アザー・ハーフ

新菜いに

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第七章 境界の罅

27. 向き合えない現実

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 エレナが帰宅の途につく七時間程前、風呂から出た蒼は髪も乾かさないままダイニングで朔と向かい合っていた。

 鎖骨辺りまでの長さがある蒼の髪からは少しずつ水が滴り、寝巻きにしているシャツの首周りに小さな染みを作っている。その染みがあまり大きくならないうちに自身の髪が乾くことを知っている蒼はそれを全く気に留めず、しかし顔に貼り付く前髪だけはしきりに横へと流していた。それは単に髪が邪魔なだけでなく、自分の気持ちを落ち着ける意味もあった。

 ――何から聞けばいいんだろう……。

 朔が自分の質問に答えてくれるか、正直自信がなかった。
 元々蒼の質問に対して全部答えてくれているとは言い難いのだ。朔が調べたいことに関する内容であれば教えてくれるが、そうでなければ大抵はぐらかされるか、聞くなと態度で示されてしまう。

 振礼島にこれ以上首を突っ込むなと言われてしまった今では、どんな内容でも答えてくれない可能性の方が大きかった。

 しかし蒼としても引くことはできない。父親が振礼島に関わって殺されたかもしれない上に、今の蒼は涼介の言葉により朔に対して不信感を抱いてしまっている。

 だが同時に、聞くのが怖いという想いもあった。
 聞いて、もし朔が父親の死に何かしら関わっていたら――そう考えると、自分でも言い知れない感情がじわじわと湧き上がってくる。その居心地の悪さに、蒼は無意識のうちに腕を強く掴んでいた。

「――お前、暫く仕事休めねぇの?」
「え?」

 蒼が自分の葛藤と戦っていると、痺れを切らしたのか朔から声がかかった。しかしその内容は全く想像していなかったもので、思わず蒼は気の抜けた表情で彼を見返す。

「休むって、どういうことですか?」
「……お前のことレオニードに知られたかもしれないんだよ。まぁ、休めなくても俺が見張っとくくらいはできるけど」
「知られたって……?」
「多分ミハイルが死んだとき、奴の仲間が近くにいたはずなんだよ。俺も見られたかもしれねぇが、俺よりもお前の方がミハイルの小屋を出入りしてるのを見られた可能性が高い」

 そう言って、朔はばつが悪そうに顔を背けた。
 そこで蒼は漸く先程の言葉が朔の気遣いだと気が付いたが、嬉しい反面、少し前に感じた得体の知れない感情がこちらを覗き込んでくるかのようで、素直に感謝することができなかった。

 ――でも、これは……。

 ある意味ではチャンスではないか――蒼の耳元で誰かが囁く。レオニードに存在を知られたということは、蒼は当事者になったとも言えるはずだ。
 朔の気遣いを無下にするのは分かっていたが、この状況を喜んでいる自分がいることを蒼には否定できなかった。

「朔さんに聞きたいことがあるんです」
「あ? ……奴からどうやって逃げるか、か?」

 朔の中で先程の話はまだ終わっていなかったのだろう、レオニードに知られたことへの対応について彼は答えようとしているようだったが、蒼は「そうじゃないんです」とそれを止める。

「もし過去に振礼島に行った人間が、その直後本土で殺されているとしたら……どう思います?」

 本当はもっと直接的な表現で聞きたかった。振礼島に関わった人間は何かしらの理由で殺されるのではないか、そして朔はそれに関わっているのではないか、と。しかし蒼にはその勇気は出なかった。
 朔は蒼の言葉に一瞬目を見開いたが、すぐに思案するような表情を浮かべると、少し間をおいてからゆっくりと口を開いた。

「もし本当にそうだとして、別に不思議なことはねぇな」
「……それは、どうしてそう思うんですか?」
「あの島で外部の人間なんて滅多に見ねぇ。新しく島に入る奴もいるが、そういう奴らはすぐに島で仕事を始めるんだよ。そうじゃない人間はとっとと島を出てくけど、同じ奴を何回も見た記憶はない。ま、俺の記憶力が悪いだけかもしれねぇけどな」

 そう言って、朔は煙草に手を伸ばした。今まで吸っていなかったなんて珍しい、と蒼は頭のどこかで朔の様子がいつもと違うのではと感じていたが、それよりも彼の言葉が気になりその考えを追い出す。

 朔の言葉が正しければ、一度島に入って出た人間は、二度と姿を現さない。
 朔の記憶力の問題かもしれないというが、彼と接していて蒼がそれを感じたことはなかった。確かに時々言葉を知らなすぎると思うことはあったが、それは単に勉強不足なだけだろうという印象を持っていた。

「その、すぐに島を出ていく人達というのは、そもそも何で島に来るんですか?」
「さぁな、話したことねぇし」
「ならその人達はどういった人達と話すんですか?」
「知らねぇよ。そこらへん勝手に歩き回って……あぁ、一度だけあったな、話しかけられたこと――」

 朔は記憶を辿るかのように煙草を持った指をクイッと軽く動かすと、少し遠くを見ながら言葉を続けた。

「――『島の責任者を教えろ』だったか? それからなんとかって名前を知ってるかとか聞かれた気もするけど、何年も前だしさすがに思い出せねぇな。そもそも島の責任者って言われてもそんな奴いねぇし、なんかそいつ自身もヤバそうな雰囲気だったからまともに取り合わなかった気がする」

