アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第九章 謀の上に思い出を

34. 喜べない再会

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 ぽつぽつと降っていた雨は、少しずつその雨脚を強めていった。

 ――最悪、雨降ってる。
 ――傘持って来てないよ。

 あちらこちらから突然の雨にどよめきの声が上がる。それをどこか遠くに聞きながら、朔はまるで幽霊でも見たかのようにその場に立ち尽くし、現実を受け入れようと浅い呼吸を繰り返していた。

 死んだと思っていたはずの人間が生きている。それも味方とは言い切れない状況で。
 無事を喜ぶ気持ちは理解できない状況のせいで行き場を失い、朔の思考を停止させる。

 暫くの間、沈黙が続いた。

 その間も雨は朔を打ち付け、彼の頭を冷やしていく。
 やがて頬に触れる雨粒に鬱陶しさを感じ、漸く朔は雨が降っていることに気が付いた。だが、雨粒を払い除けようとは思わなかった。感情が回復した途端、胸の中に抑えきれない怒りが湧き上がったからだ。
 朔はやっと脚をその場から引き剥がすと、顔を怒りに歪ませ涼介に詰めかかろうと踏み出した。

「リョウ、お前……!」
「待った待った! さすがにこんなところで暴力は目立ちすぎるだろ!」

 未だ混乱していたのが功を奏したのか、その言葉で存外すぐに朔は冷静になった。今度は意識して何度か大きく深呼吸をし、右手をぐっと握り締める。耐え難かったはずの痛みはいつの間にか随分と和らいでいた。

「……どういうつもりだ。なんで生きてたのに今まで何も言わない? なんでお前がレオニードに関わってる? なんであの女に近付いた? なんで……」

 なんで――言葉にできない感情が溢れ出し、朔は辛そうに顔を歪めた。自分の周りの人間は皆死んだと思っていたのに、そうではなかったという喜び。しかしそれを素直に受け入れることができないもどかしさ。朔は奥歯をぎゅっと噛み締め、溢れる気持ちを必死に抑え込む。

 そんな朔の様子を見ながら、涼介は相変わらず困ったように笑っていた。

「悪かった。ちょっと色々込み入った事情があってさ」

 朔が先程までの勢いを失ったからか、ゆっくりと涼介が近付いていく。その光景にあまり現実味を感じられていないのか、朔はぼんやりと「事情?」と聞き返した。

「やっぱり、あの時お前に聖杯盗ませたのはレオニードなのか……?」

 朔の言葉に、涼介は意外とでも言いたげな様子で軽く目を見開いた。

「気付いてたか……。ならレオニードが生きていることは知ってるか?」
「……あぁ、何をしたいかは分からないけどな」
「楽しんでるだけだよ、アイツは。だから中々

 逃げ出せない――その言葉が意味するところを察し、朔は自分の中にあった不安が少しずつ消えていくのを感じていた。
 逃げ出せないということは、逃げ出したいと思っているということだ。それは涼介が自主的にレオニードの側にいるのではなく、やむを得ない事情があってそうしていることを意味していた。

「何か弱味でも握られてんのか?」
「そんなとこ。だから焦ったよ、ゲオルギー――あ、お前が煙草隠したキャップの持ち主なんだけど、アイツが持ってきた写真の女の子調べたらお前が出てきてさ」
「写真?」

 朔の問いかけに、涼介は軽く頷いてみせる。

「その女の子が蒼ちゃんなんだけど、あの子レオニードの仲間の死に際にいたんだよね。その仲間の監視をゲオルギーがしててさ、知らない奴が来たってことで写真に撮ってたんだよ。で、相手は日本人だし同じ日本人の方が怪しまれにくいだろってことで俺が蒼ちゃんのこと調べることになったんだ」

 やはりそうか、と朔は眉を顰めた。蒼がレオニードの仲間に見られたはずだとは思っていたが、実際にそうだと聞かされるとよくも今まで無事でいたものだと、呆れと感心の入り交ざった不思議な感情が湧いてくる。

