猫の私が過ごした、十四回の四季に

百門一新

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「娘の受験と、卒業」

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 娘は最後の部活の日を終えると、大学受験に向けての勉強を本格的に始めた。

 帰ってきても部屋に閉じこもり、勉強の毎日が続いた。リビングにいても受験対策の教材と向き合っていて、いつもは遊び回っていた夏休みも、学校と図書館と塾の往復から始まった。

「あまり、無理はしないでね」

 女はそう言って、娘を気遣った。出先で休憩用にケーキを買ってきたり、夜遅くまで勉強している娘のためにオニギリを握ったりした。

 少し気晴らしをさせようかと、連休を利用して、男はドライブや一泊旅行に娘を誘い連れていった。ペット可能の宿泊先を見つけて、私も同伴させてもらった。娘は家族行事を大層喜んで楽しみながらも、単語帳を持ち歩き時間があればそれを眺めたりしていた。

 そんな夏の大敵は、なんといっても暑さだった。

 真夏日がピークに達すると、娘はもっぱら冷房が一番効くリビングで勉強をすることが多かった。男が有名大学を卒業していた事もあり、彼が娘の勉強を手伝った。女は時間を見計らって、冷たいデザートやドリンクを持って休憩を入れさせた。

 娘は隣に、いつも私用のクッションを置いていた。勉強が煮詰まった時、隣に座る私を撫でて頭の一休憩を入れ、それから再びテーブルに向かうという事を繰り返した。

「お疲れ、クロ」

 娘が早めの風呂に向かった後、テーブルに広げられた参考書や問題集、ノートを眺めていた私に男がそう言った。

 いつもは昼寝をたっぷりしている私も、娘が受験勉強に入ってからは、ほとんど早朝と夜の就寝がほとんどになっていた。身体が更に老いた私には、もう少し睡眠が欲しいくらいなのだが、贅沢は言っていられないだろう。

 だって私も、娘のために何か協力してやりたいのだ。

 私は歩み寄ってきた彼に、お疲れ、と言葉を返して尻尾でも返事をした。男は午前中以外、土日関係なく娘の勉強に付き合っていたから。

 そういえば、彼は最近少し白髪が交じるようになっていた。
 
 改めてよくよく見てみると、労い微笑む男の目元には小さな皺があった。今更のようにそれに気付いた私は、男も成長しているらしい、と改めて感慨深く思った。

 だが私からすると、彼はまだ若い。

 私の肉体年齢は、もう彼を若造と呼ぶに相応しい歳になっていた。

 お互い、年を取ったなぁ、若造。そう男に言いながら一つ伸びをして、私は欠伸をこぼした。やれやれ、最近はじっとしていると肩が凝るなぁと思う。

 その時、落ち着いたブラウンの長髪を結い上げた女が、ワンピースという涼しげな格好でやってきて氷の入ったグラスを置いた。

「あなた、ダージリンティーですよ。この前、担当の蓮見さんから頂いた物よ」
「ありがとう」

 男は素直に感謝を述べて、それを口にした。女は上品な微笑みを浮かべると、「クロちゃん、いらっしゃい」と私を呼んだ。

 私は、歩き出す彼女の後についていった。いつも私が水を飲むための器が置かれている場所には、涼しげなガラスの器が置かれていた。中には水と氷が入っており、涼しげな音を立てて氷がぶつかっている。

「クロちゃんも、お疲れ様」

 私は、女の気遣いに心の底から感謝した。ずっと昔、こうして水の中でゆらゆらと動いている氷が不思議で、何度も手を突っ込んでは肉球を濡らしてビックリしたものだ。慣れてくると、それを爪先でちょいちょいと触ったり、次第にそばの水を飲むのが好きにもなった。

