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二章 萬狩と老犬(2)~七月、手作りの花壇を~
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老犬が家を飛び出してパトカーに吠えるという事件の後、仲村渠(なかんだかり)獣医は帰り際、「シェリーちゃんは不安で食が細くなるでしょうから、食事の際にはそばについて、撫でてあげて下さい」と指示した。
シェリーは二日間ほど食が細く、萬狩は彼女が食事をする時に、不器用ながらに彼女の頭を撫でた。そばに座って頭を撫でてやらないと、シェリーはほとんどご飯を食べてくれなかったのだ。シェリーの毛は柔らかかったが、その下にある頭は、思っていた以上に固かった。恐らく、若い犬に比べて肉付きが細いせいだろう。
激しい雨は三日三晩続いたが、次第に天気も回復した。シェリーも食欲が戻りだし、三日目からは変わらぬ日常生活を送り始めたので、萬狩も、彼女の頭には触れなくなった。
「お前、風呂に入ると細っこい小さな犬になるんじゃないか?」
シェリーを構う必要がなくなった萬狩だったが、彼がご飯皿に入れる量は増えていた。食べられないと残してしまったのなら、腐らないうちに回収して破棄し、皿を洗えばいいのだ。老犬に肉をつけようと考え、既定の食事時間の他にも、小まめに間食をあげるようになっていた。
そのせいもあるのだろうか。
雨の一件以来、シェリーは、萬狩の後ろをついて回るようになった。
リビングのソファに腰かけて本を読んでいると、ふてぶてしくも萬狩の足を踏むように横になる等、段々と遠慮もなくなってきた。彼は「このクソ犬」と思ったものの、そのおかげで、彼女の体重が思うほど増えていない事にも気付いた。
他に方法はないものかと考えた萬狩は、町で食糧を調達した際、ペットクリニックと看板のかかった店を見付けて立ち寄ってみた。そこで、老いた犬の身体に良いものはないかと相談したところ、栄養価も高いからと、柔らかいクッキータイプの犬用おやつを勧められ、まずは試しにと一箱購入してみた。
「もっと太らないと、まるで俺がダメな世話係みたいだろう。だからだぞ」
萬狩が独り言をすれば、シェリーは「ふわ」と小さく答えた。クッキーを与えてみると美味そうに食べてくれたので、とりあえず、朝と夜に一枚ずつあげようと考えて、萬狩は、それも日課に加える事にした。
シェリーは、クッキーを与え始めてからというもの、以前以上に、まるで金魚の糞のように萬狩の後ろをついて歩くようになった。食事の時間外にも関わらず、彼の足をつついて「ふわん、ふわわ」と、犬とは思えない様子で上機嫌に鳴く。
萬狩は当初、クッキーの事が脳裏に浮かばず、相当腹が減っているのだろうかと思って食事を用意したのだが、見向きもされない事に疑問を覚えた。トイレシートが汚れているのかと確認するとキレイで、ますます訝しげに思った。
妙だなと思いつつ数日が過ぎたところで、萬狩はようやく、彼女がクッキーを催促しているのだと気付けた。
「くそっ、味を占めたのか」
「ふわ」
あまりにも不定期に催促されるものだから、萬狩は、ポケットにクッキーを常備するようになった。棚に取りに戻るという手間を考えると、ポケットに入れている方が楽だった。入居時から変わらず、萬狩は負けじと庭の雑草をせっせと刈っているのだが、その折りの『クッキーの催促』は特に憎たらしいのだ。
クッキーは手渡しなものだから、手が涎だらけになるたび、萬狩は、愚痴をこぼしながらもズボンで拭ったが「催促するな」とは彼女に言わなかった。
食事の量が増えて体調が良くなったのか、シェリーは、萬狩に向かって飛んでくる事も増えた。彼がせっせと雑草をむしっていると、大きな身体で背中にタックルしてくるのだ。心構えもなかった萬狩は、そのまま転倒してしまい、尻餅をついたまま彼女を振り返り叱りつけた。
「やめんかこのバカ犬が!」
しかし、そう怒鳴っても、シェリーは心持ち楽しそうな顔で「ふわふわ」と鳴いて優雅に歩いていってしまう。彼女は庭先に設置された例のテラス席の、テーブル下ら出来た影に腰を降ろして、痛む身体を起こしながら愚痴る萬狩を、悠々と眺めたりもした。
