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序章 スマートな親父が贈る、頑固親父への愛ある策略
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萬狩(まがり)は、昭和という時代を頑固に生き抜いた男である。そのせいで、彼の人生において数々の衝突は免れなかったが、一秒すら惜しむように歩いたからこその成功もあったのも確かだ。
十六歳で家を飛び出した萬狩は、自分で稼いだ金で学校へ通い、大学まで卒業した。後に二十代前半で起業し、忙しさの中で二十代後半に結婚したものの、夫婦仲は早急に冷えた。
三十代の頃には、喧嘩別れした両親が死んで親戚全員を相手に喧嘩を買い、四十代も中盤に差し掛かった頃には、経済の急激な変動で揺らいだ会社の主導権の半分が一時期外部へ移る事もあったが、それをなんとか経ち直し、今では大手の企業と肩を並べている。
五十歳に差しかかる頃に取締役を降りたのは、忙しなく動く事に体力の限界を覚え始めたからだ。その頃、妻との仲は完全に冷え切っており、二人の間に愛情が存在していない事も萬狩を疲れさせていた。
少しは楽になるだろうと会長職に就任したものの、いざ現場を離れてみると、もどかしさと苛立ちが増した。
萬狩は、愛想を知らない仏頂面に、逞しい身体を持った男だった。五十二歳となった今、肉付きは若干増したが、大柄な体格は変わらず、背もしゃんと伸びている。歩んできた人生の厳しさや忙しさを象徴するように、眉間には深い皺があった。
威圧感のある容姿や愛想のない厳しい眼差し、そこから感じる意思の固さや言い方のきつさから、人を寄せ付けない傾向にあり、友人よりも知人の数が圧倒的に多かった。
常に堂々として怖い物知らずだ、というのが周りの人間が彼に抱く印象でもあった。萬狩は、死んだ両親に、部下に指示を出して花を一つ送っただけで、煩い親戚連中には、迅速に立派な離縁状を送りつけてやるほど行動力にも長けていた。
しかし二か月前、彼は人生で初めて悔しい思いをしていた。
ようやく決着のついた離婚の裁判で、萬狩は、社会人である二人の子供は別としても、喧嘩を売ってきた妻には意地でも金を渡すまいと努力したにも関わらず、随分と搾り取られてしまったのだ。
あれが悪い、こいつが駄目だったと、萬狩は最近同じ愚痴ばかり口にしていた。彼が愚痴を吐きたくなって誘うたび、居酒屋で快く聞いてくれるのは、会社を共に立ち上げた苦楽の仲である友人の谷川(たにがわ)だった。
その日も谷川は、萬狩の鬱憤に付き合うように、会社の帰りに個室席を備えた居酒屋に直行していた。紳士的な微笑みを浮かべて聞き入り、時折深い共感さえ見せるような相槌を打って、時には話の先を促したりした。
「権利までは取られなかったのだから、良しとしようじゃないか。あのマンションの最上階だって、都内では一番の人気だろう? 君の方は毎月の収入も安定しているし、今はほとんど何もしなくていいお役職だ。誰もが君を羨むよ」
谷川は、まるでノルウェイの澄んだ湖を見つめるかのような眼差しでそう言い、日本酒の入ったグラスを見降ろした。多くの人間から言わせれば美麗な顔立ちをしている谷川は、萬狩とほぼ同年代とは思えないほど若々しい容貌をしている。
萬狩と谷川は、大学時代の先輩後輩の仲だった。谷川は世渡りの上手い男で、なぜか同じサークルにいた萬狩に、彼が積極的に話し掛けてきた事が、二人が交友を始めたきっかけだった。
大学へ入学した当時から、萬狩は、自分の会社を立ち上げる事を目標に掲げていた。萬狩は口数は多い方ではなく、頻繁に語った覚えはなかったのたが、卒業が迫った頃、唐突に谷川が「僕を君の人生に巻き込んでくれないかい?」と、実に陽気な口調で参加を宣言してきたのだ。
萬狩に言わせれば、谷川は変わった男だった。