 ――だから昨日、アイツは襲われたのか。

 涼介の話では、昨日蒼を襲った男――ゲオルギーは元々彼女の顔を知っていたのだ。蒼は突然襲いかかられたと言っていたが、襲われる理由は十分にあったということだろう。

 急に返事を返さなくなった朔に、涼介が不思議そうに声をかける。朔は「あぁ、わり」と思考を中断して涼介に向き直った。

「やっぱりアイツ、ミハイルのとこで見られてたのか」
「……その名前も知ってる、か」

 涼介は目を細めると、少しだけ困ったように苦笑を浮かべた。

「ちょっと待てよ、そうしたらお前あの女のことどうするつもりだったんだ?」

 今までの話からすると、涼介はレオニードの指示で蒼のことを調べるために彼女に近付いたということになる。途中で自分と蒼の関係性に気付いたと言うが、レオニードに存在が知られているのであれば何もしないわけにはいかないだろう。

 真剣な面持ちで蒼の処遇を尋ねる朔に笑いながら、涼介はなんでもないことのように軽い調子で口を開いた。

「相手にもよるけど、元々一般人ならどうにかレオニード誤魔化して逃がそうと思ってたよ。でも朔と仲良いみたいだからさ、色々事情知っちゃってるかもしれねぇじゃん? どうしようかなって思って、レオニード達から時間稼ぎしつつ、いざという時には逃げてもらえるくらい信用を得られるようにしつつ……――って思ってたら、ちょっといいなぁと思ってきちゃったんだけど」

 涼介がそう言いながらちらりと朔の様子を窺うと、むっつりとした様子で黙り込んでいる見慣れた弟分の姿が目に入った。微妙に力の入った眉間が表す彼の心情に、思わず笑みが溢れる。

 ――何かが気に入らないけど、自分では何かよく分かってないんだろうな。

 朔が子供の頃から何度も見たことのあるその表情は、彼が不満がある時に見せるものだった。傍目からは無表情との違いは分からないが、何年も共に過ごした涼介には手に取るように彼の感情が分かる。

 面白いものを見たと思いつつも、あまりいじめるのも可哀想かと涼介は話を続けた。

「でも、結果的にはこれでよかったと思ってるよ。お陰でこうしてお前に会う決心がついた」
「……俺は、正直まだどういう顔したらいいか分からねぇよ」

 先程までよりもはっきりと眉間に皺を寄せた朔がぼそりと呟く。

「それでいいよ、朔に対してそれだけのことをしたんだっていうのは分かってる。本当だったらお前が生きてるって知った時点で声をかけたかったんだけどさ、丁度レオニードがヴォルコフを怒らせて手駒が使えなくなっちまって。だから島の生き残りが他にもいるって分かれば、お前まで弱味握られてアイツの言うこと聞かされるのかもって思うと、どうにかお前の存在をレオニードから隠す方を優先したかったんだよ」

 そう言って肩を竦める涼介の姿を見ながら、朔は目を伏せた。

「……弱味なんてねぇよ。全部もう無くなった」

 故郷の島ごと身の回りの人間がいなくなってしまった自分にとって、弱味になりうる存在などいるはずもない――涼介の心配は杞憂だと言いたかったが、うまく言葉が出てこずそのまま押し黙った。

「蒼ちゃんは?」
「は?」
「蒼ちゃんの話聞いてると、朔ってば結構蒼ちゃんには気を許してるみたいだから」

 何を言っているのか、と朔は思い切り顔を顰めた。「んなわけねぇだろ」、涼介にそう言い返すも、彼は不思議そうに首を傾げるばかりだ。

「そ? でもゲオルギー殺したのお前だろ?」
「……だったら何だ」

 涼介の言葉の意図が分からず、思わずぶっきらぼうな返事になる。

「朔が人を殺すっていうのがちょっと意外だったんだけどさ、多分あの場に蒼ちゃんもいたんだろ? だから首を刺すだなんてちょっと不自然な殺し方になった。既に腹を刺されて動きが鈍ってる相手なら、他にやりようあっただろうに。その辺の事情はよく分かんないけど」
「それは……」

 朔の右手に生々しい感覚が蘇る。首を刺すのが何故不自然なのかは分からなかったが、確かに涼介の言う通り、止めを刺すためなら自分はゲオルギーの胸を狙っただろう。
 正直首のどこを狙えば確実なのかなど知らなかったし、体勢的にも胸の方が刺しやすかった。それをしなかったのは、既に死にかけていたゲオルギーの死因が腹の傷ではないと蒼に印象づけるためだ。

