シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

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七章 男達と老犬の十月(1)~萬狩の再会~

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 バーベキューの後日から、月曜日の定期訪問に関して仲村渠(なかんだかり)老人と仲西青年は、時間を合わせたかのように揃って午前十時にやって来るようになった。仲西の方は相変わらず、木曜日も萬狩宅通いを続けている。

 仲西の来る時間に会わせて、時折、古賀も顔を出すようになった。ペットと暮らせないマンションに住んでいるためか、中型犬シェリーとの触れあいも気に入っているようで、仲西と一緒になって飽きずに彼女を撫でた。次の作品にピアノを出すらしく、萬狩宅のグランドピアノを色々な角度から眺めて、スケッチも取っていた。

 古賀はもうしばらく、例のピアノ教室通いを続けるらしい。彼の借りているマンションは中部地区にあるようだが、北部までの遠い道のりに関しては「車には乗り慣れているから、平気です」と、通う事に無理はないのだと話した。


 こうしてバーベキュー会以降、古賀という訪問客が一人増えたのだが、その他は、萬狩とシェリーの生活にあまり変わりはなかった。

 最近、日中の最高気温は、三十度に届かない程度に落ち着いてきていた。夜になると、冷房の稼働時間を短時間に設定しなければ、朝方に肌寒い思いをしてしまうほどだ。


 日常は落ち着いていたが、老犬シェリーが夜中にトイレで起きる回数が、以前に比べて若干増えたように思えた。不思議に思ってトイレシートを見ても、含まれている尿の量が多くなったという感じはなく、便の色や形に変化もない。

 シェリーは、相変わらずマイペースにゆっくりと歩いたが、気のせいか、来客が途絶えた後は、疲れたようにのっそりと四肢を動かしているようにも感じた。仲西青年が縁側の花壇に水を撒けば、相変わらず軽い足取りで向かい、何食わぬ顔で萬狩の後ろを楽しげに追いかけたりもする。

 それでも、老犬シェリーが萬狩の足元で眠っている時間は、確実に少しずつ増えていた。

「なんだ、疲れたのか」

 ピアノを弾く手を止めて萬狩がそう問い掛ければ、シェリーは「ふわん」と上機嫌に鳴いて尻尾を振った。けれど彼女は、普段の時間量のピアノ練習が終っても、しばらく足元から動こうとしなかった。

 萬狩は他にするべき事へも心が向かず、長らくグランドピアノの部屋にいた。もう数回だけ『エリーゼのために』の曲を練習がてら弾き、ビアノ用の椅子に腰かけたまま本を読み、そうやって過ぎる時間を数え、シェリーが起きてくれるまで煙草を吸いに行くタミングを待っりした。

 シェリーに関しては、筋肉量が若干落ちているらしい事を仲西青年が気にしていた。仲村渠(なかんだかり)は、季節の変わり目もあるだろうとは言ったが、後にこっそり萬狩を呼んで「何か気になる事があれば、すぐに連絡を下さい」と、プライベートの携帯番号を教えた。

 誰もが、ハッキリとしないような違和感を覚えたまま、それ以上の大きな変化もなく九月は平穏に過ぎていった。

              ※※※
             
 十月中旬の月曜日。
 萬狩は早朝一番から、久しぶりにスーツを着込んだ。

 ちょうど支度を整えた午前八時、早い時間にも関わらず、先日に声を掛けていた仲村渠(なかんだかり)獣医と、仲西青年、古賀が彼の家に集まった。

 仲西は萬狩を見るなり、目を丸くして開口一番にこう言った。

「うわぁ。萬狩さんって、スーツだとイメージ変わりますね!」
「おい。それは一体どういう意味だ?」

 実はこの日、家とシェリーを仲西と仲村渠(なかんだかり)、それから予定が空いているという古賀に頼み、萬狩は四ヶ月と少し振りに日帰りで東京へ行く事になっていた。会社で下半期の大きな会議があり、萬狩はそこに参加しつつ、会社内の様子を確認してくるつもりだった。

