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六章 九月のバーベキュー(2)~萬狩の買い出し~
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午後に約束していた時刻。やって来た仲西と仲村渠(なかんだかり)に留守を任せた萬狩は、買い出しのために車を出した。
予定していた中城村(なかぐすくそん)あたりではなく、那覇まで車を走らせる事にした。特にこれといった理由はない。車を走らせながら、ふと、那覇市に郵便局本店があったなと思い出し、高速を使えば一時間足らずで辿りつけるのだし、見て回るついでに買い物も済ませようと思い至ったのだ。
観光でも有名な那覇の中心街は、建物と車でごった返していた。
萬狩は、壺川駅近くにある郵便局本店で郵送手続きを済ませた後、国際通り近くのコインパーキングに車を停めて、買い出しついでに国際通りとその周辺を少し散策してみた。
老犬がそばにいない時間は、萬狩にとって解放される時間でもあるはずだった。けれど、彼は一人である事に物足りなさも覚えていた。
大通りを軽く回った後、公設市場の中にある小さな店々を覗いていった。途中、生活用品の置かれている店を見付けたので立ち寄ってみると、十五枚、三十枚、五十枚セットの紙皿や紙コップが恐ろしいほど安かったので、割り箸の他にも薄手のタオルセットを購入した。
建物と人が入り組んだ、どこか雑踏とした表通りを歩いていると、以前まで自分が暮らしていた都市の風景が思い出された。
萬狩は、通り過ぎる人間と肩がぶつからないよう気を張って歩いた。しばらくそうやって歩いていると、自分のペースで歩けない事や、熱気や飛び交う車の走行音や客寄せの声、がやがやとした混雑した人々の話し声などの煩さに、知らず苛立ちが積もった。
強い日差しに疲労感を覚え、萬狩は建物の影で一休みした。いつの間にか自分が、眉間に深い皺を刻み忙しなく歩いていた事に気付いて、一瞬の硬直の後、親指で眉間を揉み解した。
今まで実感はなかったが、思い返すと、少し前まではこれが普通だったのだ。
煩わしさに囲まれて、余裕のない心で狭い視野から世界を眺め、自分の事を考える時間なんて少しもありはしない日々を、当然のように過ごしていた。
そこまで考えたところで、萬狩は、この土地に来てから元妻への嫌悪や苛立ちを忘れていた事にも気付いた。国際通りに立ち並ぶアパレルショップのブランド名や、高級宝石店、時計店の看板を見ても、今は愚痴の一つだって思い浮かんではこなかった。
どうしてかは分からない。
元妻に対しては、強い女だったなと、そう思い返すばかりだ。
思い起こしても、なんだか心は静けさをたもってくれている。慣れない土地で距離感のよく掴めない呑気な人間と、新しい家や老犬といった忙しさで、忘れてしまっていたのだろうか?
萬狩は離婚の際、財産の半分と持っていたマンションの一室、それから愛用していた今の車しか手元に残らなかった。その悔しさもあって、今回美味しい話に飛び付いて移住したはずなのに、その事を今まですっかり忘れていた。
貯金を数える事もなければ、これから自分が元妻に取られた分を挽回するような未来の筋書きも考えていなかった。自分は余計な出費は好まない男であったはずだが、今回のバーベキューに関しても、出費を惜しまずやってのけようともしている。
九月なのに日差しが強い。
自宅と違う、むっとした都会の熱気にくらくらした。
萬狩は喉の渇きを覚え、思案するついでに国際通りにある有名な珈琲のチェーン店に入る事にした。数ヶ月ぶりに目を通したメニューには新商品も乗っていたが、試したい気も起こらなかったので、愛飲しているいつもの豆でブラックをお願いした。