 そう言う朔の表情は、蒼には嘘を言っているようには見えなかった。

「ま、そいつみたいなのが何をしに来たにしろ、例えばレオニードに喧嘩売ったとか、そういうことがあれば殺されてたっておかしくはねぇだろうよ。その場合は島で殺すだろうが、本土で殺されたってんなら逃げた後も追いかけられるくらい怒らせたか、何か都合が悪いことがあったか……どちらにせよ、有り得ない話じゃない」

 あまりに呆気なく肯定され、蒼はどうしたらいいか分からなくなっていた。朔には否定して欲しかったのかもしれない。島に関わったから殺されるだなんて、そんなこと有り得ない――そう言ってもらえれば、それだけで朔に対する自分の中の疑惑が払拭されそうだったのだ。

 しかし朔はあっさりと肯定した。それも推測の域を出ないにも拘わらず、だ。そのことが表すのは、それだけ可能性が高い話だということだろう。

 ――朔さんは、なのだろうか……。

 朔の口ぶりでは彼自身が外部の人間の殺害に関わっているということはなさそうだったが、それを特に異常だと感じていない様子こそ蒼の目には異常に映った。
 もしかしたら朔は、人が人を殺すことについて何とも思っていないのかもしれない――自分の常識とは違う環境で育ってきたのだろうということは予想していたが、突如訪れた実感に蒼はどうしたらいいのか分からなくなっていた。

 すう、と首筋が冷えた。それは濡れた襟元の冷たさだった。
 湿っぽい嫌な寒気に蒼はいつの間にか俯き、時折灰皿に落とされる煙草の灰をぼんやりと眺める。

 そのまま沈黙が続くかと思われた時、テーブル脇に置かれたバッグの中で、蒼のスマートフォンが小さく鳴った。

 居辛さを感じていた蒼は無意識のうちにスマートフォンを取り出すと、そこに表示されていた通知に思わず目を見開いた。「週末遊びに行かない?」と、昼間連絡先を交換したばかりの涼介から送られてきた、今の雰囲気とは全く似合わないメッセージに呆気に取られたのだ。

 蒼は咄嗟に朔を見やったが、状況を知らない彼は訝しげに眉を顰めるだけだ。知らないうちに開きかけていた口はすぐに閉じられ、蒼はそっとスマートフォンの画面を下にしてテーブルの上に置いた。

 見られて困るものではない。しかし朔と涼介、まるで対極にあるような二人の雰囲気に蒼の中で何かがざわついたのは事実だった。
 涼介と一緒にいる間は、人を殺すだの何だのと言った物騒な言葉を聞くことはないのだろう。一方で朔と関わり続ければ、それは言葉だけでなく現実として起こりうるのだ。

 そっと、目を閉じて考える。
 自分が望むのはどちらなのか。安全な場所にいれば、知りたいことは何も得られない。しかし真実に近づこうとすれば、危険が影のようについて回るだろう。

 ――結局、私は……。

 少ししてからゆっくりと目を開けると、蒼は徐に口を開いた。

「朔さんは、人を殺したことあるんですか?」

 自分でも何を聞いているのだろうと思っていた。そんなことを聞いてどうするのだ、と。しかしそこに、自分と朔の間にある隔たりのようなものの正体がある気がしたのだ。

 朔は蒼の突然の質問に目を見開いたが、すぐにその視線を落としそのまま押し黙った。灰皿に添えられた煙草の先が、じわりじわりと灰になっていく。
 ぽとっ……と伸びすぎた灰が灰皿に落ちる音さえ聞こえそうな沈黙の後、朔はゆっくりと蒼の方へと視線を動かした。

「……俺は――」
「やっぱりいいです」
「――は?」

 朔の口から言葉が発せられると同時に、蒼は咄嗟にそれを制していた。自分から聞いたことだったが、どこかではぐらかされることを期待していたのかもしれない。
 しかし自分の方を向き直った朔の表情を見た瞬間、彼が正直に答えてくれそうだと感じてしまったのだ。

 そして、答えを聞くのが恐ろしくなった。

 否定してくれればまだいい、しかし肯定された場合――それを考えると、人殺しと罵るべきなのか、正直に話してくれたと安堵するべきなのか、自分でもどうしたらいいか分からなかったのだ。

 自分の言葉を遮られた朔は蒼の行動に腹を立てたが、彼女が泣きそうな顔になっているのに気が付いて文句を言おうとした口を閉じた。蒼の考えていることなど朔には知る由もなかったが、レオニードのような人殺しに狙われるかもしれないと話したばかりだったことを思い出し、何かしら彼女なりに深刻な問題があるのだろうと一人納得する。

 自分に人を殺したことがあるかと聞いてきたのも、そのせいだろう――最近妙に馴れ馴れしくなっていたが、やっと自分に対しても警戒心を持つようになったかと朔は小さく息を吐いた。

「色々聞いといてすみません。一旦、今日はここまでということで」
「……おう」

 蒼はテーブルの上のスマートフォンを乱暴に掴み取り、逃げるようにして二階の自室へと向かった。
 ほんの少しの距離なのにやけに遠く感じる。それでもどうにか自室に辿り着くと、乱暴に閉めたドアを背にズルズルとへたり込むようにして座り込んだ。未だに動揺している自分を感じながら、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。

 ――何がしたいんだ、私は。

 両手で顔を覆い、一際大きい息を吐いた。ちらっと床を見やると、先程持ってきたスマートフォンが無造作に置かれている。

 ――遊んでる場合じゃ、ないんだけど……。

 蒼は緩慢な動きでスマートフォンを手に取ると、メッセージアプリを開いた。
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