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 香澄は、とりとめもなく浮かぶまま少年に話した。

 恋に落ちて南に向かった父と母のこと。親戚のいなかった香澄にとって、従兄弟のようにも思える藤野の会社の人たちのこと。聞き取りにくいほどの囁きは、しだいに車両に通るほど澄みきった声色に変わっていた。

 両親、会社、自分が好きだった街を香澄は話し続けた。

 話しながら、自分はなんていい人たちに恵まれたのだろうと実感し、時々涙腺が緩んだ。

 お見合いをして出会った晃光のことは話そうかどうか悩んだが、――相手は子供だ。ちらりと述べるだけにとどめた。

「大切な思い出に取ってあるの」

 そんな高価なものではない、仮の婚約指輪に触れて、香澄の話はようやく終わった。

 ずいぶん話しこんでしまったものだ。香澄は我に返って、ふと申し訳ない気持ちに襲われた。

 少年をちらりと見ると、切ないような眩しいような、神妙な表情でこちらを見ていた。まるで大人の眼差しのように一瞬見えてしまって、香澄は少し戸惑った。

「どうしたの?」
「お姉さんの傍にいる人は、きっと幸せだね」

 少年は澄んだ声で囁いた。

 香澄は「そうじゃないのよ」と首を横に振る。

「私の方が、幸福を分けてもらっていたから」

 彼はきょとんとして「そうかな」と小首を傾げた。ずいぶんとあどけない仕草は、香澄に対して打ち解けてきているようだった。初対面の時と比べ、その表情に刺はない。

 香澄は嬉しい気持ちになり、弟がいたらこんな具合だったのだろうか、と考えたりした。ぎこちないながらにせいいっぱい微笑んでみると、少年は何故だか泣きそうな顔をして唇の端を歪めた。

「お姉さんみたいな大人が、近くにいてくれたらよかったのに」
「私……?」
「みんな嫌な奴ばかりなんだ。塾もソロバンも、ピアノのレッスンも、華道や着付けの先生だって腹の中は真っ黒さ。こんなことを学んでいたって、『お前らみたいな大人にしかならないのなら嫌だ』って、俺たち兄弟はいつも思ってるんだよ」

 ずいぶんと無理を強いられているのだろう。

 そう、兄弟がいるのね、なんて香澄は質問することも躊躇われ、ただ静かに耳を傾けることしか出来なかった。

「あいつらは、俺たちのために教えているんじゃないんだ。みんな、父さんや母さんに褒められたいだけなんだ。まるで厳しいだけがいいみたいな教育をしてさ、父さんたちに『どうですか』って嬉しそうに報告するんだ。出来ない時はひどく罵るし、馬術の先生も茶道の先生も、ほんとクソくらえだ」

 少年は、右足を軽く蹴り上げた。

「習い事がとても多いのねえ」

 香澄がようやく吐息をもらすと、少年は場違いなことを聞かれたように眉根を寄せた。

「まあな。それぞれの家庭教師が、毎日入れ替わり立ち替わりで家にやってくるんだ。学校の教科は国立大学生がアルバイトでやっていて、いちいちこっちの顔色窺って来る感じが苛々する。子ども相手でも『さようでございますか』なんだぜ? 使い慣れてない癖に。しかも、しょっちゅう言葉を噛む」

 少年は大袈裟に「やれやれ」と肩をすくめてみせた。

 香澄は、その国立大学生のモノマネを始めた少年に思わず笑った。

「よく見ているのね」
「俺の観察力は、兄や弟の中でピカイチなんだぜ」

 彼はそう言って、不器用ながらに笑ってみせた。

 夜行列車は、暖かい地域を通り過ぎたのか、しばらくするとまた空気が冷たくなり始めた。

 車窓には闇が広がっているばかりだが、列車は鈍い轟音をたててしだいに速度を落としていった。

 すると、唐突に機関士の青年が現れ、「懐かしい通天閣よ!」と演説めいた出だしをして、二人の前にポーズを決めて立った。

「第三車両にお客様が乗客致しますので、少々お待ちを――あ、お嬢ちゃん、勘違いしないで欲しいんだけど、通天閣は俺の故郷じゃあないからね。甘酸っぱい思い出の一つなの。まさか殴り合いから恋に発展するなんて思いもしなかった、若かりし学生時代の思い出なのだよ」