外は相変わらず蒸し暑さに包まれていたが、冷房の効いた店内は人でごった返しており、萬狩は、日中の日差しや熱気によって嫌われているらしい人のいないテラス席へと腰を落ち着けた。
ブラック珈琲で一息吐き、そこから、しばし通りを歩く群衆を眺めた。
思い返してみれば入居してから現在まで、老犬シェリーに掛かった雑費に関しても、例の弁護士からもらった請求先へ連絡を取る事を忘れていた。自分には一銭も掛からないと喜んでいたはずなのに、どうしてか、その気が起きないでいる。
自分で買ったとはいえ、本当に、ちょっとした物なのだ。
例えば、立ち寄った店で見付けた犬用のクッキーや菓子。新しい首輪や、自分が持ちやすいと感じた落ち着いた色のリード。
布で拭って急ぎ乾かすと中途半端な湿り気と布の繊維が残って、再度キッチンペーパーで拭いとって仕上げるのも面倒だから、つい多めに買ってしまったステンレスの餌入れ。それから、常にきれいな水を循環してくれる水入れ……
どれも大した額でもない物ばかりだから、レシートも既に捨ててしまっている。今回のバーベキューに入り用な物もそうだった。萬狩が以前住んでいた場所で飲み食いに使っていた額に比べれば、全く気にもならないほどに安い出費なのだ。
だから、何もおかしくはない。
何かが大きく変わった訳でもなく、それは目に見える変化でもない。
萬狩は、早々に空になってしまった珈琲カップを見降ろした。一人と一匹の変わらない生活を思い返し、些細な何かに気付いた様子もない仲西青年と、恐らくこちらの覚悟を知らない振りをしてくれているだけかもしれない、いつも通りの仲村渠(なかんだかり)老人について考え――
「……難しい事を考える必要はないか」
ならばそれでいいのだろう、と思う事にして腰を上げた。久しぶりにここの豆でも買っていくかと、一度店内に戻って、気に入っていた種類の豆を三袋ほど見繕う。
ふと家にいる仲西青年と仲村渠(なかんだかり)老人の事が思い出され、セットになったインスタントタイプの珈琲も買っておいた。老人獣医はいつも持参のお茶で、仲西青年は持ち込みのペットボトル飲料のため、彼らに珈琲を飲む習慣があるのかは知らないが、まぁ買っておいても損はないだろうと思った。
買い物リストには菓子類の走り書きもあったが、この一帯にあるのは土産屋が大半で、駄菓子を扱う店は少ないようだった。手荷物も増えていたので、他の店を回るには不便であると考えて、萬狩はそのまま駐車場向けに足を進めた。
歩き出して数分もしないうちに、先に購入していた買い物袋に加えて、新たに購入した珈琲豆の重さが腕にかかってきた。
強い日差しを受けている事もあり、早々に汗だくになった。陽気な青い空を思わず忌々しく睨みつければ、その眩しさに目が眩んで余計に苛々してしまい、ひとまずビルの影で息を整えた。
そのビルは、若者向けのアパレルショップ等の各専門店が入っているらしい。出入り口からは多くの若者が出入りしており、そこからは冷房の冷気がもったいないほど外へ流れ出ていた。
不意に、そこから若い女性が飛び出してきた。
危うくぶつかりそうになって、萬狩は「うおっ!?」と短い声を上げて咄嗟に身体を捻った。間一髪で衝突は免れたものの、避けたタイミングで珈琲豆の入った袋が手元から飛び出してしまい、小さな放物線を描いて転がり落ちてしまった。
「す、すすすすすみませんッ! 大丈夫ですか!?」
飛び出してきた女性が、何やら茶色い紙袋を大事そうに抱えたまま、我に返ったようにそう平謝りしてきた。まるで自転車で人をひいてしまったような慌てっぷりで、萬狩は呆気に取られて「大丈夫だ、問題ない……」と一番無難だと思える回答を口にした。
その女性は、沖縄ではあまり馴染みのない白い肌に、浅く可愛らしい顔立ちをしていた。どこか愛嬌のある丸い瞳をしており、背丈は百五十センチほどで華奢だ。歳は、恐らく二十台前半といったところだろうか。
