シェリーに最期のおやすみを ~愛した老犬に贈る別れの……~

百門一新

文字の大きさ
32 / 41

七章 男達と老犬の十月(3)~萬狩と愉快な…~

しおりを挟む
 土産の菓子をいくつか見繕って購入し、再び飛行機に乗って沖縄に戻った萬狩を待っていたのは、尻尾を大きく振った老犬シェリーと、瞳を輝かせた仲西、それから申し訳なさそうに肩身を狭める古賀だった。

 どうやら、古賀は仲西の暴走を止めようと頑張ったものの、結局は話を聞いてもらえなかったらしい。電話の件をひどく謝られて、萬狩は溜息交じりに「大丈夫だ」とつい彼を労った。

 老人獣医は仕事で先に帰宅していたが、テーブルの上には『お疲れ様、お土産は私の分も残しておいて下さい』としっかり伝言が残されていた。その食い意地が元気の秘訣でもあるんだろうかと、萬狩は、マイペースな仲村渠(なかんだかり)を思い浮かべて顔を引き攣らせた。


 萬狩は、土産を持たせて仲西と古賀を見送った後、場が落ち着いてようやく、次男にこちらの住所を教えたのは不味かっただろうか、と今更のように思い返した。


 翔也は別れ際、「一応、母さんには言わないでおきますから」と萬狩を安心させるような事まで口にし、住所を教えて欲しいと頼んできた。年賀状ぐらい書きたいじゃないですか、と寂しそうに言われれば、父親として不甲斐なさを覚えている萬狩には、断れるはずもない。

 とはいえ、家族が揃った最後の別れを思うと、萬狩としては悩まされてもいた。翔也はともかくとして、知られてしまった場合の元妻と長男の行動が、予想出来ないでいる。

「……まぁ電話を寄越さないぐらいだから、無視してくれるだろう」

 たかが住所を教えただけで怒るような女でもない。元妻は、年々言葉数が減って口調もかなりきつくはなったが、今後一切連絡を取らないでちょうだい、とまでは非難していなかったように思う。だから、多分大丈夫だろう。

 数時間ほどの留守だったが、シェリーは、しつこいぐらい萬狩の後をついてきた。風呂とトイレに入れば扉の前で律儀に待っており、キッチンに立つと身をすり寄せ、リビングに落ち着くと足元に座る。

 普段通りの澄ました様子が取れないらしい老犬に、萬狩は、気付かない振りをしていつも通りを心がけた。仲西と古賀にたっぷりの愛情を与えられている、老いた優しげなシェリーの瞳を見つめ、クッキーを一枚手渡しで与えてやる。

 それ以上の事を、彼はしなかった。ようやくシェリーが落ち着いてくれるまで、萬狩は、リビングのソファに腰掛けて、興味もないテレビ番組を眺めた。

              ※※※

 十月も下旬に差し掛かると、太陽の出ていない時間は二十五度を切るようになった。月曜日の診察にやって来た仲村渠(なかんだかり)は、「夜が涼しいので、つい散歩してしまいます」と語った。

 それを聞いた仲西が、すぐに「まだまだ暑いですよ」と反論する。

「だって、まだアイスクリームが手放せないですもんッ」
「お前、いつか糖尿病になるんじゃないか? 菓子だけかと思ったら、最近はここへ来るたびアイスも食ってるのは、さすがにどうかと思うぞ」
「萬狩さん。仲西君はね、会社の健康診断で、中性脂肪が増えていると言われたらしいですよ」

 仲村渠(なかんだかり)が、面白がるようにそう言った。


 過ごしやすい気温になってきたというのに、対するシェリーは、涼しくなった夜間に起床するようになっていた。萬狩が寝入っていると、深夜二時から三時の間にベッドに顔を出し「ふわ」と鳴いて彼を起こすのだ。


 腹が減っているのかと思ってクッキーを差し出すが、食べない。トイレがいっぱいになっているのかと思ってチェックするが、特に問題はない。

 ただ、彼女は起きた萬狩の向かう先々に、尻尾を揺らしながらついて来るだけだ。萬狩はそのたびに、老犬をじっと見降ろし、同じ言葉を掛けた。

「なんだ、寝むれないのか」
「ふわん」

 その日の夜も、萬狩はシェリーを連れ立って、庭へと続くリビングの窓を開けてサンダルを履いた。静寂が満ちた夜空には、少しだけ欠けた大きな月が出ていて、青白い光が眩しく差していた。

 萬狩は何をする訳でもなく、涼しい夜風を感じながら煙草を吸い、庭先で夜空の月を眺めて時間を潰した。シェリーは彼の足元に礼儀正しく座り、けれど、それ以上に何かをする事も、求める事もなく、萬狩と同じ方向へ顔を向けていた。


 そんな日々が毎夜のように続き、見上げる月が、円形から半分の形にまで変化した頃、沖縄はしばらく不安定な天気が続いた。ようやく季節が変わるのか、一雨ごとに日中の気温も下がり始めた。