売られた喧嘩は買う主義だった若き時代の萬狩は、自然と喧嘩も強くなっていた。上の学年に在籍していた不良全員を叩きのめした事でも怖がられ、謙遜されていた萬狩に、平気な顔で話し掛ける後輩は、谷川ぐらいのものだったのである。
谷川は多才で、政治家でも弁護士でもなれるような技量を持った優秀な男だったから、萬狩は、すぐに谷川の参戦を認めなかった。しばらくは口煩く「ちゃんと考えろ」「俺の人生に関わったら最後、激動の日々だぞ」と忠告したが、若い谷川は、ちっとも耳を貸さなかった。
萬狩は大学の卒業の日、考えた末、谷川に「夢はないのか」と尋ねた。
すると谷川は、面白い事がしたいのだと即答した。
世界中を旅して周るのもいいし、評論家も楽しそうだ。ずっと、そんな情熱を注ぎこめるような何かを探していたのだと、谷川は、主席とは思えないほどお洒落に決め込んだ恰好で、そう陽気に語ってのけた。
もはや谷川の意思は変えられそうもないと気付き、萬狩は「大変なだけだぞ」と最後にもきちんと忠告して、そうして谷川は平気な顔でついてきた。彼は大学在学中にも関わらず、宣言通り萬狩を助け、会社の創立から安定期に入るまで、彼をサポートし続けたのだ。
「財産の半分以上は取られた。――全く、持っていたセカンド・ハウスの価値があんなものだとは思わなかった。あれにも税金、これにも税金。考えてみたら、少しどうだろうと思うぜ。どこへ行っても、あいつへの愚痴の種が転がっているようで……」
萬狩はそこで、若い頃よりは少し贅肉のついた怒り肩を、ほんの少しすくめ、相変わらず眉間に消えぬ皺を刻んだまま短い息を吐いた。
「確かにあいつは、何もかもがパーフェクトな、出来がよすぎるぐらい頭の良い女だったよ。だからこそ俺にとって、人生最大の強敵になりえたわけだが……」
「君の奥さんは、事業まで始めちゃう凄い人だったからねぇ」
谷川がのんびりと言い、萬狩は、更に顔を顰めて舌打ちした。
「お前は他人事だから、そうやって感心できるんだ。とにかく、あいつが通い詰めていたブランド店だとか、高層ビル群だとか、そいつらを見るたびに、こっちは思い出して嫌な気持ちになるんだ。正直、そんな事を考えている自分にもうんざりしているし、しばらくは遠くで過ごしたい気分だ」
語る萬狩の声は、次第に弱くなった。
長く続いた裁判のせいか、最近の萬狩は疲労を覚えていた。何故か、愛情も執着もなかったはずなのに、いざ離婚が成立すると胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な違和感も発生している。
それは酒を飲んでも、仕事に没頭していても、何かが欠たような違和感を彼に与え続けており、実に不可解な初めての感覚だった。繊細さも器用さも持ち合わせおらず、これまでじっくり自分の事を考えた事もなかった萬狩には、その正体が分からないでいる。
穏やかな雰囲気で話を聞いていた谷川が、ここぞとばかりに、沈黙する萬狩にニッコリと微笑んだ。
「面白い話があるのだけれど、少し聞いてくれないかい?」
二人で店に入ってから二時間半後、谷川は、ようやく自分の話を始めた。じっとしていられない萬狩の性格を知っているから、ちょうど小腹をすかせた彼が、追加で取ったアボガド料理が来て食べている間に、誰もが警戒心を解いてしまう心地よい口調で語り聞かせる。
谷川は自分の立ち周りの良さが、フットワークの軽い優男と周りから見られ、「谷川さんだから、萬狩社長にあんな口が聞けるんだろうな……」という評価をもらっている事も知っていた。けれど彼は、どんなに軽口や冗談を叩けようと、唯一親友と認めている萬狩を心の底で敬愛し、同時に心配もしていた。
谷川から言わせれば、萬狩は働き過ぎだった。
萬狩が代表取締役から会長になった現在、新しい後任が務めて三年目を迎え、ようやく会社の人事も落ち着いてきていた。萬狩ほどの腕はないにしろ、部下達も、最近は渋々と新しい取締役を受け入れ始めてもいる。