月曜日の早朝にも背中に飛びかかられた萬狩は、老人獣医よりも早くやってきた仲西青年に、つい愚痴ってしまった。すると、仲西は「いい事ですよ」とシェリーを褒めるように撫で回した。
「最近は体調も良いみたいだし、元気な証拠です」
「別に、俺は嫌味を言っているわけではないんだが、こう、躾られていた犬の何かが崩れていっているんじゃないかと、そう危惧しただけであって……」
「それだけ、シェリーちゃんが萬狩さんに気を許している証拠ですよ」
仲西が帰った後、珍しく午後に遅れてやってきた獣医の仲村渠(なかんだかり)が、最近のシェリーの体調について褒めた。
「排泄物の色にも問題はないし、歯茎の色も良いですねぇ。食事の量も増えましたか?」
「まぁそうだな、増えてはいるな。最近は、犬用のクッキーを少々……」
「ほぉ、クッキーですか。シェリーちゃんは頭の良い犬だから、食べ過ぎる事はないでしょう。催促されたら、どんどんおあげなさい」
とはいえ、彼女のクッキーの催促は、かなり頻繁ではないかと思えた。自信たっぷりに言われても不安はあり、萬狩は、専門の獣医である彼に「これなんだが」とクッキーの箱を見せた。
仲村渠(なかんだかり)は少し眉を上げるような表情をすると、どこか懐かしげに「なるほど」と見降ろし、途端ににっこりと笑って「良い買い物をしましたねぇ」と言った。仲西がいる会社とは別会社が扱っているメーカー品らしく、老人獣医は「ツテで安く買えますから、次から私の方で持って来ますよ」と請け負った。
※※※
七月になると蒸し暑さが急激に増し、雑草の成長スピードがアップすると同時に、虫も一気に増えた。
空いた時間に庭の手入れをする事が日課になっていた萬狩は、仲村渠(なかんだかり)獣医に、以前この家にあったという花壇について話を聞かされた。別に花壇なんて興味はないぜ、と思ったものの、なぜか脳裏に夢で見た光景の一部が過ぎった。
萬狩は翌日、大型のホームセンターに行って殺虫用スプレーと虫避けを買った際、「暇だし、ついでなんだ」と自分に言い聞かせながら土の手入れに必要な物を一式、それから煉瓦と、店頭販売していたパンジーの花の苗を各色、大量に大人買いしていた。
帰宅した萬狩は、リビングを出てすぐの場所の土を掘り返す事から始めた。
土を耕すなんて簡単だろう、と軽い気持ちで考えていたのだが、実際にやってみると、土を掘り返す作業は想像以上に労力が要った。腰と筋肉の痛みに何度も作業の手を止め、額に浮かぶ玉の汗の拭いながら「まだこれだけしか掘り返せていないのか」と苦い顔をした。
とはいえ、他に予定もないのだ。今日で全部やってしまおう。萬狩は「この野郎」と意気込み、スコップを土に刺してはひっくり返す作業を続けた。
シェリーは伸び始めた雑草に寝転んでおり、時折、空気も読まずにクッキーを催促しにやって来た。萬狩は忌々しくも思ったが、ついでの煙草休憩がてら土で汚れた軍手を脱ぎ、手を洗ってから老犬にクッキーをやった。彼女が脱水症状になっても困ると思い、犬用の水入れも、しっかりテラステーブルの下に置いていた。
夕刻近くになって、ようやく畳み二畳分ほどのお手製の花壇が仕上がった。
煉瓦で囲われた花壇の中に、ホームセンターで購入したパンジーを色ごとに揃えて植えてみると、黄色、紫、白と途端に殺風景だった庭先が、少しばかり鮮やかになった。
「まぁ、良いもんじゃねぇか」
汗だくで疲れ切っていた萬狩は、テラス席で煙草を吹かしながら、改めて花壇を眺めて感慨深く煙を吐き出した。
すると、足元に座っていたシェリーが、まるで賛同するかのように「ふわ」と小さく鳴いた。萬狩が目を向ければ、彼女も花壇に並ぶ花を眺めるように顔を向けていた。その穏やかな眼差しは、どこか誇らしげでもあった。
「なんだ。お前は花が好きなのか?」
萬狩はふと思い出し、「そういえば」と口にしながら、額から落ちてくる汗をタオルで拭った。
「俺の元妻も、花が好きだったな。女ってのは、みんなそういうのが好きなのかね」
そういった趣味も、好んでいた何かを持った事もない萬狩には、よくは分からないものだった。