大人びたロングタイプのワンピースに、半袖の薄地の上着を重ねているが、全体的にどこか幼さを覚えるような女性だった。薄く化粧はしているものの、髪先に大人びたパーマをあてていなかったら、恐らく少女といっても通りそうだ。顔立ちもそうだが、腕の中の買い物袋を大事そうに抱える様子も、大人になりきれていない印象がある。
萬狩は、落ちた珈琲ショップの袋を手に取るべく腰を屈めた。すると、彼女がそれに気付き、「私がッ」といって素早く拾い上げた。
彼女は、拾い上げた珈琲店のロゴが印字された袋を萬狩に手渡すと、もう一度短く謝罪をして踵を返した。恐らく書籍だろうと思われる紙袋を大事そうに胸に抱えたまま、頬を高揚させ、一見して喜々と伝わる雰囲気で駆けていく。
思わず萬狩は、彼女が出てきた建物の案内板へチラリと目を向けた。確認してみると、四階には彼も知っている書店が入っていた。
ふと、古賀が話していた例の彼女の事が脳裏を過ぎった。
先程の女性は、まるで恋人の作品を抱く少女のようだという見方も出来るし、その作品に恋をしている様子も見受けられた。もし古賀の恋人が、あれぐらい漫画を愛しているタイプの人間なのなら、彼の悩みもそれほどまで重くならなかっただろうし、むしろ全く問題にならないだろうになぁ、とも思ってしまう。
「……ん? そういえば、彼のペンネームを知らないな……」
先日の海の一件での別れ際、古賀は「あの作品を見たら絶対ぼくなんかにイメージが辿り着きませんからッ」「確認してみて下さいよドン引きしますから!」と一呼吸で捲くし立てていたが、パニック状態になっていた古賀は、こちらにペンネームを教える事を忘れている。
筆名やタイトルが分からないままでは、書店内で探しだす事も難しいだろう。
萬狩はそう考えて、再び駐車場へと向けて歩き出した。しかし、無性に煙草が吸いたくなってしまい、先程の珈琲ショップで自分が煙草を吸い忘れているという失態に気付いて、「畜生」と苦々しく顔を歪めた。
国際通りは、現在禁煙となっている。駐車場で携帯灰皿を使って吸うにしても、それがセーフなのかアウトなのか、萬狩にはその喫煙状況が全く分からない。
「まったく、俺が喫煙を忘れるなんて、珍しい事もあるもんだ」
思わず口の中で、すっかり癖のようになっている独り言をした。
大股で歩いた萬狩は、大通りの中腹にあった一軒のコンビニに立ち寄った。コンビニの前に置かれてある灰皿の前で、煙草に火をつけてしばらく吹かしていると、コンビニ店内から、先程見掛けた女性が連れを伴って出てくるのが見えた。
こんな奇遇もあるものなんだな。
萬狩はそう思い、横目にぼんやりとそちらの様子を眺めた。
少女にも見えるその女性は、相変わらず胸に書店の紙袋を抱えていた。その隣に歩いているのは、黒いパンツの似合う背の高い中世的な女性で、彼女達が「こんなところで会うなんてねぇ」と笑いあう声が聞こえてきた。
背の高い女性が、「ふふん」と勝気な目で自信たつぷりにこう告げた。
「あたしは断然、マオ先生派だな。コミケ楽しみにしていたのに、新刊ゲット出来なくてさぁ。あ~あ、時間あったら、マリナちゃんとカラオケに籠もって語り合えたのになぁ」
「休みの日ぐらい、信(しん)輔(すけ)さんとゆっくりデートしてあげて……なんだか可哀そう」
「会社でも毎日顔合わせているのに、今更だよ」
「そうかなぁ。私は、羨ましいって思うけれど」
そう言いつつ小首を傾げる幼い彼女に、中世的な女性が「それにしてもさ」と苦笑を浮かべる。
「マリナちゃん、また二冊買い? 保存版まで買っちゃうとか、なんか勿体ないような気がするんだよねぇ」
「だって、大好きな作家さんだもの」
彼女は腕の中を見降ろし、微笑みながらそう断言した。
「一番大好きな、特別な人なのよ」
足を止めて目を閉じ、彼女は本の入った袋をぎゅっと抱きしめ、噛みしめるように言葉を紡いだ。とても幸福そうで、恥ずかしがる事もなく自分の気持ちを素直に口にする彼女からは、一心に好きだという気持ちが伝わって――