今の会社の人間は皆、萬狩の背中を見てここまで来た。どんな苦境にあろうとも、彼についていけば大丈夫だろうという尊敬と信頼と、畏怖に相応しい実績もあった。だから数年前、萬狩が「五十年、百年と続く会社」の考えを打ち出し、新たに代表取締役を選任した時は、かなり揉めた。
谷川は、ここ二ヶ月ほど考えて、ある計画を立てて慎重に相談も重ね、水面下で説得などの活動を続けていた。それを親友に悟らせない己のポーカーフェイスに感謝しつつ、萬狩が苦手とする気遣いを悟らせないよう、何でもない顔で話し続ける。
彼は話しながら、今回考えた一件に関して「顔を出すために戻ってくる事もある、と……」「まぁ、萬狩さんがこちらのメールを無視した事もないですけど」「そうですね、引き続き、萬狩さんが見てくれるのであれば……」と、渋々折れた形で了承した重役達の弱腰を思い出し、思わず、膝の上に置いた拳を握りしめた。
みんな彼に頼り過ぎだし、彼も頼られ過ぎなのだ。
萬狩は、昔から弱みを見せる事を嫌っていた。もとより不器用な男ではあったが、大学時代から付き合いのある谷川からいわせれば、一人で数人分の仕事をこなす萬狩だって、一人の人間なのだ。睡眠も削って会社に泊まり込み、栄養ドリンクとコンビニの握り飯を片手に、時折、死んだように目を閉じている親友の努力や苦労を知らないでいる部下達を、谷川は、憎く思う時もあった。
萬狩の妻は、確かに谷川が知る女性の中でも、厳しい女ではあった。仕事の他に金も持っていたから、一時的な別居騒動も一度や二度ではなく、夫婦仲が完全に冷めきった頃からは、「離婚してやりますわ」との言葉もよく聞いていた。
離婚については、新婚期間が過ぎた頃から既に秒読みだったが、結局のところ、二人の息子は父親である萬狩を責めなかった。萬狩は自分自身や人間関係には疎いところがあるから、子に怨まれてはいないという、比較的にも救われる結果を知らないでいるのだ。
谷川からしてみれば、それについても、すごく歯痒いところではある。彼の息子達は、萬狩とは違って遠慮を知っている部分で『不器用な男』だった。家族なのに、遠慮なんてしなければいいのにと思う。
谷川は、今回の件が萬狩の心身を癒し、彼が抱えている精神面の壁や、そういった諸々の問題を解決してくれる事を期待していた。
萬狩と出会えてから、谷川は、人生が楽しくて仕方がないのだ。素晴らしい女性とも巡り合え、結婚まで出来たのも萬狩のおかげだと思っていた。不器用で疎く鈍い親友は、確かに仕事に青春をつぎ込んだが、今後の人生を楽しめるような日々がある事を、谷川は、誰よりも一番に願っているのだ。
萬狩は、そんな友人の心境も知らず、その優しげな眼差しを見つめ返しながら、興味もなさそうに相槌を打っていた。
そんな馬鹿な話あるものか、と冗談口調で切り返し、お得意の嘲笑を片方の口角に刻んだりもした。しかし、嘘をついた事のない友人の話は信頼もあり、萬狩は、軽い気持ちなりに話はしっかり聞いていた。
谷川は、面白い世間話を聞かせるような軽いノリで話し続ける。
「僕の従兄弟が不動産業をしているから、その関係で耳にした話らしいんだよ。土地と家が破格なお値段なんだけど、まぁ条件の内の一つに一括払いとあるから、みんな躊躇してしまうのだろうね。僕も興味があったのだけれど、さすがに海の向こうから、毎日ここに通うなんて出来ないだろう?」
萬狩は、谷川が指を折り上げる『今の萬狩にとって都合の良い点』について、ぼんやりと頭の中で整理した。比較的拘束のゆるい会長という立場にあり、メールや電話、郵送やFAXを利用して仕事に関わる事も可能だろうが、やはり現実味は持てなかった。
何しろ、萬狩は毎日のように相談を受け、部下から指示を仰がれていたからだ。よその会長がどうかは知らないが、俺が抜けるなんて無理だろう、という先入観もあった。
※※※
とはいえ、谷川が持って来た面白い話の内容は、実に魅力的なのも確かだった。
