アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第十三章 亡霊の足跡

51. 避けたかった覚悟

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 ――……やられた。

 エレナの姿を目にした瞬間、涼介は自分がレオニードの思惑通りに動かされていたことを悟った。
 「エレーナを殺した」と、確かにレオニードはそう言ったのだ。それを信じたのは、ミハイルによるヴォルコフへの密告の件で、彼が相当腹を立てていたことを知っていたからだ。

 ──くそ、なんで疑わなかった。

 せめてレオニードに殺した理由を聞けばよかったと後悔した。もしその理由に違和感を覚えたのであれば、自分だったら確実にその真偽を確かめていたはずなのに。

 だが後悔したところでもう遅い。エレナが生きている――その事実は、涼介にとって都合の悪い事態が起きていることを示唆していた。

 ――一体、彼女は側だ?

 涼介の認識では、レオニードの仲間はもうルカしかいないはずだった。だから蒼がレオニードの元に連れ去られたのであれば、必然的にそれを実行したのはルカということになる。可能かどうかで言えばレオニードも有り得たが、今は屋敷を空にしたくはないはずだ。誰か一人残らなければならないのであれば、確実にレオニードが残るだろう。

 蒼の自宅付近でレオニードからの電話を受けた時、涼介の中にはその前提があった。そのため蒼が攫われてからまだそんなに時間が経っていないという状況もあり、ルカは彼女を連れ去った後、そのままレオニードの近くにいると考えたのだ。それならば自分にもう監視は付いていないはずだと思って、確かめに行ってしまった――隠しておいた聖杯が、まだ無事であると。

 だが今、ここにいるのはルカではなくエレナだ。彼女もまた蒼と同様に無理矢理連れて来られただけかもしれない。しかしもしそうなら、レオニードが自分に彼女を殺したと嘘を吐く理由がない。そうまでしてわざわざ生かしているということは、何かしら役割を持たせた可能性が高いのだ。

 ――エレーナに蒼ちゃんを攫わせた? ……だとしたら、目的は蒼ちゃんじゃない。

 そもそも涼介は、何故レオニードが蒼を攫ったのか、正確な答えを持っていなかった。単純に痺れを切らしたのか、遊び半分か、朔をおびき出すためかもしれない。とにかく唯一の手駒であるルカを使ってやることであれば、蒼を攫うこと自体がレオニードの目的だろうと思ったのだ。

 しかしレオニードの指示通りに動ける人間が二人いた場合、蒼の誘拐は全く別の意味を持つ。

 ──見られていたんだ。

 思えばタイミングが良すぎた。蒼の携帯電話から電話がかかってきたのは、涼介が朔と合流してすぐのこと。誰かが監視していなければ、狙ってできるわけがない。そしてその誰かとは恐らくルカだろう。

 ──朔を誘き出したいなら、朔の携帯にかければいい。なのに俺に電話してきたのは、俺に聖杯の場所まで案内させるためだ。

 朔と涼介を自分の元に連れて来たいだけであれば、朔に電話をかけて、蒼の名前を出しながら涼介と一緒に来いとでも言えば簡単に済む話だ。
 ただし、それをすれば朔もまた涼介の警戒対象になる。もし朔がレオニードと話しているところを目にしていれば、涼介は彼がレオニードに余計なことを吹き込まれたのではないかと疑っていただろう。そうなれば自分のレオニードに対する秘密――聖杯の在り処を朔に明かすような真似は絶対にしない。

 レオニードは気付いていたのだ。涼介が、最後の手段として朔を利用することすら厭わないことを。だから涼介がそうしようと思えるように、彼の前で朔と接点を持つことを避けたのだ。
 そして涼介に揺さぶりをかけた。レオニードが、涼介の持つ聖杯の存在を知っているかもしれないと匂わせることで。

 涼介がその無事を確認したくなるように。ルカにその場所を見つけさせるために。

 『なんであの日、あんなすぐにЛюдаリューダの家に来れたんだ?』

 レオニードが電話口で言っていたその言葉は、確かに涼介を動揺させた。

 Людаリューダ――エレナの姉であるリュドミーラの家が、あの日の集合場所だった。倉庫で涼介から聖杯を受け取ったゲオルギー達が先に待ち、朝になったら涼介とレオニードが合流する、そんな手筈だった。
 しかし実際には、涼介は朝を待たずしてそこに向かおうとしていた。レオニードよりも早く着くためだったが、どういうわけか彼もまた予定よりも随分早くにそこに来ていたのだ。

 そうして露見した涼介の動き。その予定外の行動を、レオニードが疑わないはずがない。直前に起きた異常な出来事で有耶無耶になってくれていればという涼介の願望は、あの一言であっという間に消え去った。そして代わりに生まれた焦燥感は、涼介をレオニードの思惑通りに動かすには十分だった。

 レオニードに秘密を知られているかもしれないという焦りと、彼への対抗手段である朔が自分側にいるのだという余裕。聖杯が無事なら、今ならまだ間に合う――そう考えて、涼介は行動した。レオニードが涼介の隠し持つ聖杯の在り処に気付く前に、朔を自由に動かせるうちに、自分が欲しいものを手に入れる必要がある、と。

