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三章 その勝負の決着は

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 二人の走力の差は圧倒的だった。というより、沙羅があまりにも遅すぎた。
 その走る遅さは、隣を走っていた三年生の森田が「え」と思わず三回ほど振り返り、様子を見守っていた生徒たちも唖然と目を見開いて凝視してしまったほどだった。本気で走っているのだろうか、と思ってしまうほどに遅いのだ。

 十六歳にしては発育のいい胸を重そうに揺らせて、沙羅は頼りないフォームで、けれど本人はかなり必死に真剣な顔で五十メートルを駆けた。

 走ることなんて滅多にない、とばかりに沙羅には不向きな勝負だった。

 何度もホイッスルが鳴らされ、何度も彼女が負けた。持ち前の運動神経のなさで、走りながら途中で自分の足に絡まって派手に転倒し、躓(つまづ)いて転ぶのもしょっちゅうあった。彼女が自分の運動シューズの紐を踏んでしまった時は、見ていられないとばかりに、見守っていた女子生徒たちが目を塞いだ。


 次第に、運動場に広がって部活動をしていた陸上部やサッカー部、外周を走っていたバスケット部やバレー部の女子たちも、足を止めて沙羅の真剣さを見守り始めた。
 運動部の部活動顧問の教師たちも、彼らを注意することなくこちらを観察していた。さすがにもうそろそろ止めてあげてもいいんじゃないだろうか、という顔をしている。


 必死に走る沙羅は、向けられるそんな視線など気付いていない様子だった。

 森田に遅れてゴールライン上に踏み込むたび、先に完走していた彼女に向かって、沙羅は「もう一回お願いします」と素早く頭を下げて頼んだ。震える膝に手をあてて息も切れ切れに、必死に呼吸を整えながらそう告げるのだ。

 風紀委員長の西園寺は、その様子を間近で見ながらも涼しげな表情を変えず、そのたび止めもせずに手で合図を送って、二人にまたスタートラインに戻るよう指示を出した。何度も何度も、沙羅が「もう一回お願いします」と言うたびに自動的な動きを繰り返す。

 どうして、あんなに必死に頑張るのだ。

 西園寺のすぐそばで見ていた理樹は、知らず拳を握り締めた。

 もう何十回、スタートを告げるホイッスルが鳴ったのか分からない。後頭部で一つにまとめていた沙羅の髪は乱れ、汗に濡れた頬は、転んだ際に土が付いて体操着もすっかり汚れてしまっている。

 既に彼女の疾走は、勝負スタート時の半分の速度も出ていなかった。限界を超えた両足はよろけるようにもつれるのに、それでも沙羅は歯を食いしばって、震える足を引きずるように前に進むのだ。

 どうして頑張るんだ、今だって運動は苦手なんだろう? 

 もう、頑張るなよ。

 その時、再び沙羅が転んだ。何十回目か分からない転倒だった。
 立ち上がろうとする足は、産まれたての小鹿のように震えていて、身を起こそうと支える細い腕だけがピンと立っていた。

「…………お願いだから、私の足、立って」

 誰もが動きを止めて見守る中、静まりかえった運動場に、力を振り絞るように歯を食いしばり言う沙羅の声が聞こえた。

 対戦相手の森田は、既に第二レーンの中腹で足を完全に止めてしまっていた。沙羅が再び立つのを待つかのように佇む彼女の顔は真っ青で、もはや走るという意識すら抉られてしまっているようだった。

 沙羅は、細い腕の両手を地面に置き、必死に立とうと努力していた。

 ようやく運動シューズの底が地面についたと思ったら、震える四肢が地面を滑って膝をつく。それが何度も繰り返されて、数分待っても、沙羅の静かな格闘が続くばかりだった。

 風紀部員として役目を務めながら見守るレイは、今にも泣きそうな顔をしていた。離れて立つ大柄な先輩風紀部員二人が、「大丈夫か……?」と気遣うように声をかける。
 審判を務める風紀委員長の西園寺も、もうホイッスルから手を離していた。風紀委員会としてこの勝負を最後まで見届けるとでもいうように、手を後ろに組んで、ただ粛々と立つ。


「もう、やめてよ、沙羅ちゃん……」


 そう呟く誰かの声が聞こえた。すっかり鼻声だった。

 それをきっかけに、女子生徒たちだけでなく、男子生徒も「もうじゅうぶんだろう」と言い始めた。近くまで来ていた運動部の少年少女たちも「もう無理よ」と、ひどく心配するように声を投げる。