 飲んでみると、渇いた喉にすうっと水がしみ込んでいくのを感じた。あの頃を思い出しながら、毎年この時期になると出てくる水の中の氷に、ちょいっと手を伸ばした。

 カラン、と器にあたる心地良い音がした。

             ※※※

 あっという間に夏休みが終わり、季節が涼しい方へと移ろって行く。それに従って、娘の勉強にも更に拍車がかかった。

 娘は学校帰りに塾へ通い、女が夜遅くに迎えに行くまで帰らなかった。休みの日も朝から夕方まで塾にいて、帰って来るとさっさと夕飯と風呂をすませて部屋から出て来ない。

 おかげで肌はすっかり白へと戻り、ポニーテールにした髪はもう女と同じくらい長くなっていた。食事の席で男が、「母さんの若い頃にそっくりだよ」と褒めると、娘は「受験が終わったらちゃんと整えて、長さを保ってみようかな」と嬉しそうに笑った。

 六度目の冬、娘は大事な試験があると言って、早朝から制服姿でリビングにいた。

 出掛けるまでの間もしっかり活用すると口にし、朝食準備が進められている中、ココアを相棒に勉強している。

 リビングには暖房も完備されているので、とても暖かい。けれど娘は、昔から寒いのがとくに苦手だったこともあり、私はいつも通り彼女の膝の上で丸くなっていた。私の身体は、じっとしているだけでとても暖かくなるのである。

「A判定、出ると良いわね」

 女が、食卓に料理を並べながら娘に言った。男は新聞を読みながら、娘を気にするように、ちらちらと視線を寄越している。

「うん。推薦枠には入れなかったから、実力勝負しかないしね」

 娘は肩をすくめて、緊張気味を堪えるような表情で笑った。

 娘は、とても良い子へと育っていた。
 根気強くて、いつでも前を見ている。

 私には、それがとても誇らしかった。

 こんなに良い子なのだ。きっと、彼女には素晴らしい未来が待っているだろう。

 娘は緊張しつつも、目を真っ直ぐ向けて「頑張るしかない」と自分に言い聞かせるように言った。しっかりとご飯を食べ、それから女と一緒に家を出た。

「大丈夫。あの子なら、大丈夫だ」

 玄関まで送り出した男が、私を抱き上げてそう言った。まるで自分に言い聞かせるようだったが、不思議と娘や女よりも落ち着きがあった。

 お前の方が、いつもならそわそわしそうなのにな?

 私が尋ねると、リビングへと引き返した男が小さく苦笑した。私の額をぐりぐりと撫でて、「そうかそうか、クロにもあの子の緊張が分かるんだなぁ」と口にした。

「大丈夫だよ。僕は、あの子を信じているからね」

 ああ、そうか。ならば私も、そのようにして娘が返ってくるのを待とう。そして、いつも通り彼女が帰ってくるのを迎えて、めいいっぱいそばにいてやればいい。

 男が口にした『大丈夫だよ』は、見事的中して事実となった。

 後日、娘はその大事な試験とやらで、望んでいた通りの結果が出せたらしい。私は猫なので、難しいことはよく分からない。ただ、彼女が良い結果に喜んでいて、「本番のセンター試験も上手くいきますよーに!」とかなり前向きな様子でいたのが嬉しかった。

 それからというもの、娘はより一層勉強に励んだ。年末には、クラスメイト達と神社に行ってカウントダウンを迎え、新年を祝ってそのまま初詣をして合格祈願をした。

 私は、勉強を続ける娘のそばにあり続けた。

 彼女が家にいる間はずっと、足元にいて見守っていた。

 大事な試験までの日が近くなると、娘の顔にも次第に隠せない緊張が浮かび始めた。私は娘の緊張や不安を解すべく、彼女に寄り添って励まし続けた。男はも気晴らしになるような言葉を掛けたり、女は暖かい食事や飲み物も添えて娘を気遣った。

 それでも、本人にとって希望の大学へ入学出来るかどうかといった大事な節目だ。日が迫るのをカレンダーで確認すると緊張で落ち込み、食べ物が喉を通らなくなることも出始めた。

 そうやって娘の食欲がない時、私は手本を見せるように彼女の前でガツ食いすることまでした。顔中ご飯だらけにした私を見て、娘は笑った。不思議と食欲が湧いたと言う彼女に、私は満足したような顔をしてくっついて甘えたものである。

