潮風をまとう人

百門一新

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 父が死んだという知らせが入ったのは、長い冬がようやく終わり、木々の枝先に春の贈り物が暖かな蕾を付け始めた頃だった。

「県立病院の者ですが……」

 電話越しでそう前置きした医者は、気遣うような声で父の死亡を話し聞かせた。
 アラタは、彼が一体何を言っているのかすぐには理解出来なかった。「癌」「お辛いでしょうが」「お父様も頑張られて」……次々に告げられた様々な言葉が、頭の中でぐるぐると渦を巻いた。

 父の死に顔は、まるで眠っているかのように穏やかだった。揺り起せば今にも「なんだ」と淡々とした、いつもの愛想もない挨拶代りの言葉を返してきそうだった。

 母と同様、父の葬儀もひっそりと行われた。生前に父は「自分が死んだら彼を呼んで欲しい」と病院側に頼んでいたようで、飛んで駆けつけた大浜が、アラタの代わりに全てを引き受けた。

「お前の親父さんの遺骨は、あいつと約束した通り、お前の母親を入れた場所と同じところに持って行く」

 大浜は疲れ切り、沈痛した面持ちでそう述べた。

「お前はまだ若いし、心の整理もつかないと思う……。俺が、責任を持って遺骨を納めるよ。こいつも、ずっと帰りたかったと思うから」

 帰りたかったとは、一体、どこへ?

 そう思った言葉は出て来なかった。五年前から父の内臓が壊れ始めていたなんて、アラタには信じられなかった。大学受験のやりとりをしていた時も、入学式にきた時もそんな気配なんて感じなかったし、父は何も教えてくれなかった。

 大学の入学届けがきたタイミングは体調が悪く、アラタを迎え入れられる状態ではなかった。だから郵送で済ませた父は、大浜に『祝ってやってくれ』とも頼んでいた。入学式の後もたびたび入退院を繰り返し、連絡を取れる状態ではなかったのだ、と。

 アラタは打ちひしがれ、ついに心がボキリと音を立てて折れた。

 諦めるなと、過去の気丈な自分が声を上げている。でもそんな気力はとうに底を尽き、この声が聞こえるかと、未練が悲痛な叫びを上げて噎び泣くかのように胸が痛む。

 うまく思考が働かない。初七日まで大浜と色々と必要な場所へ足を運びながらも、ただ一つ残された写真の着流しの父の姿ばかりが、何度も浮かんでは消えていった。遺影の父はやや若く、静かな眼差しをした落ち着いた顔は、まるで知らない人のようにも思えた。

「ショックなのは分かる。けどな、大学を休むのは駄目だ。お前は大学を卒業しなくちゃいけない。お前の親父さんと、そう約束しただろう?」

 すっかり何もなくなった父のアパートを引き払ったその日、旅立つ前に大浜はアラタにそう言った。亡くなった父は『俺が死んだらアラタに』と、大学を卒業するまで充分すぎるほどのお金も遺していた。

 空港に向かう彼と、どこで別れたかはよく覚えていない。父に関するものが色々と入っているであろう大きな旅行と、父の遺骨を大事そうに抱えた大浜の、少しだけ肩が落ちた大きな後ろ姿だけが、アラタの網膜には焼き付いていた。

 久しぶりに帰った自分のアパートは、開けると少しカビ臭い匂いが鼻をついた。積もった埃は、しばらく人の出入りがなかったことを伝えてくる。

 父が亡くなってから、アラタの時間感覚も曖昧になっていた。薄暗い室内の電気をつけたところで、記憶を辿るように、しばらくぼんやりと部屋の中央に佇んだ。

 そういえば携帯電話を忘れていったんだっけ、もう充電は切れているだろうな。授業が少ないから、四月なんてほとんど休みじゃんって友達と笑って話していて。ああ、そうだ。三年になったら何泊か遊びに行こうって、ナナカたちと予定を考えている真っ最中だったんだ。それから、それから……。