萬狩は酒が抜けた後も、その話を覚えていた。試すようにいくつかの仕事を部下達に振って様子を見たところ、予想に反して彼らは迅速に動き、出来るだけ萬狩を頼らないようスムーズに動いてくれて、萬狩は「これならいけるんじゃないか?」と考えた。
そして、彼は決断し、早々に準備を整えた。
萬狩が飛行機で南の島――沖縄本島へと向かったのは、それから一ヶ月後の五月上旬の事だった。
十六歳で家を飛び出した萬狩は、自分で稼いだ金で学校へ通い、大学まで卒業した。後に二十代前半で起業し、忙しさの中で二十代後半に結婚したものの、夫婦仲は早急に冷えた。
三十代の頃には、喧嘩別れした両親が死んで親戚全員を相手に喧嘩を買い、四十代も中盤に差し掛かった頃には、経済の急激な変動で揺らいだ会社の主導権の半分が一時期外部へ移る事もあったが、それをなんとか経ち直し、今では大手の企業と肩を並べている。
五十歳に差しかかる頃に取締役を降りたのは、忙しなく動く事に体力の限界を覚え始めたからだ。その頃、妻との仲は完全に冷え切っており、二人の間に愛情が存在していない事も萬狩を疲れさせていた。
少しは楽になるだろうと会長職に就任したものの、いざ現場を離れてみると、もどかしさと苛立ちが増した。
萬狩は、愛想を知らない仏頂面に、逞しい身体を持った男だった。五十二歳となった今、肉付きは若干増したが、大柄な体格は変わらず、背もしゃんと伸びている。歩んできた人生の厳しさや忙しさを象徴するように、眉間には深い皺があった。
威圧感のある容姿や愛想のない厳しい眼差し、そこから感じる意思の固さや言い方のきつさから、人を寄せ付けない傾向にあり、友人よりも知人の数が圧倒的に多かった。
常に堂々として怖い物知らずだ、というのが周りの人間が彼に抱く印象でもあった。萬狩は、死んだ両親に、部下に指示を出して花を一つ送っただけで、煩い親戚連中には、迅速に立派な離縁状を送りつけてやるほど行動力にも長けていた。
しかし二か月前、彼は人生で初めて悔しい思いをしていた。
ようやく決着のついた離婚の裁判で、萬狩は、社会人である二人の子供は別としても、喧嘩を売ってきた妻には意地でも金を渡すまいと努力したにも関わらず、随分と搾り取られてしまったのだ。
あれが悪い、こいつが駄目だったと、萬狩は最近同じ愚痴ばかり口にしていた。彼が愚痴を吐きたくなって誘うたび、居酒屋で快く聞いてくれるのは、会社を共に立ち上げた苦楽の仲である友人の谷川(たにがわ)だった。
その日も谷川は、萬狩の鬱憤に付き合うように、会社の帰りに個室席を備えた居酒屋に直行していた。紳士的な微笑みを浮かべて聞き入り、時折深い共感さえ見せるような相槌を打って、時には話の先を促したりした。
「権利までは取られなかったのだから、良しとしようじゃないか。あのマンションの最上階だって、都内では一番の人気だろう? 君の方は毎月の収入も安定しているし、今はほとんど何もしなくていいお役職だ。誰もが君を羨むよ」
谷川は、まるでノルウェイの澄んだ湖を見つめるかのような眼差しでそう言い、日本酒の入ったグラスを見降ろした。多くの人間から言わせれば美麗な顔立ちをしている谷川は、萬狩とほぼ同年代とは思えないほど若々しい容貌をしている。
萬狩と谷川は、大学時代の先輩後輩の仲だった。谷川は世渡りの上手い男で、なぜか同じサークルにいた萬狩に、彼が積極的に話し掛けてきた事が、二人が交友を始めたきっかけだった。
大学へ入学した当時から、萬狩は、自分の会社を立ち上げる事を目標に掲げていた。萬狩は口数は多い方ではなく、頻繁に語った覚えはなかったのたが、卒業が迫った頃、唐突に谷川が「僕を君の人生に巻き込んでくれないかい?」と、実に陽気な口調で参加を宣言してきたのだ。
萬狩に言わせれば、谷川は変わった男だった。
売られた喧嘩は買う主義だった若き時代の萬狩は、自然と喧嘩も強くなっていた。上の学年に在籍していた不良全員を叩きのめした事でも怖がられ、謙遜されていた萬狩に、平気な顔で話し掛ける後輩は、谷川ぐらいのものだったのである。