 ――全然間に合ってなかったってことか。

 これなら一旦姿を晦ました方が良かったと涼介は後悔した。彼が朔と共にここに来たのは、朔を囮にするため――朔にレオニードの相手をさせている間に、自分の探し物に専念するためだった。部屋のことで嘘を教えたのも、朔を自分の目的である三階に近付けないためだ。結果として三階には目的の人物はいなかったが、もしいた場合、朔と鉢合わせることで涼介が吐いている最大の嘘が露呈し、彼がその場で敵に回ってしまう可能性があった。

 ──全部お見通しってわけね……。

 洋館に朔を伴って来ることも、到着後は別行動するであろうことも。家主を三階から地下へ移したのは、恐らくは時間を稼ぐため。涼介が一人で三階に向かうであろうことを見越しての行動だったのだ。

 ――なら既に、朔は俺を疑っている……?

 レオニードが何のために時間を稼いだのか、涼介には考えずとも分かった。
 彼は朔を引き込もうとしていたのだ。とは言え朔にその素性を明かしたところで、彼が急に兄弟愛に目覚めてレオニードに従うということなど有り得ない。

 だが、蒼はどうだろうか。
 蒼という人間は、情に訴えかければすぐに絆されるだろう。そして朔はそんな彼女に相当気を許している。本来の涼介の計画では、それは喜ばしいことだった。最悪朔が自分に疑念を抱いたとしても、蒼さえ手元に置いておけばいい――涼介が自分のために用意したそれを使えば、多少朔の信用を失ったところで問題などなかった。

 だがそれは、レオニードにとっても同じなのだ。
 蒼の口からレオニードにとって都合のいい情報を与えられれば、朔はそれが罠かもしれないと思っても受け入れてしまうだろう。元々彼が気を許した人間に対しては情に厚くなるというのもあるが、一度身の回りの人間全てを失っているということを考えると無理もないのだ。たとえその情報が、朔の中の憎しみの、その根本に関わるものだとしても。

 だから涼介は行動を急いだ。蒼の本当の価値がレオニードに知られてしまう前に。
 しかし彼が時間を稼いだということは、既に知られてしまっていたということだ。

 ――たとえ蒼ちゃんの言葉だけじゃ弱くても、もしルカが聖杯を持っていた場合、レオニードの言葉の証拠になる。あいつの口からバラされれば、朔はその場で俺を敵と見做すかもしれない。

 それだけは避けたかった。そうなれば涼介は非常に不利な状況に陥るし、目的を達成するためにはどんな障害であれ排除しなければならない。

 だがいつかはそうなる日が来ると、ずっと覚悟はしていた。あの日、予定外の事が起きてしまってからずっと。

 ――何が起こっても、全部なかったことにすればいい。

 だから涼介は決断した。自分のその目的のために、一番の邪魔になるものは消してしまえ、と。

「死んでよ、朔」

 慣れたはずの感触が、妙に腕に残った。


 § § §

「――朔さん!!」

 吹き抜けとなった玄関ホールに、蒼の悲鳴が響き渡った。

「は……リョウ、お前……」
「抜かない方がいいぜ? そこ結構血が出るはずだから、準備もなしに抜いたらろくに止血できなくてすぐにやばくなる。って言っても、抜かなければ抜かないで全身に銀の毒が回って死ぬんだけど」
「……なん、で……外した……?」
「外した? ――あぁ、心臓を一突きにすればよかっただろってこと? 意外と難しいんだよ、それ。そもそもそんなナイフじゃ、お前みたいにガタイのいい奴の心臓なんて狙えないし」

 涼介が言い終わると共に、朔は崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。辛うじて倒れなかったのは、近くに階段と繋がる手摺りがあったからだ。いくら全身の火傷のせいで痛みに慣れているとはいえ、腹部を刺されるのは初めての経験。いつまでも立っていられるはずもない。

 しかし刺されたはずなのにいつもと同じ痛みも感じるのは、涼介の言うとおり銀が触れたところから火傷が戻っていっているからなのだろう。未知の痛みよりも耐えやすい慣れ親しんだ痛みに、この状況で意識を失わずに済んだと朔は安堵したが、同時に身体を内側から侵食されて死ぬという現実を直視せざるを得なかった。

「朔さん!」

 不意に近くから聞こえた声に顔を上げれば、相変わらず目に涙を溜めた蒼がそこにいた。

 ――コイツ、今日ずっと泣いてんじゃねぇの……?