 その時、小さなテーブルの上に置かれた、一枚の書きかけの手紙がアラタの目に留まった。一週間と少し前、初めて父宛てに書き出そうとしていた手紙だった。真新しい便箋には、過去のアラタによる手書きの文章がぎこちなく並んでいた。


――父さんへ、元気ですか。
  俺は、先日、無事に大学三年生になりました。
  学費は無理しなくていいよ。
  学校独自の奨学金制度があるって聞いて……――


 そこで文章は途切れている。先週の夜、病院から知らせを受けた際、ペンを放り出してアパートを飛び出したのだと、アラタはようやく思い出した。

 途端に身体から力が抜け、そのまま床に膝を落としてしまった。テーブルへと四つん這いで進み、震える指先で、書き途中のままの手紙を引き寄せる。

 俺は無事に三年生になった。今年で二十一歳になる――あの時に伝えたかった言葉が、急速に喉にせり上がってきた。唇を噛みしめた直後、ボロボロと涙が溢れてこぼれ落ち始めた。

 俺は結局、最後までいい息子になれなかった。

 意地っ張りで、バカで、救いようのないくそガキだったんだ。

 悔しさで、涙が次から次へと溢れた。便箋をくしゃりと握りしめて、胸に押し当てて一人泣いた。

 無償に、父に会いたくてたまらなかった。

             ※※※

 泣き疲れて眠ると、またしても小島と低い海と水牛の風景がある夢を見た。ゆらゆらとアラタを運んでいくその幻想は、ゆっくりと呑気な旅を続けているかのようだった。

 その夢から覚めた途端、強烈な後悔と罪悪感が戻ってきて、耐えきれない感情の乱れにぐっと吐瀉感が込み上げた。たまらず、洗面所で空っぽの胃を絞るように嘔吐した。

 それは、その日を境に毎度のように続いた。身体を動かす気力もなく、しかし疲労感に包まれたまま眠りに落ちると、目覚めと共に涙がこぼれてげぇげぇ吐いた。

 時間の感覚すら分からなくなっていた。ナナカや男友達が、入れ替わり立ち替わり「大丈夫か」と心配そうに様子を見にやって来るようになっても、しばらくは自分から迎え入れる事も出来ず会話もあやしかった。

 それが何日続いているのかも数えられていない。それでも彼らは、部屋の換気を行い埃がたまらないよう掃除をし、「これ食えそうか?」と食べ物を並べたり、親身になってアラタの身の周りの世話を焼いた。

「しばらくは出られそうにないって相談して、お前の授業後半に移動してもらったからな」
「なぁ、この布団ってどこに干せばいいんだっけ?」
「貸して。あたしがやるから」
「ほらアラタ、お前は今のうちに風呂に入って来い!」

 そう言われて、熱々の湯が溜められている浴室に向かって背中を押された。世話好きな奴らだと、アラタは申し訳なさを覚えて考えたところで、ふと気付いた。

 そういえば少し蒸し暑い気がする。久しぶりにカレンダーの方を見ると、まだ涼しいと豪語出来るような春の時期を過ぎてしまっていた。振り返ってみると、室内に漂う湿気ごと、陰鬱な空気を払うかのように動いてくれているナナカ達の姿が目に留まった。

 プールの底に沈んでいるみたいだった五感が、途端に現実感を思い出させて戻り出した。アラタは、思わず涙が込み上げそうになった。優しくて暖かい、健気なほど真っ直ぐな友人達がそこにはいた。

 つい、立ち尽くしてしまっていると、ゴミを出しに行く友人に背中を叩かれた。

「早く元気になれよ」

 そう言われて、彼の顔を正面から見つめ返してハッとした。どこか辛そうな表情に、無理やり空元気な笑顔を浮かべて、気遣う目でこちらを見ていた。

「……ごめん。こんなの、俺らしくないよな」

 すっかり体力も落ちている自分の手を見下ろして、ぎゅっと拳を作った。来週までには体調を戻して授業に出るからと彼らに約束して、体力を戻す二、三日分の買い物の協力をお願いした。
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