 とはいえ、本音を言うと、ちょっと過酷な励まし方法だった。

 歳を取った胃には、非常に負担があって私は吐き気をこらえたりした。

             ※※※

 試験の当日、娘は朝から極度に緊張していた。

 家族全員で車に乗り込んで、可愛い娘を試験会場に送り出した。私も連れていってもらえたので、娘が車を降りる直前まで、私は彼女の足の上にいてぴったり寄りそっていた。

 そして、私達は二日間そうやって娘の送迎を行った。

 娘は無事に良い結果が出た。それはとても喜ばしい事だったのだが、娘は弾けるような笑顔を見せなかった。どうやら、次が正真正銘の本番であるらしい。

「次は大学で試験を受けるのよ。つまりね、その学校へ行ってテストするの」

 娘は風呂を上がった後、ほかほかになった身体で、私をぎゅっと抱きしめてそう教えてくれた。よく分からないが、受験生というのはずっと忙しいんだなと思った。

 少しの期間を置いた後、娘は大学での試験に臨んだ。

 その当日も、私達は皆で娘を送り届けて見送り、皆で迎えに行った。

 ようやく終えた娘は、結果を待つ間、緊張しつつも肩の緊張が抜けたみたいな表情を見せていた。一面の雪景色にもかかわらず、気晴らしのように女とショッピングセンターや美容室に行った。

 私と男は、もっぱら家で留守番だった。
 男は、娘の受験で溜っていた仕事を片付けるのに必死だったのだ。


 結果発表の日、娘は友人達とその発表会場へ向かうことになった。彼女を玄関先で見届けた私達は、緊張しながらリビングで娘からの連絡を待った。

 どれくらい経った頃だろうか。

 すっかりテーブルの紅茶と珈琲も冷えてしまった頃、ようやく電話の音が鳴り響いた。パッと顔を上げて駆け出そうとした私を、男が素早く抱えて電話へと走り寄った。しかし、それよりも先に女が電話を取っていた。

「もしもし」

 急いたように女が声を掛ける。あっさり追い抜かれてしまった男は、「相変わらず僕より足が速い……」と、ちょっとばかしショックを受けたような声で呟いていた。

 すると、電話の向こうから興奮を隠せない声がもれてきた。

『母さんッ、私、合格した! 合格! すごい嬉しい! みーこ達も、合格してて……ッごめんね、なんか、ほっとしたら涙が、止ま、止まらなくて……」

 震えた娘の声と、鼻をすする音。その向こうの沢山の人々の歓喜が、受話器越しに聞こえていた。

 状況を察した男が、「やったぁ!」と私を高く抱え上げた。私も嬉しくなって、やったな娘よ、と高らかに叫んだ。女が受話器を持ったまま涙し「よかったわね、おめでとうッ」と言った。


 こうして、伊藤家の娘の受験は、無事に終わった。

 娘は晴れやかな顔で、高校の卒業式を迎えた。

 私は留守番だったので、卒業式に行った男と女に後日、式の様子が写された写真を見せてもらった。そこには、卒業を祝う私も含めた立派な写真もあった。

 学校とやらと動物が入れないため、私は留守番を頼まれて娘の高校には行けなかった。しかし、帰って来た彼らにそのまま抱えられ、車へと乗せられて、ある場所に連れて行かれたのだ。

 訳が分からぬまま連れて来られたのは、ペット可と書かれた写真館であった。

 娘の卒業祝いに、家族全員で記念写真を撮ろうというのだ。そのためだけに、彼らは卒業式を終えた足で、友人や知人に「予定があるから!」とそのまま学校を出て、家に直帰したらしい。

 中央の椅子に腰かける制服姿の娘のそばに、男と女、そして、その娘の膝の上に私が腰を下ろした。この家族の一員になれた事に、その時、改めて強い誇りが込み上げたのは、言うまでもないだろう。

 本当に嬉しかった。

 卒業した娘に、おめでとうと伝えたかった。

 私の言葉が、人間には言葉として伝わらないとは、もうこの歳になって分かってもいた。だから私は、精一杯可愛らしく小首を傾げて、記念写真にその姿を残したのだった。
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