萬狩の妻は、色取り取りの花や宝石を好んでいた。まだ結婚していなかった当時、彼が何気なく送ったカランコエの苗を、彼女は結婚するまで大事に育てていたものだ。何が気に入っていたのかは分からないが、彼女が、とても幸せそうな顔で見ていた事は覚えている。
「俺は男だから、花言葉なんて知らなかったんだけどな。あいつは、カランコエの花を嬉しそうに見つめて、『素敵な花言葉を持っているのを知っているくせに』って、そう言って笑うんだ。マイホームを購入した時なんか、テラスにカランコエのプランターを置いて、よく世話をしていたっけな」
いつの間にかプランターはなくなっていて、花瓶に花がいけられるようになった。子供達が大きくなる頃には、室内から花の匂いは消えていて、妻も花の話題は口にしなくなっていた。
萬狩は、これまで仕事一本で生きてきた。実用品の他には興味もなく、好んで買い揃えていた品物もなければ、趣味も持っていない。
だから、味気ない庭先に不器用な手製の花壇があって、そこに花が並んでいるだけで、いつもの場所がどうしてか少し暖かく思えてしまうような、そんな不思議な感覚が、一体どういう事なのか分からないでいた。
ただ、そんな彼にでも分かる事といえば、一つだ。
「色が、あるなぁ」
専門家がキレイに整えたものでもないのに、彼には、自分が作り上げたいびつな花壇が、何だか、この世に一つしかない特別素晴らしい物のように思えて、語彙のない自身の感想を口にした。
犬に話し掛けるなんて、と自分らしくない事をしている自覚はあったが、萬狩の心はひどく落ち着いてもいた。ちらりと目を向ければ、シェリーが、まるで「聞いていますよ」というような穏やかな流し目を寄越してくる。
「お前は大人しい犬らしいが、苦労して作った花壇なんだから、踏み荒らしたりするなよ」
「ふわん」
タイミング良く鳴かれて、萬狩は、思わず苦笑した。こいつは、まるで人の言葉を理解しているようじゃないかと、そう錯覚した自分に少しだけ呆れてしまった。
犬は賢い生き物だとはいうが、そんな事、本当にありえるのだろうか?
「まさか。――普段から、あまり吠えない奴だもんな。まったく、勘違いしそうになるから、タイミング良く答えるもんじゃないぜ」
萬狩が新しい煙草を取り出す傍らで、シェリーが再び、誇らしげに「ふわ」と鳴いた。
シェリーは二日間ほど食が細く、萬狩は彼女が食事をする時に、不器用ながらに彼女の頭を撫でた。そばに座って頭を撫でてやらないと、シェリーはほとんどご飯を食べてくれなかったのだ。シェリーの毛は柔らかかったが、その下にある頭は、思っていた以上に固かった。恐らく、若い犬に比べて肉付きが細いせいだろう。
激しい雨は三日三晩続いたが、次第に天気も回復した。シェリーも食欲が戻りだし、三日目からは変わらぬ日常生活を送り始めたので、萬狩も、彼女の頭には触れなくなった。
「お前、風呂に入ると細っこい小さな犬になるんじゃないか?」
シェリーを構う必要がなくなった萬狩だったが、彼がご飯皿に入れる量は増えていた。食べられないと残してしまったのなら、腐らないうちに回収して破棄し、皿を洗えばいいのだ。老犬に肉をつけようと考え、既定の食事時間の他にも、小まめに間食をあげるようになっていた。
そのせいもあるのだろうか。
雨の一件以来、シェリーは、萬狩の後ろをついて回るようになった。
リビングのソファに腰かけて本を読んでいると、ふてぶてしくも萬狩の足を踏むように横になる等、段々と遠慮もなくなってきた。彼は「このクソ犬」と思ったものの、そのおかげで、彼女の体重が思うほど増えていない事にも気付いた。
他に方法はないものかと考えた萬狩は、町で食糧を調達した際、ペットクリニックと看板のかかった店を見付けて立ち寄ってみた。そこで、老いた犬の身体に良いものはないかと相談したところ、栄養価も高いからと、柔らかいクッキータイプの犬用おやつを勧められ、まずは試しにと一箱購入してみた。
「もっと太らないと、まるで俺がダメな世話係みたいだろう。だからだぞ」
萬狩が独り言をすれば、シェリーは「ふわ」と小さく答えた。クッキーを与えてみると美味そうに食べてくれたので、とりあえず、朝と夜に一枚ずつあげようと考えて、萬狩は、それも日課に加える事にした。
