潮風をまとう人

百門一新

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 そしてその翌週、アラタは大学生活に復帰した。

 七月は取っている授業も少ないせいか、なんだか実感もなく日々だけがどんどん過ぎていくようだった。

 困ったのは、引きこもり期間で寝坊癖がついてしまった事だ。授業に遅刻させてはいけないと、アラタを叩き起こす役目を、友人一同から『元彼女』のナナカが任命されていた。

 起こしてくれるのは有り難いのだが、授業のない日も正午前にはやってくるのである。

「とっとと起きなさい! カビとキノコが生えても知らないわよ!」

 そう言って、寝坊癖が取れるまで問答無用でアラタに掴みかかって叩き起こした。家事を手伝ったり買い物がてら歩いたり出来るのが嬉しいようで、いつも楽しそうにしていた。

 気分は低迷のままだったが、おかげで寝坊癖は七月の下旬にどうにか抜けてくれた。
 だというのに朝一番、ベッドで寝ている人様の身体の上にダイブしてきたりする。そもそも男一人の部屋に、堂々と入ってくるのはいかがなものだろうかとアラタは思う。

「…………ナナカ、俺、もう寝坊なんてしてないだろ」

 またしても「おーきーてー!」の声の直後、身体への衝撃を受けて目覚めたアラタは、上に乗っているナナカを軽く睨みつけた。

「なんか、こういうアラタが見られるのも新鮮で」
「味をしめたみたいに言うな。それから人の上でくつろぐな」
「ふふふ~、もしかして照れてる?」

 ニヤニヤと優越感で問われて、寝起きのアラタはピキッと青筋を立てた。口角を少しだけ引き上げて「ほぉ?」と低い声で呟くと、「え」と固まった彼女の頬に手で触れた。

「朝から誘っているのか?」

 そのまま、彼女がツボだとか言っていた台詞と、不敵な笑みを浮かべて見せた。

 ナナカが、勢いよく上から退いて距離を取った。真っ赤な顔で「S系が似合うイケメン面で、その台詞と表情されると心臓もたないからやめてって言ってるでしょおおおお!?」と叫んでくるのを見て、アラタはまたしても見ていた『水牛の夢』の事を少し忘れられた。

 これで、しばらくはこっちを意識して上に乗って来ないだろう。

 そう思った時、ふと、寂しさで胸のあたりがきゅっと空くのを感じた。もし彼女が来なくなる日がきたとしたら、としばらく考えてしまっていた。


 それから数日、目覚めが悪い日が続いた。
 半ば睡眠不足で食も細かったアラタは、起こされる前に起床するという久しぶりの目覚めで、こちらを覗き込んでいるナナカと目が合った。

 彼女に「大丈夫?」と心配され、平気だと答えて数日振りにカレンダーを見た。そこで、いつの間にか七月が終わって、八月に突入したことを知ったのだった。
 
             ※※※

 それからというのも、まだ残っていたぼんやりとした調子を拭い捨てて、アラタは真剣に考え過ごした。

 やらなければならないことが待っている。八月のカレンダーを目に留めた時から、そんな予感を覚えていた。まるで以前から決められていた約束事であるかのように、何かに強く急き立てられるのを感じて、行動案を決めて準備に取り掛かった。

 数日前、勝手にちぎられたカレンダーは八月のものに変わった。それを目に留めながら、週末である本日も当然のようにやってきたナナカの動く音を聞きつつ尋ねた。

「――なぁ、ナナカ。一つ訊いてもいいか?」
「なあに?」

 窓を開け放ったナナカは、続いてベッドシーツを回収してから振り返る。またしても先に起床していたアラタが、先程からずっとカレンダーを見つめていて視線を返さない様子にチラと眉を寄せた。

「何よ、ずっとカレンダーばっかり見て」
「『ウミンチュ』ってなんだ?」
「なんか、アラタにしては珍しい質問……?」

 唐突にどうしたの、とナナカは両手でベッドシーツを抱えたまま、まだ目が合わない彼に少し唇を尖らせる。

「『ウミンチュ』って、沖縄で『海人』って書いてそう読むやつでしょ? 確か、漁師さんとかじゃなかったっけ?」
「ふうん。じゃあ会社の名前ではないんだな」
「……アラタって興味がないことに対しては、全然考えたり知ろうとしたりしないわよねぇ」

 確かに、そうかもしれない。

 アラタは、唇の上に言葉を滑らせた。先日に自分の上から彼女を退かした直後から考えている事についても思い返しながら、カレンダーにプリントされた海の写真を見つめていると、ナナカが「それにしても」と言って首を傾げる。