その様子がとても眩しいもののように映って、何故か萬狩は、しばし彼女の様子を目に留めていた。
予定していた中城村(なかぐすくそん)あたりではなく、那覇まで車を走らせる事にした。特にこれといった理由はない。車を走らせながら、ふと、那覇市に郵便局本店があったなと思い出し、高速を使えば一時間足らずで辿りつけるのだし、見て回るついでに買い物も済ませようと思い至ったのだ。
観光でも有名な那覇の中心街は、建物と車でごった返していた。
萬狩は、壺川駅近くにある郵便局本店で郵送手続きを済ませた後、国際通り近くのコインパーキングに車を停めて、買い出しついでに国際通りとその周辺を少し散策してみた。
老犬がそばにいない時間は、萬狩にとって解放される時間でもあるはずだった。けれど、彼は一人である事に物足りなさも覚えていた。
大通りを軽く回った後、公設市場の中にある小さな店々を覗いていった。途中、生活用品の置かれている店を見付けたので立ち寄ってみると、十五枚、三十枚、五十枚セットの紙皿や紙コップが恐ろしいほど安かったので、割り箸の他にも薄手のタオルセットを購入した。
建物と人が入り組んだ、どこか雑踏とした表通りを歩いていると、以前まで自分が暮らしていた都市の風景が思い出された。
萬狩は、通り過ぎる人間と肩がぶつからないよう気を張って歩いた。しばらくそうやって歩いていると、自分のペースで歩けない事や、熱気や飛び交う車の走行音や客寄せの声、がやがやとした混雑した人々の話し声などの煩さに、知らず苛立ちが積もった。
強い日差しに疲労感を覚え、萬狩は建物の影で一休みした。いつの間にか自分が、眉間に深い皺を刻み忙しなく歩いていた事に気付いて、一瞬の硬直の後、親指で眉間を揉み解した。
今まで実感はなかったが、思い返すと、少し前まではこれが普通だったのだ。
煩わしさに囲まれて、余裕のない心で狭い視野から世界を眺め、自分の事を考える時間なんて少しもありはしない日々を、当然のように過ごしていた。
そこまで考えたところで、萬狩は、この土地に来てから元妻への嫌悪や苛立ちを忘れていた事にも気付いた。国際通りに立ち並ぶアパレルショップのブランド名や、高級宝石店、時計店の看板を見ても、今は愚痴の一つだって思い浮かんではこなかった。
どうしてかは分からない。
元妻に対しては、強い女だったなと、そう思い返すばかりだ。
思い起こしても、なんだか心は静けさをたもってくれている。慣れない土地で距離感のよく掴めない呑気な人間と、新しい家や老犬といった忙しさで、忘れてしまっていたのだろうか?
萬狩は離婚の際、財産の半分と持っていたマンションの一室、それから愛用していた今の車しか手元に残らなかった。その悔しさもあって、今回美味しい話に飛び付いて移住したはずなのに、その事を今まですっかり忘れていた。
貯金を数える事もなければ、これから自分が元妻に取られた分を挽回するような未来の筋書きも考えていなかった。自分は余計な出費は好まない男であったはずだが、今回のバーベキューに関しても、出費を惜しまずやってのけようともしている。
九月なのに日差しが強い。
自宅と違う、むっとした都会の熱気にくらくらした。
萬狩は喉の渇きを覚え、思案するついでに国際通りにある有名な珈琲のチェーン店に入る事にした。数ヶ月ぶりに目を通したメニューには新商品も乗っていたが、試したい気も起こらなかったので、愛飲しているいつもの豆でブラックをお願いした。
外は相変わらず蒸し暑さに包まれていたが、冷房の効いた店内は人でごった返しており、萬狩は、日中の日差しや熱気によって嫌われているらしい人のいないテラス席へと腰を落ち着けた。
ブラック珈琲で一息吐き、そこから、しばし通りを歩く群衆を眺めた。
