アザー・ハーフ

新菜いに/丹㑚仁戻

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第十五章 残滓の声

61. 異変の正体

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 ドサ、と殆ど転ぶようにして、蒼の上半身は足場に着地することができた。不安定な体勢に慌てて両手に力を込め、宙に投げ出されたままの両脚を足場に手繰り寄せる。
 その時にふと脚に何かが触れる感触がして見てみれば、人々が蒼を掴もうと手を伸ばしているのが見えた。

「嫌……!」

 相手を蹴ってしまうことに構うことなく、振り払うために脚をバタつかせる。そのまま急いで身体を引き寄せ、なんとか足場の中に全身を収めた。

 ――まだ、生きてる……。

 未だ激しく鼓動する心臓の音を感じながら、蒼は改めて朔を探して辺りを見渡す。先程よりもだいぶ近くなったが、まだ手を伸ばしても届きそうにない距離に朔はいた。

「朔さん!」

 呼びかけても、朔がこちらを振り向くことはない。蒼が声を出すたびに無数の顔が蒼の方を見るというのに、何故か朔だけは全く反応することがなかった。

 ――彼らと朔さんの違い……。朔さんは、生きているから……?

 ここではない場所で朔が生きているから、ここにいる朔には意識がないのだろうか。もし意識がないのであれば、自分の声が届くことはないのでは――蒼の中に一気に不安が押し寄せた。

 朔を助けようとここまで近付いたはいいが、肝心の朔本人に意識がないのであれば更に近付く必要がある。
 しかし、周りには生贄となった人々。彼らの目的は分からないが、今も足場の下で蒼を捕らえようと手を伸ばしてきているからには、ここに落ちたら無事に済むとは思えない。

 ――だからって、帰ることも……。

 蒼はちらりと自分が跳んできた方を窺った。こちらに跳ぶ時は助走を付けられたが、今いる場所にはそんなスペースはない。助走を付けてやっと届いた距離なのだから、それ無しでは届くことはないだろう。
 しかも、戻る時には朔も一緒のつもりだ。たとえ朔と上手く合流できたとしても、声の届かない、意思を持たない彼が自発的に跳んでくれるとは思えなかった。

「はは……詰んでるじゃん……」

 もう戻れない――その現実に、蒼の口からは乾いた笑みが零れる。

「何やってんのかなぁ、私……。――でもだったら尚更、何もしないわけにはいかないか」

 後に引けなくなったからだろうか、蒼は妙に吹っ切れた気分になっていた。

 だからと言って、穴の中に飛び込む勇気はない。人が襲ってくるかどうか以前に、燃え滾っているのだ。彼らは代償として引き込まれた命だから未だに生きていられるのかもしれないが、ここに来た経緯の分からない自分がどうなるかは検討もつかない。

 もし、落ちてすぐ炎に包まれ死んでしまったら――それこそ無駄死になのだ。だったら、ここからどうにかして朔を近くに引き寄せるしかない。

 ――考えろ。意識がない相手を、どうやってこちらに寄せる……?

 蒼は目を閉じて記憶を辿った。朔と他の人々との違い――こちらの声に反応するかどうか。意識を持っていそうかどうか。そして――。

「――もしかして、呼んでた……?」

 そもそも自分は、何故あれが朔だと一目で分かったのか。目の前の状況に考えてすらいなかったが、何か理由があったはずだ。

 ――不思議と、目が引かれたんだ……でも、どうして? 知っている感覚だったから……?

 一体どこで知ったのか。更に記憶を辿ると、それはまだここに来る前、生身の朔と向かい合っている時だと思い至る。

 朔の身体に手を入れた時、襲ってきた感覚。朔の感情ではなく、それよりももっと深いところからやって来た全く得体の知れない存在。それなのに、あの時の自分はそれを知っているように感じたはずだ。

「知ってると思ったのは、あれも朔さんだったから……?」

 厳密に言えば朔ではないのかもしれない。朔の意識は今、生身の朔と共にあるはずだ。だが彼に触れた時、彼の奥底で苦痛に喘ぎながら自分を引きずり込もうとしていたのは、こちらの朔なのではないか。その時の感覚と同じものを感じたから、炎の中にいるのが朔だと分かったのではないか。

 ――私が聞こうとすれば、まだ聞こえる……?