 顧問教師たちが、もう見てられないとばかりにこちらへ歩み出した。
 沙羅と風紀委員会の面々、そして生徒会長がいる方へ顔を向けて、もう勝負は終了するべきだと促した。その教師陣の声が強めに上げられた時――


「嫌です!」


 地面に尻をついたまま、沙羅が悲鳴や怒鳴り声ともつかない大きな声を出した。真剣なのだと伝わる張り詰めたその叫びは、つんざくように耳に入ってきて、この場にいた全員が揃ってびっくりしたように彼女を見た。

 沙羅は、震える両手が地面に立っている様子を見下ろし、もう一度「嫌ですッ」と震える声で言った。

「私、絶対に負けたくありません! だって、私は、本当に九条君のことが好きなんです。だから、ほんの少しの間だって、諦めたく、ない…………ッ」

 そう言いいながら、沙羅は競走相手の森田を睨みつけた。けれどその大きな瞳からは、こらえきれない涙がボロボロとこぼれ落ちており、彼女は「負けたくないのよ」「少しの間でも諦めるだなんて、嫌なの」と泣いていた。

 どうして、と理樹は口の中に小さな囁きを落とした。


 前世の頃の彼女は、運動も出来ない女の子だった。彼は、それを知っていた。
 土いじりも出来ないような生粋のお嬢様で、走るなんて到底向いていない女だった。刺繍も一体何が描かれているのか分からないくらいに不器用で、よく段差もない場所で転んだりした。

 風に飛ばされて木に引っ掛かった帽子を登って取ってやっただけで、「すごいのね!」と嬉しそうに笑った。ただ婚約にこぎつけるための親切だったのに、彼女はそれすら疑わないくらいに、真っ直ぐで。


 見ている誰もが気付いている。彼女は――『沙羅』は、もう走れない。
 立ち上がることだって出来ないだろう。

 それでも声を掛けられないのは、それだけ本気なのだと察して、その決意に水を差すような中途半端な優しさを掛けてやれないと知っているからだ。競争相手の森田も、もう先にゴールすることも出来ず途中で立ち止まったまま、あれから一歩だって動けていない。

 どうしたら良いのかという、戸惑いと沈黙が場内を満たしていた。

 レイたちを含めた、見守っている多くの人間がチラチラと風紀委員長に目を向けるが、西園寺は人形のような美麗な顔を沙羅に向けたまま、じっとして動きだす様子は微塵にも見せなかった。

 気付いたら理樹は、後ろ手を組む西園寺を通り越して、第一レーンの中腹に座りこむ沙羅のほうに向かって歩き出していた。

 一同が固唾を呑んで見守る中、すぐに触れられる距離で足を止める。

 そのまま背を屈めて手を差し出したら、沙羅が頬を涙に塗らした顔を、ゆっくりとこちらへ向けてきた。彼女に手を差し出していることに、理樹は既視感を覚えたものの顔には出さなかった。

 よくあった光景だと、そんな想いが脳裏を掠めた。


「ほら。手を取れ」


 そう告げたら、沙羅がだだをこねるように「いや」と言って、手を庇うように胸元に引き寄せ、ぽろぽろと涙をこぼしながら首を左右に振った。

「嫌です。だって私、諦めたくな――」
「ゴールまで走るんだろう?」

 理樹は淡々と、いつもの口調でそう尋ねた。

 途端に沙羅が、ピタリと口をつぐんだ。びっくりした拍子に涙の勢いが少し減った瞳を、今にもこぼれ落ちそうに見開く。
 理樹は構わず、彼女に手を差し出したままこう続けた。

「勝負内容には『手を借りるな』というルールはなかった」
「…………ルール……?」
「つまり俺が手を出しても、お前は反則負けにはならない」

 まるで悪党みたいな発想だ。

 そう思いながら、理樹は仏頂面を後方に向けて「反則じゃないよな」と、風紀委員長である西園寺含む見物人一同を見やった。全く悪びれもないいつもの顰め面で、堂々と「どうだ、お前らはこれが反則だと思うか」と意見を求める。

 一瞬、生徒たちが迷うように互いの顔を見合わせた。
 そんな中、きょとんとした顔をした数秒後に「はい!」と、場違いなほど活き活きとした笑顔で、陽気な声を上げる少年がいた。

「全然反則じゃないと思うぜ! 俺、生徒会長と沙羅ちゃんが話し合ってる時、その場に居てやりとりはしっかり聞いてた」

 そう自信たっぷりに言ってのけたのは、拓斗だった。すると、その第一声を聞いた周りの少年少女たちも「そうよね」「そうだよ、反則じゃない」と、次々に同意の声を上げ始めた。