思い返してみれば入居してから現在まで、老犬シェリーに掛かった雑費に関しても、例の弁護士からもらった請求先へ連絡を取る事を忘れていた。自分には一銭も掛からないと喜んでいたはずなのに、どうしてか、その気が起きないでいる。
自分で買ったとはいえ、本当に、ちょっとした物なのだ。
例えば、立ち寄った店で見付けた犬用のクッキーや菓子。新しい首輪や、自分が持ちやすいと感じた落ち着いた色のリード。
布で拭って急ぎ乾かすと中途半端な湿り気と布の繊維が残って、再度キッチンペーパーで拭いとって仕上げるのも面倒だから、つい多めに買ってしまったステンレスの餌入れ。それから、常にきれいな水を循環してくれる水入れ……
どれも大した額でもない物ばかりだから、レシートも既に捨ててしまっている。今回のバーベキューに入り用な物もそうだった。萬狩が以前住んでいた場所で飲み食いに使っていた額に比べれば、全く気にもならないほどに安い出費なのだ。
だから、何もおかしくはない。
何かが大きく変わった訳でもなく、それは目に見える変化でもない。
萬狩は、早々に空になってしまった珈琲カップを見降ろした。一人と一匹の変わらない生活を思い返し、些細な何かに気付いた様子もない仲西青年と、恐らくこちらの覚悟を知らない振りをしてくれているだけかもしれない、いつも通りの仲村渠(なかんだかり)老人について考え――
「……難しい事を考える必要はないか」
ならばそれでいいのだろう、と思う事にして腰を上げた。久しぶりにここの豆でも買っていくかと、一度店内に戻って、気に入っていた種類の豆を三袋ほど見繕う。
ふと家にいる仲西青年と仲村渠(なかんだかり)老人の事が思い出され、セットになったインスタントタイプの珈琲も買っておいた。老人獣医はいつも持参のお茶で、仲西青年は持ち込みのペットボトル飲料のため、彼らに珈琲を飲む習慣があるのかは知らないが、まぁ買っておいても損はないだろうと思った。
買い物リストには菓子類の走り書きもあったが、この一帯にあるのは土産屋が大半で、駄菓子を扱う店は少ないようだった。手荷物も増えていたので、他の店を回るには不便であると考えて、萬狩はそのまま駐車場向けに足を進めた。
歩き出して数分もしないうちに、先に購入していた買い物袋に加えて、新たに購入した珈琲豆の重さが腕にかかってきた。
強い日差しを受けている事もあり、早々に汗だくになった。陽気な青い空を思わず忌々しく睨みつければ、その眩しさに目が眩んで余計に苛々してしまい、ひとまずビルの影で息を整えた。
そのビルは、若者向けのアパレルショップ等の各専門店が入っているらしい。出入り口からは多くの若者が出入りしており、そこからは冷房の冷気がもったいないほど外へ流れ出ていた。
不意に、そこから若い女性が飛び出してきた。
危うくぶつかりそうになって、萬狩は「うおっ!?」と短い声を上げて咄嗟に身体を捻った。間一髪で衝突は免れたものの、避けたタイミングで珈琲豆の入った袋が手元から飛び出してしまい、小さな放物線を描いて転がり落ちてしまった。
「す、すすすすすみませんッ! 大丈夫ですか!?」
飛び出してきた女性が、何やら茶色い紙袋を大事そうに抱えたまま、我に返ったようにそう平謝りしてきた。まるで自転車で人をひいてしまったような慌てっぷりで、萬狩は呆気に取られて「大丈夫だ、問題ない……」と一番無難だと思える回答を口にした。
その女性は、沖縄ではあまり馴染みのない白い肌に、浅く可愛らしい顔立ちをしていた。どこか愛嬌のある丸い瞳をしており、背丈は百五十センチほどで華奢だ。歳は、恐らく二十台前半といったところだろうか。
大人びたロングタイプのワンピースに、半袖の薄地の上着を重ねているが、全体的にどこか幼さを覚えるような女性だった。薄く化粧はしているものの、髪先に大人びたパーマをあてていなかったら、恐らく少女といっても通りそうだ。顔立ちもそうだが、腕の中の買い物袋を大事そうに抱える様子も、大人になりきれていない印象がある。