 ここに来る前に朔から手を離した覚えはない。もしまだ朔を通して目の前の存在と繋がっているのであれば、声が届くのではないか。

 そう思って、蒼はそっと目を閉じた。朔の中に手を入れた時の感覚を思い出しながら、その奥にいる存在の気配を辿る。

 ――……いた。

 同時に身体を襲った苦痛に、蒼は顔を歪めた。この感覚だ、先程自分を呼んでいたのは――そう確信すると、蒼はゆっくりと口を開いた。

「朔さん」

 ざわり、背筋を何かが撫でる。咄嗟に目を開けた蒼の視界に映ったのは、こちらへと歩いてくる朔の姿だった。

 ――伝わった……。

 ゆらゆらと、周りよりも圧倒的に心許ない足取りながら、それでも着実に蒼の方へと近付いてくる。時折他の人々に押されはするが、その歩みを止めることはない。

「朔さん!」

 すぐそこまで朔が近付くと、蒼は名前を呼びながら手を伸ばす。

「熱っ!?」

 どうにか触れた朔の肩から伝わった熱に、思わず悲鳴を上げた。

 ――焼かれてるから……? この炎の中にいるんだから当然か……。

 蒼は一瞬にして真っ赤に腫れた掌を見ながら、自嘲するような笑みを零した。
 炎の中にいる人間を引っ張り出そうとしているのだから、自分も焼かれる覚悟を持たなければならない。たとえ朔が自分の意思でここに登ろうとしてくれても、直前まで焼かれていた身体には相当な熱が残っているだろう。この狭い空間で身を寄せ合えば、どちらにせよ無傷ではいられない。

「いつもみたいに、後で治してくださいよ」

 もう治らないかもしれない――何故か脳裏を過ぎった予感からは目を逸らして、蒼は再び朔に手を伸ばした。

「ああぁぁあああ!」

 反射的に熱から逃れようとする身体の意思は無視して、蒼は必死に朔の肩を掴み続けた。肩から辿ってどうにか腕を持つことに成功すると、身を乗り出してその身体を引き寄せようと力を込める。

 そんな蒼を、周りにいた者達が見逃すはずもない。

 蒼の腕を、身体を、顔を、無数の焼け爛れた腕が捕らえようと触れてくる。触れられた箇所からまた熱と痛みが伝わり、蒼はあまりの痛みに気を失いそうになった。

 痛い、熱い、苦しい。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか。どうして自分がここまでしなければならないのか。蒼の中に疑問がどんどん浮かび上がり、彼女の心を覆っていった。

 この朔を助けたところで、本当に意味があるとは限らない。そもそもこれが本当に朔なのかも証拠がない。ならば自分が今しているのは、ただ自分を苦しめるだけの無駄な行動ではないのか。手を離すべきではないのか。

 そうやって言い訳をして現状から逃げ出そうとする自分を、蒼は朔を助けるためだと叱咤する。朔に何度も助けられているのに、その自分が朔を助けなくてどうするのか。何もしなければ朔は本当に死んでしまうかもしれないのに、自分が苦しいからといって逃げてもいいのか。
 感覚の無くなってきた腕に、蒼が力を込めなおそうとした時だった。

 ――本当に助けたいの?

 突然頭に浮かんだ思考に、蒼は言葉を失った。

「私……なんで、そんなこと……」

 ――思うはずがない? 本当に?

 蒼にはわけが分からなかった。自分の考えが、自然と自分の気持ちに背くのだ。

 ――助けても無駄だって、分かってるでしょ? なのに自分の身を危険に晒すの?