 身ぶり手ぶり語る彼の勢いに押され、香澄は「はあ」と間の抜けた声を上げた。

 その向かいで、少年は猫が威嚇するような顔をして吠える。

「そんな話信じられるか」
「ほんとだって」

 青年は愉快そうに唇を引き上げ、指先で顎をさすった。思い出すように斜め上へと視線を滑らせて言葉を続ける。

「当時は貧しかったからねぃ。弁当一つでも子どもたちの争いは過熱したよ。まあ通天閣はそのずいぶん後の出来事なんだが、当時は一つの学校に何百人もの学生がいて、顔を知らないまま卒業することも珍しくなかったのさ。今と違ってイジメはなかったが、みんな正々堂々と戦うスタイルの喧嘩は大好きでねえ。女の子にあそこまでボコボコにされたのは、初めてだったよ」

 それがいい思い出だとは到底思えない内容だったのだが、香澄は「そうなんですか」と相槌を打った。

 悪戯っ子のようでいてどこか利発的な青年の瞳は、父が母との恋を語るときの表情を彷彿とさせ、どこか懐かしいような空気すら感じた。

 自分と同じぐらい若いはずなのに、澄んだ青年の横顔には、語りつくせない多くの出来事が詰まっているように香澄には感じた。

 気付いたら、彼にこう尋ねていた。

「その人を、愛していたんですね」

 青年は、きょとんとしたふうに香澄を見た。薄っすらと頬に残る傷痕を指でかき、それから「うん」と素直に感じで頷く。

「愛した女は、一にも二にも彼女だけさ。俺は、何度だって彼女に惚れちまうのよ」

 歯ぐきを見せてにっと笑う顔は無邪気で、香澄も自然と微笑みを返した。


 青年が機関室へと戻ってしばらくすると、一度列車は停車し、それからまた再び重々しく動き出した。

 物言いたげな少年の表情に気付き、香澄は向かい側に視線を戻して尋ねた。

「どうしたの」

 少年は言いづらそうに唇をすぼめ、上目遣いでぽつりぽつりと言葉を滑らせた。

「あいつが話してたとき、なんだか、すごく羨ましそうな顔してた」
「そうかしら」

 香澄は小首を傾げた。

 じっくりと考えてみると、なんだかそのような気もしてくる。

 車窓の外は、相変わらず真っ暗だった。指先がじょじょに冷えていくのがわかる。

「そうね。羨ましかったのかもしれない」

 香澄は、深い夜の色越しに映った窓ガラスの自分の顔を、ぼんやりと眺めてそう言った。

「よくわからないけれど、きっと私は、恋をしたかったのかも」
「お見合いした人と?」
「それはわからないわ。父や母のように愛し愛される恋とか、――変な話しだけど、お見合いした彼とは、出会わない運命だったような気がしてならないの。私は平凡に生きて、父と母を失ったあとには普通の事務職に就いて、それからゆっくり、誰か他の平凡な相手と出会うはずだった……そんな気がするのよ」

 少年は、香澄の小さな声に辛抱強く耳を傾けていた。

「最後まであまり多く名前も呼べなかったけど、不思議と、彼との思い出は暖かいの。私は恋を知らないけれど、もしかしたら、そうね、私は彼を好きになっていたのかもしれない。……自分の心なのに、よくわからないわ」

 香澄は少年に視線を戻して、迷いを誤魔化すように微笑む。

「ごめんなさいね。変な話をしたわ」

 こんなことを、幼い彼に聞かせるべきではない。

 少年は、じっと香澄を見つめていた。訝しむように目を細め、それから慎重に言葉を切り出す。

「お姉さんはさ、きっと、恋をしていたんだと思う」
「私が?」
「うん」

 少年は真面目な顔つきのまま頷いた。

「お見合いした人のことを話すとき、すごく寂しそうに見えたから」
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