 先程もそうだが、再会した時も既に目を腫らしていたはずだ。この状況で全く関係のないことを考えている自分に思わず苦笑を零すと、それを見ていた蒼がキッと目を釣り上げた。

「笑ってる場合じゃないです! 早く手当てしないと……!」
「一時間」
「え……?」

 朔の傷を前に慌てふためく蒼に、涼介が静かに時間を告げる。

「それを刺しっぱなしだと、もって一時間かな。一時間後には全身に火傷が広がって、たとえ銀に触れていなくても、もうどうにもならなくなる。これはミハイルの前に実験で確認済み」

 事も無げに状況を告げる涼介に、蒼の中でレオニードとのやり取りが蘇る。人を平気で痛めつけるレオニードと、そんな彼とそう変わらないという涼介。証拠のないそれを本気で信じてはいなかったが、今の彼を見ていると本当にそうなのだと思わざるを得なかった。

「涼介さんは、やっぱり……」
「やっぱり、何?」
「……貴方は、人を平気で殺せる人なんですね」

 蒼の言葉に涼介は目を見開くと、困ったように優しく微笑んだ。それがあまりに今の状況とかけ離れすぎていて、蒼の中には一瞬期待が生まれる。しかし直後に彼の口から放たれた言葉によって、すぐに現実に引き戻された。

「そうだね、もうちょっと何か感じられれば良かったんだけど」
「……否定、しないんですね。人殺しだって」
「今否定したって、このまま朔が死ねば嘘になるでしょ? それに人殺しって言うなら、朔だってゲオルギーを殺したじゃん」

 いつもと全く変わらない様子の涼介に、蒼は眉を顰める。しかも涼介の物言いは朔と今の彼が同じだと言っているようなもので、それが蒼の感情を荒立たせた。

「朔さんは! 朔さんは、私を助けようとして……!」
「人殺しは人殺しでしょ。何が違うの?」
「全然違いますよ! 涼介さんは、涼介さんが朔さんを殺そうとするのは──」
「無駄よ、蒼ちゃん」

 蒼が必死に自身の考えを涼介に訴えようとしていると、落ち着いたエレナの声がそれを遮った。

「エレナさん……?」
「蒼ちゃんが言いたいことは分かるつもりよ。でも、涼介には今更そんなこと言ったって無駄よ」
「どうして……」

 蒼にはエレナの言うことがすぐには分からなかった。蒼の中で涼介という人物は、つい先日まで優しく、信頼できる人間だったのだ。ここに来て彼の本性が少しずつ明らかになってきたとは言え、蒼はまだその感覚を捨て切ることができていない。
 だから、まだ自分の言葉が届くと思っていたのだ。だからこそ、懸命に涼介の言葉に反論しようとしていたのだ。

 エレナにも蒼の心情は伝わっているのだろう、彼女は困ったように眉根を寄せながら蒼を見ている。少しの間言い辛そうに少しだけ視線を彷徨わせたが、やがてじっと蒼に目を合わせ、重たそうに口を開いた。

「振礼島には、島を守るための仕事があるの。その仕事は、時には人を殺すこともあるわ」
「え……?」
「レオニードも涼介も、その仕事をしていたのよ」

 そう言って、エレナは顔を伏せた。いくらか表現は和らげたつもりだが、この状況では人を殺すということだけは誤魔化すことができない。最初から涼介がそういう人物だと知った上で付き合いのあった自分とは違って、蒼が何も知らずに涼介と知り合ったのだということはすぐに分かった。
 まるで血の気の引いたような今の彼女の反応が、それを如実に示している。自分でさえ涼介には好印象を抱いていたというのに、彼の素性という警戒すべき点を知らなかった蒼は、それなりに彼に心を開いていたはずだ。

 ――多分、彼も……。

 エレナはそっと朔に視線を移した。蒼程ではないが、その顔には驚きの感情が浮かんでいる。

「リョウ……本当、なのか?」

 朔の絞り出したような声は、怪我のせいなのか、それとも彼の感情によるものなのか。涼介を睨みつける視線も、エレナには強がりのようにしか見えなかった。

「そ。じゃないとおかしいだろ? 俺とレオニードが知り合いだって」
「なんで、殺すんですか……?」

 蒼はやっとのことでその疑問を口に出した。頭はまだ働いていなかったが、それでも、それだけは聞かなければならないと思ったのだ。

「さあ? 細かいことは知らないけど、あの島には外に漏らしたくない秘密っていうのがたくさんあるらしい。だからそれを知ってしまった人間も、知ろうと嗅ぎ回る人間も、偉い人にとっては邪魔なんだろうね」
「偉い人って……。でも、待ってください。それって……知ろうと嗅ぎ回るって……」

 知りたいことはたくさんあった。涼介の言う偉い人というのが、どの立場の人間を指すのか。情報規制を敷けるような立場であることは明らかで、それはかつて自分が想像した振礼島を取り巻くものに近いのではないか。
 冷静な自分は、そちらの方を追求すべきだと告げていた。だが蒼の頭の中に浮かんだ人影が、彼女の冷静な判断を妨げていた。

 ぼんやりとした人影は、次第にその姿をはっきりとさせていく。やがて目の前に現れたのは、幼い頃の自分が尊敬し、憧れていた人物。自分と同じように、振礼島について調べようとした――。

「蒼ちゃんのお父さんも、そうだったよ」

 ――なんで知っているの?

 初めて抱いたわけではないその疑問の答えを、今はもう知りたくなかった。
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