 萬狩は谷川からの報告で、自分が在宅勤務を始めてからの社内が、日々騒々しいほど忙しいと聞いていた。企画案や書類が山積みになったデスクの写真が送られてきた時は、彼らは一体何をしているのだ、と呆れたほどだ。

 この家を、長時間空けるのは初めての事だ。最近のシェリーについて、仲村渠(なかんだかり)老人には前もって相談し、「大丈夫でしょう」という意見をもらって、夜までには帰れるよう飛行機の時間などの調整行い、今回の会議参加を決定していた。

 最後にもう一度、帰りまでの日程と携帯電話の連絡先を確認させ、萬狩は三人に「迷惑を掛けるが少し頼む」といって家を出た。

 高速道路を利用して那覇空港に向かうと、平日の早朝にも関わらず、空港内には意外にも多くの旅行者がいて、出入りする人間の数の多さには眩暈を覚えた。那覇空港から出発し、約二時間のフライトの間に、萬狩は少しだけ仮眠を取った。


 十月の東京は、沖縄とは違い、秋の肌寒さが始まろうとしていた。

 久しぶりに足を踏み入れた社内は整然としており、萬狩が来社すると事前に知らされていたせいか、ほどよく緊張した空気も流れ、ちらりと見やったデスクもキレイに片付けられていた。


 萬狩が谷川に迎えられてすぐ、会議は予定していた時間通りに始まった。大きく揺らいだ数字もなく、会議は始終比較的に落ち着いていた。

 業績は微々としか上がっていないが、その問題に関しては、これまでにないほど全員が積極的に考えてくれている姿勢もあった。どうやら部下達の意識が向上し、成長しているらしいと見て取った萬狩は、今後の可能性を感じて大きな口は出さなかった。

 会社内の様子を少し見て回った後、萬狩は、久しぶりに顔を合わせた谷川と食事をするため、昼過ぎに会社を出た。

 萬狩としては、飛行機の時間があるから近場でしようかと考えていたのだが、「僕がおごるからさ」と谷川に爽やかに誘導され、渋々タクシーで四十分の距離にある料亭へと向かった。

 何度も足を運んだ事があるその料亭は、既に谷川が予約を入れていてスムーズに入店する事が出来た。準備の良さを覚え、萬狩が訝しげに「やけに用意がいいな?」と警戒して言うと、谷川は「いいから、いいから」とはぐらかして歩く先を促した。

 個室席に案内されたところで、萬狩は用意の良さの理由を知り、怪訝な表情を作った。案内された席には、予想外の先客が待っていたのだ。

 萬狩が思わず「おい」と谷川を睨み付けると、彼は悪びれる様子もなく「ごめんね」と笑顔のまま言った。

「君が来る事をこぼしたら、伝言ゲームみたいに噂が広がったみたいでさ。ご相伴あやかりたいっていうから、オーケーしちゃったんだよ」
「奢りを期待する年齢でもないだろうに」
「そうは言っても、翔也(しょうや)君はまだ二十五歳だろう? 勤務年数も浅いし、完全予約制の料亭とか滅多に来られないかもしれないなぁと思ったら、僕としても奢りたくなっちゃって」

 そこで谷川が、同意を求めるように「翔也君も奢りだと嬉しいよね?」話を振った。視線の先にいた青年が、座敷に礼儀正しく正座した状態で「そうですね」と、どこか困ったような笑顔を浮かべる。

 その青年は癖のない髪に、すらりとした体躯をしていた。母親譲りの可愛らしい顔立ちをした彼は、萬狩(まがり)翔也(しょうや)といい――萬狩の二番目の息子だった。

 翔也は容姿も柔らかい雰囲気がある青年で、温厚な性格をしていた。仕事に厳しい長男とは違い、他人とのコミュニケーションを楽しめるような仕事を好み、社交的な点も、父親である萬狩とは大きく違っている。

