『容疑者は君に夢中?〜捜査一課の恋と事件簿〜』

キユサピ

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第36話 :鍵盤に残された約束

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雨が止んだ非番の午後、まどかはひとりで商店街を抜け、公園通りを歩いていた。
 傘をたたみながら立ち止まったのは、小さな東屋の前──屋根の下には、かつて一台のピアノが置かれていた。

 「……やっぱり、ない」

 そこには今、ぽっかりと空いたスペースだけが残されていた。
 ベンチの配置もそのまま、床にはペダルの跡だけがわずかに残っている。

 ──ピアノのおじさん、どうしたんだろう。

 ふと耳に入ったのは、小学生くらいの男の子と女の子の会話だった。

 「ねえ、今日もいなかったね」
 「もう来ないのかなあ」
 「この前の曲、録音しとけばよかったね」

 そう言って、二人は水たまりを跳ねながら駆けていった。

 まどかはピアノのあった場所に目を戻す。
 それは地域の人に長く親しまれてきた、“路上ピアノ”だった。
 毎週火曜と金曜の午後には、必ず年配の男性がやってきて、小さな演奏会を開いていた。

 ──管理されてるピアノなんだよな。勝手にどかせるはずないし。

 気になって、公園の清掃をしている初老の男性に声をかける。

 「すみません、ここにあったピアノって……移動されたんですか?」

 「ああ、あれねぇ……変なんだよ。市からの撤去通知も来てないし、鍵も開いてなかったはずなんだけど。夜のうちにどっか運ばれててな」

 「勝手に?」

 「盗まれたってわけでもなさそうで。ご丁寧に鍵返されてたし……
 けど、あのおじさんももう一週間くらい見てないな。病気でもしたのかな」

 「…………」

 その場を離れかけたとき、ベンチの脇に一枚の紙が落ちているのに気づいた。
 湿った楽譜の切れ端。その端に、にじんだ手書きの文字。

 「ありがとう」

 

 ──これは、“さよなら”じゃない。
 これは、“約束”かもしれない。

 

 そう思ったときには、まどかはスマホを取り出し、ある人物に連絡を取っていた。

 『直哉さん、今、手が空いてますか? 事件かもしれません』
 『……ピアノが消えたのが“事件”なら、お前が犯人だろ』

 まどかはちょっと嬉しそうに笑った。

 「うん。でもたまには、音でしか聴こえない真実も、あると思うんです」
数時間後、公園に直哉がやって来た。手にはホット缶コーヒー。
 まどかはすでにピアノのあった場所の写真を何枚も撮っており、調書でも取るかのようにスケッチブックに何かを書き込んでいた。

 「……で、今回の“事件”の概要を」

 「はい。被害者は“路上ピアノ”。加害者は不明。
 現場は鍵のかかった東屋から、深夜に何者かがピアノを持ち去った。動機は不明。
 ただし、“ありがとう”という意味深なメッセージが現場に遺されていました」

 「……マル暴には絶対報告できないな」

 「どうしてですか」

 「鼻で笑われるに決まってるだろ」

 

 まどかは続けた。

 「ピアノのおじさんは毎週来てた常連。だけど今週、突然姿を消した。
 近所の人たちは“引っ越したのかも”って言ってたけど、管理側は撤去を知らない。
 つまり──自分で運び出した可能性が高いです」

 「……それ、体力的に可能か?」

 「夜、軽トラを使って知人に手伝ってもらったとか。証言あります」

 

 ふたりは聞き込みを進める。
 町会に顔の効く年配女性が、興味深い話をしてくれた。

 「そういえば、数日前に高校生の女の子と揉めてたの見たわよ。
 夕方くらいだったかしら……ピアノの前で何かやり取りしてて、
 その子、泣きながら走ってったの。あれ、恋人関係だったのかしら」

 「……年齢差、40はありますよね?」

 「だからこそ燃えるのよ。わからない?」

 「わからないです」

 

 さらに別の証言。

 「その女の子、何度も“録音させて”って言ってたわよ。
 だけどおじさんが“それはやめてくれ”って……。なんか切なくなっちゃった」

 

 まどかの脳内では、すでに物語が走っていた。

 ──病気で余命わずかのピアノ弾き。
 少女との間に生まれた禁じられた想い。
 最後の演奏を遺すことを拒み、彼は夜の闇に消えた……!

 「直哉さん、これはもう完全にドラマです。連ドラ化いけます」

 「落ち着け。あと脚本家気取りはやめろ」

 

 だが直哉の目は、現場に落ちていた“ありがとう”の文字に止まっていた。
 そこには、どこか未練のない──むしろ、安堵すら感じる筆跡があった。

 「……いや、これは別れじゃないな。
 ちゃんと、何かを残していこうとした人の字だ」

 

 ふたりはピアノのおじさんの名前を町会で確認し、住所を割り出すことに成功する。
 だが、そこはすでに引き払われ、もぬけの殻になっていた。

 室内に、古びた楽譜と――1枚の紙切れだけが残されていた。

 

「ごめんね。録音は、恥ずかしかったんだ。
まだまだ弾けるつもりでいたけど、指が言うことをきかなくなった。
昔みたいに弾けないのは、やっぱりちょっと悔しくてね。
君が静かに聴いてくれてたこと、すごく嬉しかったよ。ありがとう」

 

 まどかが、そっとつぶやいた。

 
「届くかどうかも分からない言葉を……
 それでも残したんですね。
 誰かの記憶にだけ、生き続けるために」
 
直哉も、小さくうなずいた。

 「じゃあ、ピアノを運んだのは……自分の意思だな」

 

 まどかの目に、微かに涙が浮かんでいた。


 数日後、まどかはひとりで公園を訪れていた。

 ピアノが置かれていた東屋。
 そこにはもう何もない。けれど──

 

 ぽつり、ぽつりと、小さな音が風に混じって聞こえてきた。

 遠くのベンチに腰かけた少女。
 膝に小さな電子キーボードを抱え、ヘッドホンをつけていた。
 まどかは音が漏れるほどに近づきはしなかった。
 けれど、そのメロディは、確かに耳に残っていたあの曲だった。

 

 ──届いてる。

 ──あの人の想いは、ちゃんと。

その夜。凪月のカウンターにて。

 「なに、ひとりでしんみりして」

 咲良が茶化すと、まどかは笑って首を振った。

 「ちょっとだけ、嬉しいことがあって」

 「事件、解決した?」

 「ううん。解決なんて、きっと誰にもできないことだったけど……
 でも、想いは届いてました。ちゃんと、引き継がれてたんです」

そこに遅れて入ってきた直哉が、すっと席に座る。

 「何の話だ」

 「秘密です」

 「……そうかい。じゃあ俺にもプリンくれ。カラメル普通で」

 

 沈黙のあと、まどかがぽつりと言った。

 「ねえ、直哉さん。伝えるって、どうすればいいんですかね」

 「言葉にすりゃいいってもんじゃない。
 けど、伝えようとしなきゃ、何も始まらない」

まどかはゆっくりと頷いた。

「……ああいう想いの伝え方って、ずるいですよね。
 静かに心に残るっていうか。……ちょっと見習いたくなりました」


その言葉に、直哉は何も言わなかった。

 ただ、少しだけ視線を逸らし、目尻をわずかにゆるめた。

 

 外には夜風。
 音もない静けさのなか、遠くで誰かが小さく、鍵盤を鳴らしていた。
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