 恐らくその場で応急処置をしたところで、ゲオルギーの死は回避できなかった。それは彼の身体から発せられていた黒い煙が証明している。蒼がミハイルの死に際に見たというそれは、命が尽きるときに発せられるものだろうと朔は考えていた。

 だが、蒼はそれを知らない。自分の与えた傷が致命傷になっているのだと知らないのであれば、彼女の常識の範囲内での致命傷を作る必要があった。

 ――じゃなきゃ多分、アイツは……。

 初めて人を殺すつもりで相手を傷つけたことを思い出し、朔はそのまま涼介に事実を吐露したくなった。
 しかし彼から蒼の耳に入らないとも限らない。朔はそっと言葉を飲み込み、涼介から続く言葉を待った。

「――とりあえずさ、朔が俺に対してまだ思うところがあるのは分かるよ。でも一個だけやらなきゃいけないことがある」
「やらなきゃいけないこと?」
「蒼ちゃん、守らないとだろ? ゲオルギーは死んだけど、レオニードだって蒼ちゃんの存在は知ってる。ゲオルギーの死に関わってるってことだって俺がどうにか誤魔化してるけど、もし知られたらアイツが自分で蒼ちゃんにちょっかいかけたっておかしくない。蒼ちゃんみたいな子ほど、レオニードからしたらいじめ甲斐があるだろうし」

 言われてみれば、と朔は溜息を吐いた。気付けば涼介に対する疑いはなくなっていたし、彼が蒼を傷つける気はないとは分かったが、根本的な問題が解決していないのだ。

 とはいえ、蒼に逃げろと言っても素直に逃げるとは朔には思えなかった。命を狙われる危険については実感したようだが、それで引き下がるような性格でもないだろう。
 どうしたものか、と朔は不機嫌そうに顔を歪めた。

「……どうしろってんだよ」
「正直に言おうかと思ってる」
「何を?」
「俺が、レオニード側の人間だって」
「お前……それは――」

 やめてくれ――今の彼女がどれだけ“普通”を切望し、それを涼介に求めているか知っている朔は思わずそう言いそうになった。
 しかし、だからと言って代わりの案など持っていないことを思い出して咄嗟に口を閉じる。今考えなければならないのは蒼の安全。涼介の案でそれが守られるならば、自分の甘さで止めることなどできない。たとえそれが、蒼の心を傷付けるものだとしても。

「信用失うかもしれないけどさ、自分の命が関わってるんだから蒼ちゃんには使えるものは使ってもらわなきゃ。とりあえず蒼ちゃんには、俺が彼女をレオニードから逃したいって思ってるってことだけ信じてもらえればいいかなって」

 多分、それが一番いいんだろう――朔は涼介の言葉を聞きながら目を伏せた。

「……リョウが自分でアイツに言うのか?」
「そのつもりだよ。本当ならもっと早くに言ってるはずだったのに、つい蒼ちゃんと喋るのが楽しくなっちゃった俺が悪いしな」

 涼介が言い終わると、朔は下を向いたままぼそりと呟いた。

「……俺が言う」
「え?」
「俺がアイツに話す。俺だってアイツを巻き込んでるんだ」

 ――リョウ本人に言われるくらいなら、俺に言われた方がマシだろう……。

 また蒼の泣きそうな顔を見るのかと気持ちが暗くなりつつも、そうするべきなのだと自分に言い聞かせる。

 涼介はそんな朔を見ながら、そっと口元に笑みを浮かべた。


 § § §

「あれ、生き残りかな――」

 朔と涼介の再会を、少し離れたところから見ている者達がいた。長身の女性と、十代半ばと思われる少年の二人組だ。

「――遠くてよく分からないけど、アンタはどう思う?」
「さあ? どっちでもいいわ」

 少年に問いかけられた女性は平静を装いながらそう答える。少年はその様子に怪しげな笑みを浮かべると、「僕には嘘吐いてもいいんだけどさ――」と女性を見上げた。

「――レオには、隠し事ナシだよ?」

 ひゅっと、女性が喉を鳴らす。貼り付けた無表情で少年を目を合わせると、すぐにその視線を監視していた男に戻し、そっと眉根を寄せた。

「当たり前じゃない」

 先程まで監視対象の男と共にいた女性の姿を思い出しながら、心の中で「早く逃げて」と呟いた。
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