 理樹は無表情のまま一つ頷いて、沙羅へと視線を戻した。

「――だそうだ。だから、手を取れ」

 渋るような間を置いた沙羅は、伺うよう周りの様子に目を向けた。彼女と目が合った拓斗が「ん!」と呑気な笑顔で親指を立て、それに少し遅れて、周りの生徒たちが必死に何度も頷く仕草を返した。

 沙羅は彼らを見渡してから、こちらを見上げてきた。じっと見つめていると、その視線が手へと降りて、彼女がそろりと自身の手を伸ばしてくる。

 擦り傷と土汚れがついたその華奢で白い手が添えられてすぐ、理樹はしっかりと握りしめ、そのままぐいっと引っ張り上げた。びっくりした彼女が「きゃっ」と声を上げるのも構わず軽々と抱き上げると、迷わずゴールに向かって歩き出した。

 腕の中で、沙羅が少し慌てた様子で「ちょ、待って」「降ろして下さい」と言った。理樹は、落とさないと伝えるように更に腕に力を込めた。

「降ろさない、このまま進んだ方が早い」
「で、ででででも九条君ッ、私すごく重いか――」
「別に重くない」

 そう返しながら、理樹は、前世で同じやりとりをしたことを思い出した。初めて婚約者として出席したパーティーで、早退するべく彼女をこうして運んで『君は重くない』と言ったのだったか。

 腕の中でふと大人しくなった沙羅が、制服をきゅっと握り締めてきた。

「…………どうして、こんな時に優しくするんですか」
「俺は優しくはない。ただ、目の前にうずくまってる女がいたからだ」

 彼女を抱き上げている腕や胸板に感じるその温もりも重さも、まるで前世で生きていた頃と何一つ変わらなかった。ただ、自分の身長だけが違っているのだ。

 今の俺は、二十六歳の大人ではないから。
 抱え上げるたびに、君が『高いです』と言ってくれた身長にはまだ届かない。

 沙羅を抱き上げた理樹が歩いていくのを、森田がそっと見送った。誰も何も言わず、第一レーンの上を進む彼を目で追い、そして理樹は――


 沙羅を腕に抱えたまま、ゴールラインを踏んだ。

 
 ゴール到着と同時に、西園寺がタイミング良くホイッスルを鳴らした。場に満ちていた、どこか緊張した沈黙が解けて、安堵の息をこぼれる吐息が聞こえ始めた。

 強い緊張状態が解けたのか、腕の中の沙羅がふぅっと目を閉じてこちらに身を預けてきた。理樹は、意識を手放した彼女の寝顔を見下ろし、それから、何も言わず視線を戻した。

「おめでとう。桜羽沙羅君の勝ちだよ」

 そう告げてきた西園寺の方を見やった理樹は、そばに生徒会長の宮應静がいることに気付いた。彼女は両手で顔を覆い、その肩を小さく震わせて泣いていた。

「……勝負は終わった。保健室に預けてくる」

 西園寺にそれだけ告げると、理樹は踵を返して校舎に向かって歩き出した。

 拓斗はすぐに理樹のもとへ走り寄り「保健室の扉は俺に任せろ、親友」と、瞳を輝かせてそう言った。そして、くるりと振り返りレイに向かって「大丈夫そうならお前も来いよ」と愛想良く手招きする。

 レイは隣りに来ていた、自分よりも頭一個分以上も背丈のある二人の先輩風紀部員に、そろりと伺う目を向けた。
 彼らが苦笑を浮かべ、「行ってこい」と言った。レイは黒曜石のような瞳を輝かせると、走り出しながら理樹と拓斗に向かって「僕も行くぞ!」と大きな声を投げた。


 走り去っていく足音が遠ざかるのを聞きながら、宮應が顔を覆った手の隙間から、涙をこぼして「ごめんなさい」と虫が鳴くようなか細い声を上げた。
 
「……ごめんなさい、桜羽沙羅さん。あなた、本当に彼のことが『好き』なのね」

 理樹たちを見送った西園寺が、慰めるようにそっと宮應を抱き寄せた。同じ背丈をした彼女の背中を撫でながら、優しい声色でこう言った。

「人の恋に首を突っ込むのなら、相応の覚悟がなきゃダメなんだよ、宮應君」

 僕だって去年まではライバルが多くて大変だったんだから、と西園寺は心の中で呟いた。
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