萬狩は、落ちた珈琲ショップの袋を手に取るべく腰を屈めた。すると、彼女がそれに気付き、「私がッ」といって素早く拾い上げた。
彼女は、拾い上げた珈琲店のロゴが印字された袋を萬狩に手渡すと、もう一度短く謝罪をして踵を返した。恐らく書籍だろうと思われる紙袋を大事そうに胸に抱えたまま、頬を高揚させ、一見して喜々と伝わる雰囲気で駆けていく。
思わず萬狩は、彼女が出てきた建物の案内板へチラリと目を向けた。確認してみると、四階には彼も知っている書店が入っていた。
ふと、古賀が話していた例の彼女の事が脳裏を過ぎった。
先程の女性は、まるで恋人の作品を抱く少女のようだという見方も出来るし、その作品に恋をしている様子も見受けられた。もし古賀の恋人が、あれぐらい漫画を愛しているタイプの人間なのなら、彼の悩みもそれほどまで重くならなかっただろうし、むしろ全く問題にならないだろうになぁ、とも思ってしまう。
「……ん? そういえば、彼のペンネームを知らないな……」
先日の海の一件での別れ際、古賀は「あの作品を見たら絶対ぼくなんかにイメージが辿り着きませんからッ」「確認してみて下さいよドン引きしますから!」と一呼吸で捲くし立てていたが、パニック状態になっていた古賀は、こちらにペンネームを教える事を忘れている。
筆名やタイトルが分からないままでは、書店内で探しだす事も難しいだろう。
萬狩はそう考えて、再び駐車場へと向けて歩き出した。しかし、無性に煙草が吸いたくなってしまい、先程の珈琲ショップで自分が煙草を吸い忘れているという失態に気付いて、「畜生」と苦々しく顔を歪めた。
国際通りは、現在禁煙となっている。駐車場で携帯灰皿を使って吸うにしても、それがセーフなのかアウトなのか、萬狩にはその喫煙状況が全く分からない。
「まったく、俺が喫煙を忘れるなんて、珍しい事もあるもんだ」
思わず口の中で、すっかり癖のようになっている独り言をした。
大股で歩いた萬狩は、大通りの中腹にあった一軒のコンビニに立ち寄った。コンビニの前に置かれてある灰皿の前で、煙草に火をつけてしばらく吹かしていると、コンビニ店内から、先程見掛けた女性が連れを伴って出てくるのが見えた。
こんな奇遇もあるものなんだな。
萬狩はそう思い、横目にぼんやりとそちらの様子を眺めた。
少女にも見えるその女性は、相変わらず胸に書店の紙袋を抱えていた。その隣に歩いているのは、黒いパンツの似合う背の高い中世的な女性で、彼女達が「こんなところで会うなんてねぇ」と笑いあう声が聞こえてきた。
背の高い女性が、「ふふん」と勝気な目で自信たつぷりにこう告げた。
「あたしは断然、マオ先生派だな。コミケ楽しみにしていたのに、新刊ゲット出来なくてさぁ。あ~あ、時間あったら、マリナちゃんとカラオケに籠もって語り合えたのになぁ」
「休みの日ぐらい、信(しん)輔(すけ)さんとゆっくりデートしてあげて……なんだか可哀そう」
「会社でも毎日顔合わせているのに、今更だよ」
「そうかなぁ。私は、羨ましいって思うけれど」
そう言いつつ小首を傾げる幼い彼女に、中世的な女性が「それにしてもさ」と苦笑を浮かべる。
「マリナちゃん、また二冊買い? 保存版まで買っちゃうとか、なんか勿体ないような気がするんだよねぇ」
「だって、大好きな作家さんだもの」
彼女は腕の中を見降ろし、微笑みながらそう断言した。
「一番大好きな、特別な人なのよ」
足を止めて目を閉じ、彼女は本の入った袋をぎゅっと抱きしめ、噛みしめるように言葉を紡いだ。とても幸福そうで、恥ずかしがる事もなく自分の気持ちを素直に口にする彼女からは、一心に好きだという気持ちが伝わって――
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