シェリーは、クッキーを与え始めてからというもの、以前以上に、まるで金魚の糞のように萬狩の後ろをついて歩くようになった。食事の時間外にも関わらず、彼の足をつついて「ふわん、ふわわ」と、犬とは思えない様子で上機嫌に鳴く。
萬狩は当初、クッキーの事が脳裏に浮かばず、相当腹が減っているのだろうかと思って食事を用意したのだが、見向きもされない事に疑問を覚えた。トイレシートが汚れているのかと確認するとキレイで、ますます訝しげに思った。
妙だなと思いつつ数日が過ぎたところで、萬狩はようやく、彼女がクッキーを催促しているのだと気付けた。
「くそっ、味を占めたのか」
「ふわ」
あまりにも不定期に催促されるものだから、萬狩は、ポケットにクッキーを常備するようになった。棚に取りに戻るという手間を考えると、ポケットに入れている方が楽だった。入居時から変わらず、萬狩は負けじと庭の雑草をせっせと刈っているのだが、その折りの『クッキーの催促』は特に憎たらしいのだ。
クッキーは手渡しなものだから、手が涎だらけになるたび、萬狩は、愚痴をこぼしながらもズボンで拭ったが「催促するな」とは彼女に言わなかった。
食事の量が増えて体調が良くなったのか、シェリーは、萬狩に向かって飛んでくる事も増えた。彼がせっせと雑草をむしっていると、大きな身体で背中にタックルしてくるのだ。心構えもなかった萬狩は、そのまま転倒してしまい、尻餅をついたまま彼女を振り返り叱りつけた。
「やめんかこのバカ犬が!」
しかし、そう怒鳴っても、シェリーは心持ち楽しそうな顔で「ふわふわ」と鳴いて優雅に歩いていってしまう。彼女は庭先に設置された例のテラス席の、テーブル下ら出来た影に腰を降ろして、痛む身体を起こしながら愚痴る萬狩を、悠々と眺めたりもした。
月曜日の早朝にも背中に飛びかかられた萬狩は、老人獣医よりも早くやってきた仲西青年に、つい愚痴ってしまった。すると、仲西は「いい事ですよ」とシェリーを褒めるように撫で回した。
「最近は体調も良いみたいだし、元気な証拠です」
「別に、俺は嫌味を言っているわけではないんだが、こう、躾られていた犬の何かが崩れていっているんじゃないかと、そう危惧しただけであって……」
「それだけ、シェリーちゃんが萬狩さんに気を許している証拠ですよ」
仲西が帰った後、珍しく午後に遅れてやってきた獣医の仲村渠(なかんだかり)が、最近のシェリーの体調について褒めた。
「排泄物の色にも問題はないし、歯茎の色も良いですねぇ。食事の量も増えましたか?」
「まぁそうだな、増えてはいるな。最近は、犬用のクッキーを少々……」
「ほぉ、クッキーですか。シェリーちゃんは頭の良い犬だから、食べ過ぎる事はないでしょう。催促されたら、どんどんおあげなさい」
とはいえ、彼女のクッキーの催促は、かなり頻繁ではないかと思えた。自信たっぷりに言われても不安はあり、萬狩は、専門の獣医である彼に「これなんだが」とクッキーの箱を見せた。
仲村渠(なかんだかり)は少し眉を上げるような表情をすると、どこか懐かしげに「なるほど」と見降ろし、途端ににっこりと笑って「良い買い物をしましたねぇ」と言った。仲西がいる会社とは別会社が扱っているメーカー品らしく、老人獣医は「ツテで安く買えますから、次から私の方で持って来ますよ」と請け負った。
※※※
七月になると蒸し暑さが急激に増し、雑草の成長スピードがアップすると同時に、虫も一気に増えた。
空いた時間に庭の手入れをする事が日課になっていた萬狩は、仲村渠(なかんだかり)獣医に、以前この家にあったという花壇について話を聞かされた。別に花壇なんて興味はないぜ、と思ったものの、なぜか脳裏に夢で見た光景の一部が過ぎった。
萬狩は翌日、大型のホームセンターに行って殺虫用スプレーと虫避けを買った際、「暇だし、ついでなんだ」と自分に言い聞かせながら土の手入れに必要な物を一式、それから煉瓦と、店頭販売していたパンジーの花の苗を各色、大量に大人買いしていた。
帰宅した萬狩は、リビングを出てすぐの場所の土を掘り返す事から始めた。