「違う……違う違う! 無駄じゃない! 無駄じゃ……」

 ――こんなに苦しい思いをすることになったのは、朔さんのせいなのに。

 あの日、朔が蒼の前に現れたから──いくら振礼島を調べたのが自分の意思とはいえ、朔に出会わなければここまで深く関わっていなかったはずだ。

 朔がいなければ死んでいた。けれど朔がいなければ、こんな苦痛を味わうことはなかった。

「そんなの……! 逃げないって、さっき決めたのに……!」

 自分の中に浮かび上がる考えに涙を浮かべながら、それでも蒼は必死に頭を振った。今ここで諦めては、先程涼介の手を取ろうとした時から何も変わっていない。できることがあるなら頑張ろうと決めたのに、この短時間でまた逃げようとする自分が情けなかった。

 ――状況が変わったんだよ。ほら、その手を離せば楽になれる。

 蒼はいつの間にか、腕に込めた力が先程よりも弱くなっているのに気が付いた。もう朔を引っ張り上げようとしていない、申し訳程度に添えているだけだ。

 逃げようとしている自分が嫌だと思っていたはずなのに、それのどこが悪いのかと考え始めている自分がいる。あれだけ情けないと思ったはずなのに、そんなことはないと心の中で誰かが囁く。

「楽に……」

 手を離しさえすれば、この苦痛から逃れられる。そう思うと、蒼は自分の手から更に力が抜けるのを感じた。

 ──私が助けなくたって……元々朔さんはずっとここにいたんだから、何も変わらない……。彼がここにいるのは、私のせいじゃない……。

 この責任を果たすべきは、自分ではないのだ。自分が今放棄したところで、責められる謂れはない。そう思って、蒼は指先から力を緩めた。

「痛っ……」

 その時、朔に触れる蒼の手を、上から赤い手が覆った。

 蒼は痛みで咄嗟に手を引きそうになったが、赤い手がぎゅっと自分の手を握り締めているせいでそれは叶わなかった。手の持ち主はそのままもう片方の手で朔の身体に触れると、そのまま持ち上げるような動作をし始める。

 ――もしかして、手伝ってくれてる……?

「誰……?」

 他とは違う動きをしているのに、その見た目は他の人々と変わらない。だから顔など分からないはずなのに、一瞬だけ、可愛らしい顔をした女性がにっこりと微笑んだ気がした。

「まだ、間に合うの……?」

 何故かそう言われている気がした。
 何に間に合うのかなど、蒼には分からない。だが、まだ間に合うのにこの手を離していいのか。間に合うと分かって離して、自分は後悔しないのか。

 ――この声は……私だけど、私じゃない。

 聖杯が使われた時から感じていた異変。それは自分の中の嫌な感情を増長し、その責任を他人になすりつけようとしているのだと気が付いた。
 確かに、そういう気持ちが全くなかったのだと言えば嘘になるだろう。誰だって苦しいことからは逃げたい。他人のせいにできるのであればそうしたい。自分の嫌な行動を、そうやって正当化したいのだ。

 ――しかも、レオニードを殺してしまったのなら尚更……。

 普段の自分なら絶対にあんなことはしないだろう。なんとか他の方法を考え、たとえ相手を傷付けたとしても迷わず命を取ろうとすることはないはずだ。

 だが、本当にそうだろうか。あのようにしなければ逃げられなかったのなら、もっと追い込まれていれば、聖杯の影響に関係なくその手段を取っていたのではないだろうか。

 そう考えると、怖くなる。そして同時に呆れ果てた。今だって、自分の行動を聖杯のせいにしようとしているではないか。実際にそうだったのだとしても、少なからず自分の意思が介在していたのに、全てを聖杯のせいにしようとしている。

「そんなの……嫌だ!」

 ぐっと、痛む腕に力を込めた。自分の力で朔の身体など持ち上げられる気がしない。今彼を掴む腕には深い切り傷があるし、それ以前に白かったはずの肌は見る影もない程に焼け爛れている。

 ――でも。

「朔さん、一緒に帰りましょう」

 掴んでいた腕はそのままに。自分の方に引き寄せるのではなく、自分が朔の方へ。

 蒼が身を乗り出して朔の頭に抱きつくと、その瞬間、身体が後ろに引っ張られた。
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