「今日は、すっかり身支度も整っていて珍しいわね。どこかへ行くの?」

 そう問われたアラタは、きょとんとしている彼女を見つめ返した。

 落ち着いた眼差しを向けられたナナカが、ちょっと恥ずかしそうにして「何よ?」と強がりで言う。ようやく目が合って嬉しいのか、照れたのか、ベッドシーツをぎゅっと抱き締める。

「また『勝手に上がって来るな』とでも言いたいの? ここ数日は、いつもの夢でうなされなくなって早起きもしているみたいだしね」

 後半は自棄(やけ)になったみたいに、棘のある声で続ける。

「アラタが、自分で生活出来る人なのは知ってるわよ。こうやって部屋の片づけを手伝ったりするのだって、余計なお世話だって分かってるの。でも、あたし、なんか同棲している感じで好きというか、その、お節介かもしれないけど今のまま続けたいというか――」
「俺達、恋人同士に戻ろうか」
「へ?」

 明日の天気でも言うみたいに告げられて、彼女がポカンとした顔をする。ああ、やっぱりイイなと思って、アラタは柔らかな苦笑を小さく浮かべた。

「関係の保留中について、俺なりに考えていたんだ」

 言いながら歩み寄る。次第に赤面した彼女が、「待っていきなりの展開で頭が沸騰しそう」とあとずさりするのに対して、「待たない」と答えて正面に立った。

「俺はナナカが好きだよ。親友としてそばにいて居心地がいいとかじゃなくて、卒業後もずっと一緒にいたい」
「ほ、本当に? え、あの、私でいいの? 大学には他にも可愛い子がいっぱい――」
「俺が他の女の子に興味を抱いた事あった?」
「いいえ無いわ」

 腰を抱き寄せられたナナカが、放心状態のまま思った事を即口にする。

「それで、ナナカの返事を聞きたいんだけど。ナナカは俺が『恋人』で構わない?」
「大歓迎に決まっているじゃないの。私、ずっと一緒にいたいくらいアラタが好きよ」

 そうやってきちんと訊いてくれるところも好き、と、恥じらいと感激で瞳を潤ませて口にする。もう耳まで真っ赤になっていて、冷静沈着なアラタを凝視していた。

「何コレ、超ロマンチックで今すぐ結婚したいくらいアラタが格好良すぎる。そのまま押し倒してくれても全然構わないのよ」
「いや、それは構うよ……ナナカってさ、実のところ俺のことめっちゃ好きだろ」
「うん好き、保留中にいっぱいっぱい考えてもっと好きになって、好き過ぎてしんどいくらい好きなの。何気ない横顔も超カッコイイしいちいち様になるのが悔しいくらいカッコイ――」

 半ばパニックになって、かなり素直になっている。感情のまま言葉を出され続けてもたまらないと、アラタは照れ隠しで彼女の唇を自分の口で塞いだ。

 触れるだけのキスをして、ピタリと大人しくなった彼女を見下ろす。

「少しは落ち着いた?」
「今のやばい素敵すぎるでしょもう一回やって」

 まだちっとも冷静さが戻らないようだ。アラタは「うーん」と考え、予定があるからなぁと小さく口の中で呟いてから彼女に目を戻した。

「また後で」

 そう言って、ナナカの前髪を撫で上げて額に親愛のキスを贈った。

「今はこれだけでいい?」
「私のアラタが素敵すぎるッ。『待ち焦らし』とか憧れのシチュエーション……!」

 大学ではしっかり者で通っているけれど、恋愛の小説や漫画が大好きなんだよなぁとアラタは思った。たまに何を言っているのか分からない時もあるけれど、自分の部屋で漫画を引っ張り出して「このシーンなんだけどッ」と熱く語る彼女も可愛いのだ。

 俺も相当、彼女が好きなんだなぁと今更のように実感した。恋人関係を一旦保留しようと話し合った際、議論の一つに上がっていた同棲についても真面目に考えてみよう。

 とはいえ、その前にやらなければならないことがある。

 そう考えながら、ナナカから手を離した。準備してあった鞄を取ると、通りすがり棚の上に置いてある鍵を指先に引っ掛ける。

「俺、ちょっと沖縄に行ってくるよ」

 肩越しにチラリと振り返って、そう声を掛けた。

 そのまま靴を履いて玄関から出た。直後、「は」という間を置いたナナカの、「どういうことおおおおおお!?」という色気のない素っ頓狂な声が上がった。
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