谷川は多才で、政治家でも弁護士でもなれるような技量を持った優秀な男だったから、萬狩は、すぐに谷川の参戦を認めなかった。しばらくは口煩く「ちゃんと考えろ」「俺の人生に関わったら最後、激動の日々だぞ」と忠告したが、若い谷川は、ちっとも耳を貸さなかった。
萬狩は大学の卒業の日、考えた末、谷川に「夢はないのか」と尋ねた。
すると谷川は、面白い事がしたいのだと即答した。
世界中を旅して周るのもいいし、評論家も楽しそうだ。ずっと、そんな情熱を注ぎこめるような何かを探していたのだと、谷川は、主席とは思えないほどお洒落に決め込んだ恰好で、そう陽気に語ってのけた。
もはや谷川の意思は変えられそうもないと気付き、萬狩は「大変なだけだぞ」と最後にもきちんと忠告して、そうして谷川は平気な顔でついてきた。彼は大学在学中にも関わらず、宣言通り萬狩を助け、会社の創立から安定期に入るまで、彼をサポートし続けたのだ。
「財産の半分以上は取られた。――全く、持っていたセカンド・ハウスの価値があんなものだとは思わなかった。あれにも税金、これにも税金。考えてみたら、少しどうだろうと思うぜ。どこへ行っても、あいつへの愚痴の種が転がっているようで……」
萬狩はそこで、若い頃よりは少し贅肉のついた怒り肩を、ほんの少しすくめ、相変わらず眉間に消えぬ皺を刻んだまま短い息を吐いた。
「確かにあいつは、何もかもがパーフェクトな、出来がよすぎるぐらい頭の良い女だったよ。だからこそ俺にとって、人生最大の強敵になりえたわけだが……」
「君の奥さんは、事業まで始めちゃう凄い人だったからねぇ」
谷川がのんびりと言い、萬狩は、更に顔を顰めて舌打ちした。
「お前は他人事だから、そうやって感心できるんだ。とにかく、あいつが通い詰めていたブランド店だとか、高層ビル群だとか、そいつらを見るたびに、こっちは思い出して嫌な気持ちになるんだ。正直、そんな事を考えている自分にもうんざりしているし、しばらくは遠くで過ごしたい気分だ」
語る萬狩の声は、次第に弱くなった。
長く続いた裁判のせいか、最近の萬狩は疲労を覚えていた。何故か、愛情も執着もなかったはずなのに、いざ離婚が成立すると胸にぽっかりと穴が空いたような、奇妙な違和感も発生している。
それは酒を飲んでも、仕事に没頭していても、何かが欠たような違和感を彼に与え続けており、実に不可解な初めての感覚だった。繊細さも器用さも持ち合わせおらず、これまでじっくり自分の事を考えた事もなかった萬狩には、その正体が分からないでいる。
穏やかな雰囲気で話を聞いていた谷川が、ここぞとばかりに、沈黙する萬狩にニッコリと微笑んだ。
「面白い話があるのだけれど、少し聞いてくれないかい?」
二人で店に入ってから二時間半後、谷川は、ようやく自分の話を始めた。じっとしていられない萬狩の性格を知っているから、ちょうど小腹をすかせた彼が、追加で取ったアボガド料理が来て食べている間に、誰もが警戒心を解いてしまう心地よい口調で語り聞かせる。
谷川は自分の立ち周りの良さが、フットワークの軽い優男と周りから見られ、「谷川さんだから、萬狩社長にあんな口が聞けるんだろうな……」という評価をもらっている事も知っていた。けれど彼は、どんなに軽口や冗談を叩けようと、唯一親友と認めている萬狩を心の底で敬愛し、同時に心配もしていた。
谷川から言わせれば、萬狩は働き過ぎだった。
萬狩が代表取締役から会長になった現在、新しい後任が務めて三年目を迎え、ようやく会社の人事も落ち着いてきていた。萬狩ほどの腕はないにしろ、部下達も、最近は渋々と新しい取締役を受け入れ始めてもいる。
今の会社の人間は皆、萬狩の背中を見てここまで来た。どんな苦境にあろうとも、彼についていけば大丈夫だろうという尊敬と信頼と、畏怖に相応しい実績もあった。だから数年前、萬狩が「五十年、百年と続く会社」の考えを打ち出し、新たに代表取締役を選任した時は、かなり揉めた。