土を耕すなんて簡単だろう、と軽い気持ちで考えていたのだが、実際にやってみると、土を掘り返す作業は想像以上に労力が要った。腰と筋肉の痛みに何度も作業の手を止め、額に浮かぶ玉の汗の拭いながら「まだこれだけしか掘り返せていないのか」と苦い顔をした。
とはいえ、他に予定もないのだ。今日で全部やってしまおう。萬狩は「この野郎」と意気込み、スコップを土に刺してはひっくり返す作業を続けた。
シェリーは伸び始めた雑草に寝転んでおり、時折、空気も読まずにクッキーを催促しにやって来た。萬狩は忌々しくも思ったが、ついでの煙草休憩がてら土で汚れた軍手を脱ぎ、手を洗ってから老犬にクッキーをやった。彼女が脱水症状になっても困ると思い、犬用の水入れも、しっかりテラステーブルの下に置いていた。
夕刻近くになって、ようやく畳み二畳分ほどのお手製の花壇が仕上がった。
煉瓦で囲われた花壇の中に、ホームセンターで購入したパンジーを色ごとに揃えて植えてみると、黄色、紫、白と途端に殺風景だった庭先が、少しばかり鮮やかになった。
「まぁ、良いもんじゃねぇか」
汗だくで疲れ切っていた萬狩は、テラス席で煙草を吹かしながら、改めて花壇を眺めて感慨深く煙を吐き出した。
すると、足元に座っていたシェリーが、まるで賛同するかのように「ふわ」と小さく鳴いた。萬狩が目を向ければ、彼女も花壇に並ぶ花を眺めるように顔を向けていた。その穏やかな眼差しは、どこか誇らしげでもあった。
「なんだ。お前は花が好きなのか?」
萬狩はふと思い出し、「そういえば」と口にしながら、額から落ちてくる汗をタオルで拭った。
「俺の元妻も、花が好きだったな。女ってのは、みんなそういうのが好きなのかね」
そういった趣味も、好んでいた何かを持った事もない萬狩には、よくは分からないものだった。
萬狩の妻は、色取り取りの花や宝石を好んでいた。まだ結婚していなかった当時、彼が何気なく送ったカランコエの苗を、彼女は結婚するまで大事に育てていたものだ。何が気に入っていたのかは分からないが、彼女が、とても幸せそうな顔で見ていた事は覚えている。
「俺は男だから、花言葉なんて知らなかったんだけどな。あいつは、カランコエの花を嬉しそうに見つめて、『素敵な花言葉を持っているのを知っているくせに』って、そう言って笑うんだ。マイホームを購入した時なんか、テラスにカランコエのプランターを置いて、よく世話をしていたっけな」
いつの間にかプランターはなくなっていて、花瓶に花がいけられるようになった。子供達が大きくなる頃には、室内から花の匂いは消えていて、妻も花の話題は口にしなくなっていた。
萬狩は、これまで仕事一本で生きてきた。実用品の他には興味もなく、好んで買い揃えていた品物もなければ、趣味も持っていない。
だから、味気ない庭先に不器用な手製の花壇があって、そこに花が並んでいるだけで、いつもの場所がどうしてか少し暖かく思えてしまうような、そんな不思議な感覚が、一体どういう事なのか分からないでいた。
ただ、そんな彼にでも分かる事といえば、一つだ。
「色が、あるなぁ」
専門家がキレイに整えたものでもないのに、彼には、自分が作り上げたいびつな花壇が、何だか、この世に一つしかない特別素晴らしい物のように思えて、語彙のない自身の感想を口にした。
犬に話し掛けるなんて、と自分らしくない事をしている自覚はあったが、萬狩の心はひどく落ち着いてもいた。ちらりと目を向ければ、シェリーが、まるで「聞いていますよ」というような穏やかな流し目を寄越してくる。
「お前は大人しい犬らしいが、苦労して作った花壇なんだから、踏み荒らしたりするなよ」
「ふわん」
タイミング良く鳴かれて、萬狩は、思わず苦笑した。こいつは、まるで人の言葉を理解しているようじゃないかと、そう錯覚した自分に少しだけ呆れてしまった。
犬は賢い生き物だとはいうが、そんな事、本当にありえるのだろうか?
「まさか。――普段から、あまり吠えない奴だもんな。まったく、勘違いしそうになるから、タイミング良く答えるもんじゃないぜ」
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