「父さん、久しぶりです」
「ああ、そうだな」
「沖縄に移住したと聞いた時は、すごく驚きました」
「誰に聞いた?」

 どうせ長男と同じ勤め先にいる、谷川の息子あたりだろうと萬狩は推測していた。谷川の息子は、非常にお喋りが好きな男で、そこから萬狩の移住の情報が長男に伝わり、翔也へと話がいったのかもしれない。

 翔也はのんびりとした口調で「兄さんです」と、萬狩が予想した通りの返答をした。

「住所も分からないから手紙の出しようもないって、兄さんが、そう愚痴っていましたよ」

 次男の翔也と違い、長男は手紙を出すというイメージがまるでない息子である。冷水を口にしたタイミングで聞いていた萬狩は、半ば咽てしまった。谷川が労わるように背を撫でて「はい、ティッシュ」と手際よくフォローする。

 翔也が、父親の珍しい光景を見て、きょとんとした様子で小首を傾げた。

「大丈夫ですか、父さん?」
「翔也、それは恐らく、その場の冗談のようなものだろうから、聞き流していいんだ」

 そういえば、こんな子だったなと思い出しながら、萬狩は自分の二番目の息子を見つめ返した。翔也は根が素直なのか、家族を全く疑っていないのか、食卓で兄や母の冗談を真に受けて、萬狩を何度か絶句させた事があった。

 移住したとはいえ、萬狩の携帯番号は変わっていないのだ。あの長男の事だから、用があるのなら手紙ではなく電話を寄越すはずである。

 そういえば最後に息子達と顔を会わせた際、彼らの前には、裁判を終えた元妻が立っていたのだ。彼女が自分で壊した携帯電話を指でつまんで見せ、「もうコレは使えないから、電話帳から私の番号は消してちょうだい」と冷ややかに告げる姿は、今でも強烈な記憶の一つである。

 その光景が鮮明に思い出されて、萬狩は、途端に頭が痛くなった。

 元妻は、恐ろしいほどの行動力を持った強い女でもあった。用済みになった携帯電話を、先程まで夫だった萬狩の前で地面に落としたうえ、冷静な顔のままヒールで踏みつけて、再び粉砕する女性というのも少ないだろう。

 冷静沈着――というよりは、表情筋が年々硬直しているような長男は、それを静かに眺めていたが、次男の翔也は「わぁ」と呆けた顔をしていた。萬狩も「さすがは最強の女……」と、彼女の絶対零度の美しい冷笑を前に、しばし言葉が出なかったほどだ。

 その時、料理が運ばれてきて、自然に会話が途切れた。

 萬狩はげんなりとした表情を浮かべて、目頭を揉み込んだ。彼が何を思い出したのか察したように、谷川がやけに明るい声で「美味しそうだねぇ」と合掌して箸を手に取った。

 わざとらしい話のそらし方だったが、萬狩は、最強の元妻とのやりとりを頭から追い出し、まずは刺身にかける醤油を手に取った。店員が礼儀正しく出ていったのを見送った翔也が、「冗談ではないと思うんだけどなぁ」と不思議そうに呟いて、自分の前に並べ置かれた料理を見降ろした。

「兄さんは、まぁ確かに無表情が通常運転みたいな人だけど、冗談は言わない人ですよ、父さん」

 萬狩は答える代わりに、刺身を口に放り込んだ。翔也は可愛らしく眉根を寄せて、それから「いただきます」と箸を手に取った。


 離婚が決まる数年前から、萬狩は別居生活を送っていた。仕事尽くしで息子達と会話する事も少なかったため、翔也がこんなにも落ち着いて話せる事がなんだか意外で、――離れている間にも子は成長するものなのだなと、我が子の様子を盗み見ながら思った。

 子供達との間には、わだかまりを残せるような機会もなかった。

 自分が父親として、それぐらい何もしてこなかった事は理解しているつもりだった。だから、こうして顔を合わせても平気でいられて、億劫や後ろめたさを覚える事もないのだろう。


 しかし、父と子として何もなさすぎたせいだろうか。話せるような事が一つも思い浮かばず、どうしたものかなとぼんやり考えながら、萬狩は料理を口に運んでいた。
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