谷川は、ここ二ヶ月ほど考えて、ある計画を立てて慎重に相談も重ね、水面下で説得などの活動を続けていた。それを親友に悟らせない己のポーカーフェイスに感謝しつつ、萬狩が苦手とする気遣いを悟らせないよう、何でもない顔で話し続ける。
彼は話しながら、今回考えた一件に関して「顔を出すために戻ってくる事もある、と……」「まぁ、萬狩さんがこちらのメールを無視した事もないですけど」「そうですね、引き続き、萬狩さんが見てくれるのであれば……」と、渋々折れた形で了承した重役達の弱腰を思い出し、思わず、膝の上に置いた拳を握りしめた。
みんな彼に頼り過ぎだし、彼も頼られ過ぎなのだ。
萬狩は、昔から弱みを見せる事を嫌っていた。もとより不器用な男ではあったが、大学時代から付き合いのある谷川からいわせれば、一人で数人分の仕事をこなす萬狩だって、一人の人間なのだ。睡眠も削って会社に泊まり込み、栄養ドリンクとコンビニの握り飯を片手に、時折、死んだように目を閉じている親友の努力や苦労を知らないでいる部下達を、谷川は、憎く思う時もあった。
萬狩の妻は、確かに谷川が知る女性の中でも、厳しい女ではあった。仕事の他に金も持っていたから、一時的な別居騒動も一度や二度ではなく、夫婦仲が完全に冷めきった頃からは、「離婚してやりますわ」との言葉もよく聞いていた。
離婚については、新婚期間が過ぎた頃から既に秒読みだったが、結局のところ、二人の息子は父親である萬狩を責めなかった。萬狩は自分自身や人間関係には疎いところがあるから、子に怨まれてはいないという、比較的にも救われる結果を知らないでいるのだ。
谷川からしてみれば、それについても、すごく歯痒いところではある。彼の息子達は、萬狩とは違って遠慮を知っている部分で『不器用な男』だった。家族なのに、遠慮なんてしなければいいのにと思う。
谷川は、今回の件が萬狩の心身を癒し、彼が抱えている精神面の壁や、そういった諸々の問題を解決してくれる事を期待していた。
萬狩と出会えてから、谷川は、人生が楽しくて仕方がないのだ。素晴らしい女性とも巡り合え、結婚まで出来たのも萬狩のおかげだと思っていた。不器用で疎く鈍い親友は、確かに仕事に青春をつぎ込んだが、今後の人生を楽しめるような日々がある事を、谷川は、誰よりも一番に願っているのだ。
萬狩は、そんな友人の心境も知らず、その優しげな眼差しを見つめ返しながら、興味もなさそうに相槌を打っていた。
そんな馬鹿な話あるものか、と冗談口調で切り返し、お得意の嘲笑を片方の口角に刻んだりもした。しかし、嘘をついた事のない友人の話は信頼もあり、萬狩は、軽い気持ちなりに話はしっかり聞いていた。
谷川は、面白い世間話を聞かせるような軽いノリで話し続ける。
「僕の従兄弟が不動産業をしているから、その関係で耳にした話らしいんだよ。土地と家が破格なお値段なんだけど、まぁ条件の内の一つに一括払いとあるから、みんな躊躇してしまうのだろうね。僕も興味があったのだけれど、さすがに海の向こうから、毎日ここに通うなんて出来ないだろう?」
萬狩は、谷川が指を折り上げる『今の萬狩にとって都合の良い点』について、ぼんやりと頭の中で整理した。比較的拘束のゆるい会長という立場にあり、メールや電話、郵送やFAXを利用して仕事に関わる事も可能だろうが、やはり現実味は持てなかった。
何しろ、萬狩は毎日のように相談を受け、部下から指示を仰がれていたからだ。よその会長がどうかは知らないが、俺が抜けるなんて無理だろう、という先入観もあった。
※※※
とはいえ、谷川が持って来た面白い話の内容は、実に魅力的なのも確かだった。
萬狩は酒が抜けた後も、その話を覚えていた。試すようにいくつかの仕事を部下達に振って様子を見たところ、予想に反して彼らは迅速に動き、出来るだけ萬狩を頼らないようスムーズに動いてくれて、萬狩は「これならいけるんじゃないか?」と考えた。
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