 しばらく顔を見なかった古賀がやって来たのは、十一月に入った第一週目の月曜日だった。

 仲西と仲村渠(なかんだかり)が、それぞれの仕事を終えた頃に訪問した古賀は「ご無沙汰してます」と、相変わらず声をこもらせてそう言った。

「実は、原稿の締め切りに追われていまして……」
「ほぉ、良かったじゃないか」
「前回のピアノの漫画が好評だったみたいで、続刊が決定したのです…………」

 語る彼の口調は、内容に反して沈んでいった。萬狩が察したように「例のドウジンか」と尋ねると、彼は項垂れて「……その通りです」と消え入るような声で答えた。

 心なしか、若干、古賀の身体の堆積が少なくなっているような気がした。恐らく、漫画家として本当に忙しくしていたのだろう。うっすらと残る目元の隈に気付き、仲村渠(なかんだかり)が同情の眼差しを寄越して「お疲れさまでした」と言葉を続けた。

「珈琲とお茶、どちらになさいますかな?」
「……できれば、甘い珈琲で」

 古賀がはにかみ、そう答えた。

 もはや萬狩は、「ここは俺が一人で住んでいる家のはずだが」という台詞も口にする気が起きなかった。額を手で押さえて「勝手にやってくれ」と苦々しく言い、慣れたようにキッチンに向かう仲村渠(なかんだかり)を見送った。

 仲西青年は最近、必要以上にシェリーを甘やかす事が増えていた。彼女の歩く時間が減っている事は誰の目にも明らかで、けれど、それを口にする者はなかった。仲西も古賀もそれを表に出さないまま、横になったシェリーを「可愛いかわいい」とやり、彼女の好きなクッキーを与える。

 最近になって、シェリーはまるで老人のように、ぼんやりと縁側を眺める様子を見せていた。そう言えば老犬だったなと、萬狩が遅れて思い出すほど、少し前が元気過ぎたのかもしれない。

「また花火パーティーしましょうよ、萬狩さん!」
「そんなパーティーを行った覚えはないが」
「次はバーベキューじゃなくて、鍋ですよ、鍋ッ。シェリーちゃんでも食べられる食事は、僕が用意しますね!」
「お前、俺の話を聞いちゃいねぇな。どうせ、それも既に決定事項なんだろう」

 萬狩がそう言いながら顰め面を向けると、そろそろおいとましようと支度していたマイペースな仲村渠(なかんだかり)老人が、彼の視線に気付いて、壁に掛かっているカレンダーに指を向けた。

「ちゃんと予定表に書きこんでおきましたから、安心なさい」
「それは俺の家のカレンダーで、その気遣いには、ちっとも安心出来ないんだが」
「古賀君が、彼女に告白出来るかもしれない大事なパーチーなのですよ、萬狩さん」

 仲村渠(なかんだかり)は、表情そのままに「パーチーです」ともう一度、可愛らしい言い方を意識してそう告げた。残念ながら、老人が悪戯心を宿した目でそう口にしても、ちっとも可愛らしくは感じない。

 萬狩は、家主として俺の威厳は何もないな、と頭を抱えた。全く面識のない古賀の恋人とやらが『鍋パーティー』に参加するさまを想像して、額に手をあてて悩ましげに呟いた。

「……はぁ。恋人まで招待するつもりなのか」
「す、すすすすみません萬狩さんッ。仲西さんにアドバイスをもらいまして……」

 だから、お前は相談する相手を間違っているんだ。

 萬狩は、その思いを溜息に吐き出した。「すみませんでした」と涙目になる丸い小男を見ていると、相談された時の様子も蘇り「……一人増えても、二人増えても同じだ。気にするな」とぶっきらぼうに気遣った。

 仲西によると、古賀の『彼女にプロポーズをしよう!』という決心が鈍らないよう、彼の恋人には、既に招待状も郵送しているらしい。

 鍋パーティーの日取りは、一周間後に設定されていた。急過ぎる案件のようにも思えたが、誰もが同じ事を考えているのだと分かって、萬狩は反対しなかった。シェリーとは短い付き合いの古賀も、薄々何かを感じ取っているようで、出来るだけ顔を出せるよう時間を合わせて、老犬と触れ合う時間を増やしていた。

「それで、鍋のテーマは何なんだ?」
「肉ですよ萬狩さん!」
「私の漁師友達に頼んである美味しい魚介類も、贅沢に投入致します」
「あれ? ぼく、メールで『実家の名産鳥肉』を頼まれましたけど……」
「…………」

 ああ、もう勝手にしてくれ。

 つまり、ごちゃ混ぜの鍋なのだろう。萬狩が無言で天井を仰ぐと、足元にいた老犬シェリーが「ふわん」と楽しそうに鳴いた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

妻からの手紙~18年の後悔を添えて~

Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。 妻が死んで18年目の今日。 息子の誕生日。 「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」 息子は…17年前に死んだ。 手紙はもう一通あった。 俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。 ------------------------------

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

番解除した僕等の末路【完結済・短編】

藍生らぱん
BL
都市伝説だと思っていた「運命の番」に出逢った。 番になって数日後、「番解除」された事を悟った。 「番解除」されたΩは、二度と他のαと番になることができない。 けれど余命宣告を受けていた僕にとっては都合が良かった。

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

処理中です...