りました」と尾城は目を逸らした。
 今のは自分の言い方が悪かった。犯人かもしれないとはいえ、まるで人が死ぬことを望むような口振りになってしまったのだ。結局叱られてしまったと尾城が眉を下げていると、河野が「大体な」と言葉を続けるのが聞こえてきた。

「八尾は誰かに嵌められてるかもしれないんだろ? だったらお前がそう考えることも真犯人とやらの思惑どおりかもしれないじゃねぇか」
「それは確かに……でも女性二人の死と東海林卓の件って何か違う気がしません?」
「……違うっていうのは、相手のタイプのことじゃないんだろ?」

 河野のこういうところが好きだ、と尾城は落ち込んでいた気持ちが晴れるのを感じた。河野は乱暴で厳しいが、自分のような若輩の話もちゃんと聞いてくれる。その上自分が曖昧な言い方をしても、それが何を指していたのか大まかにでも察してくれるのだ。
 お陰で話すのが楽だったし、自分の意見が完全な的外れでもないようにも感じられて気分が良かった。

「そうです。女性二人は振られた腹いせで、東海林卓はそれを問い詰められたから――っていうのも動機としては考えられるんですけど、それならどうして東海林卓の件だけは警察に話したのかなって。他の二件のことみたいに記憶にないって言い続けてれば、いざと言う時に言い逃れできるでしょう? ……まあ、話したって言っても嵌められたって話ですけど」
「それこそ東海林美亜達の方は本当に無関係ってこともあるだろ?」
「そうかもしれませんけど……無関係はないんじゃないかなぁ……」

 これは尾城の勘だった。八尾の言い分どおり真犯人によって周りを固められているだけかもしれないが、どうにもそれだけではない気がしたのだ。
 そう思うのはきっと八尾の態度のせいだろう――亡くなった女性二人に対する、八尾の認識。少なくとも東海林美亜の方は告白までしていたはずなのに、彼女の死後彼は否定している。越野には気まずいだけではないかと言ったが、高校時代ならまだしも今もそうする必要はないのだ。
 警察である自分が聞いたのだから、気まずいという感情よりも警察への信用を優先するだろう。既に聞き込みに行ったと伝えたのに、嘘を続けるのはどこか不自然に感じられた。
 それに、未だ正体の掴めない人間もいる――橘に告白したというストーカーの男だ。容姿の特徴から八尾のことだと思ったが、これも八尾本人が否定している。それもどことなく東海林美亜に対してのものと同じような言い分で――尾城が思考に沈みそうになった時、河野の溜息が聞こえてきた。

「お前はどうあっても八尾を疑いたいわけだ」
「そういうわけじゃないんですよ。でもあんなに似た女性達と人生で三回も出会います? で、そのうち二人は死んでるんですよ?」

 偶然と言えばそれまでなのかもしれない。だが何の変哲もない人生を送っている人間が、たった二十二年の人生で二人も知人を亡くす確率はどれくらいだろうか。
 しかも亡くなったのはどちらも若い女性だ。一般的には死から遠いはずの年頃なのに、それが病死でもなく、災害に遭ったわけでもないともなれば、偶然で片付けるには些か乱暴な気もする――尾城が言外にそう込めて言えば、河野は眉間に皺を寄せて少し考え込むような仕草を見せた。

「……八尾の自宅からは何も出なかったんだよな」
「昨日時点ではそうですね。まだ調査中のものもあるからそっちが――」
「ああ、それ終わったわ。さっき報告あった」
「うわ、自分だって忘れてるじゃないですか!」
「忘れてねぇよ。タイミングがなかっただけだ」
「言い訳……」
「あ?」

 河野から報告書を受け取ると、尾城はさっと目を通した。それを見る限りでは特におかしな部分はなく、既に分かっていたことと同様に〝何も出なかった〟と表現するのが妥当なのだろう。

「確かに、少なくとも東海林卓の件と関係ありそうなものは何も出てませんね」
「おかしくないか?」
「え?」
「八尾の話じゃあ、奴は現場にいたんだろ? それに嵌められそうって話なのに、例の足跡と一致する靴も出なかったのか?」
「……ああ!」

 だから河野は少し考え込んだのか、と尾城は納得した。彼は証拠がない限り特別誰かを強く疑うタイプではないが、その証拠がないせいで逆に八尾が疑わしくなったのだろう。
 尾城は既に八尾本人が例のスニーカーの所持を否定したため忘れていたが、本当に真犯人が存在するのであれば、彼の認識なんて関係ないのだ。八尾に疑いの目を向けるため、真犯人が現場の痕跡と一致する靴を彼の自宅に忍び込ませておいても不思議ではない。

「八尾が嘘を吐いてるのか、それとも第三者が八尾の痕跡を消してあの足跡をつけたのか……嵌めたいって話なのにそれだと意味が分からねぇけどな。ただ窓付近の状態も、足跡を消したって考えたらなんとなくしっくりくる部分もあるし……」
「窓付近?」
「倉庫の窓だよ。東海林が殺された場所だ」

 東海林卓は倉庫の割れた窓に首を押し当てるようにして殺されたと見られている。そしてその近くの地面には遺体を引き摺った跡が残っていたが、遺体まで一本道となっていた他とは違い、そこだけは何度か方向転換したかのように広く物が引き摺られたような跡になっていたのだ。
 尾城は遺体を引き摺る方向に迷ったのだろうと考えていたが、今河野が言ったように、あの場にあった足跡などの痕跡を消そうとしたのだと考えられなくもない。むしろ重たい成人男性の遺体をわざわざ引き摺ったのなら、引き摺ること自体に目的があったと考える方が自然だった。

「言われてみれば確かにそうですけど、八尾を嵌めたい奴がそんなことをするメリットってありますか? 自分の痕跡を消して八尾の足跡をつけるならまだしも、全く関係ないものを残すだなんて……。仮にもしそれをしたのが真犯人ではなく八尾だとしても意味が分からないですよ。自分の痕跡を消してあるなら、知らないふりをしていた方がよっぽどいいのに……」

 現に自分達は八尾が自ら東海林卓の事件への関与を話さなければ、まだ彼を本格的に調べられてすらいないだろう。ならばやはり八尾は誰かに嵌められているのだろうか――彼の証言とちぐはぐな状況が、尾城の頭を混乱させた。せめてそれで八尾が得をするのであれば彼を疑えるが、尾城が考えられる限りでは彼にとって不利にしかならない。

「八尾って人間をもう少し調べてみるか。本当に嘘を吐いてるなら、その目的が分かるかもしれない」

 河野の低い声に、尾城は静かに首肯を返した。
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