『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

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第二話「鬼の居ぬ間に洗濯」

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――「鬼の居ぬ間に洗濯」
それは、厳しく恐れられる者の不在を意味する。
彼らがいない一時の間に、人は羽を伸ばし、息をつく。
けれど、洗濯の水はすぐに濁ることもある。
鬼がいないことを喜ぶ心が、やがて“支え”の不在を知るとき、
人は気づくのだ――その鬼が、どれほど重く、ありがたい存在であったかに。

春の朝、まだ空気にかすかな冷たさの残る時間帯。
私立北城中学校の職員室には、どこか浮ついたような空気が漂っていた。

「真壁先生、しばらくお休みらしいよ」
「えっ、ほんと? あの“職員室の鬼”が?」
「らしいよ。お父さんの介護とかで、有給まとめて取るって」

若手教員の声はひそやかだったが、にじむ安堵までは隠しきれなかった。
会議の空気を凍らせ、業務連絡の一言にさえピリつきを与える存在。
真壁陽平の不在は、職員室の空気をいくらか“人間らしく”させた。

その日から、職員室では笑い声が増え、誰かがコーヒーを淹れ、昼休みには軽口が飛び交うようになった。
授業も、提出物の確認も、報告書も、いくらか“丸く”なった。
ほんのわずかに。
だが確かに、何かが緩んでいった。

最初に異変が現れたのは、2年3組だった。

遅刻が続き、私語が増え、提出物が滞る。
それでも担任の矢野は、「今は静観で」と判断した。
真壁だったら一喝していた場面で、彼は一歩引いた。

「生徒の自主性に任せるのも、大事だよな……」
誰に言うでもなく、矢野は呟いた。
が、その声には、自信というより“逃げ”が滲んでいた。

1週間後、教頭から注意が入る。
2年生全体の風紀が緩んでいる、と。
生徒指導室では、いじめ未満の“からかい”事案が複数立て続けに報告された。

「……真壁先生がいないからだ、って言ってる生徒もいる」
そう告げたのは、若手の女性教員だった。
彼女は言葉を飲み込みながら、しばらく沈黙した。

「……でも、なんか悔しいんです。
せっかくいなくなって、やっと空気が柔らかくなったのに。
なんで、戻ってきてほしいなんて思っちゃうんだろうって」

矛盾した感情が職員室に充満しはじめていた。
それは、心地よい洗濯のあとに残る、ぬめるような濁りだった。



北国の実家の朝は静かだった。
父のいる寝室に、真壁は湯たんぽを取り替え、無言でシーツを整える。

言葉を発しなくなって三年目。
かつての厳格な父は、いまはただ目で「ありがとう」と伝えるだけだった。

「あんたのやり方は冷たい」
そう言っていた母も、もういない。

教師になって二十数年。
今まで、どれほどの人にそう言われてきたろう。
「冷たい」「厳しすぎる」「人の気持ちがわかってない」
それでも自分のやり方を変えなかったのは――
いや、変えられなかったのは、あの日があるからだ。

新人の頃、真壁はまだ理想家だった。

「生徒を信じて、寄り添う教育を」
どこかの教育学者の受け売りを掲げながら、教室で生徒と向き合っていた。
笑顔を絶やさず、提出物の遅れにも優しく対応し、遅刻にも事情を聞こうとした。
だが、保護者会でその“優しさ”は真っ向から否定された。

「うちの子が甘えてるのは、そちらの管理が甘いからじゃないですか?」
「提出物を出さない生徒を注意しないなんて、指導力が足りない」
「生徒に好かれようとしてるだけでしょ?」

真壁は反論できなかった。
事実だったからだ。
そのあと、生徒に“ナメられた”という言葉を同僚から投げつけられたとき、
帰り道の電車の中で、無意識に拳を握っていた。

あの日、悔しくてたまらなかった。
生徒を信じようとしたことが、間違いだったとは思いたくなかった。
だが――生徒を「守る」という言葉の重さが、まったくわかっていなかったのだ。

そして、決定的だったのは三年目の春。
いじめが発覚した。

女子生徒がクラス内で孤立していた。
廊下に靴を隠され、筆箱を捨てられ、ノートには無言の落書き。
担任だった真壁は、生徒同士の軋轢だと見ていた。
「話し合いで解決できる」と信じていた。

だが、その生徒はある日、欠席し、そのまま転校した。
保護者からの電話に詰め寄られた真壁は、ただ一言だけ責められた。

「先生は、うちの子の“助けて”を見落としたんです」

あの声は、今も耳の奥にこびりついている。

以来、真壁は変わった。

誰かを信じることより、見落とさないことを優先した。
“鬼”になることが、生徒を守る唯一の方法だと思った。
教室を掌握し、空気を読ませ、言葉にせずとも圧をかける。
恐れさせることでしか、均衡を保てない――
それが、教師としての正解だと信じた。



父の寝室で、静かに湯を注ぎながら、真壁はその記憶をたどっていた。

「……違うんだよな」
呟いた声は、誰にも届かない。
あのとき、本当に必要だったのは「恐れ」だったのか。
「見落とさないこと」と「信じること」は、共存できなかったのか。
もう何年も考えないようにしていた問いが、
父の沈黙の横顔を見つめるうち、胸の奥にしみ出してくる。

今の職員室では、自分の不在がどんな空気を生んでいるのか。
それを思うと、ほんの少しだけ、胸の奥がじんと熱を持った。

「……帰らなきゃな」

寒い部屋の中で、静かに立ち上がった。

春休みが明け、桜の花が静かに散る朝。
北城中学校の職員室に、重くも確かな足音が戻ってきた。

真壁陽平。
その姿を見た瞬間、数人の若手教員が小さく背筋を伸ばすのが見えた。
緊張――だが、かつてのような“畏れ”一辺倒ではなかった。

「……戻りました」
静かな声が響く。
誰かが「あ、おかえりなさい」と言いかけて、言葉を引っ込めた。
矢野が立ち上がり、深く会釈する。

「おかえりなさい、真壁先生」

いつの間にか、矢野の声には芯が宿っていた。
思えば、ここを任せて離れたのは、真壁の教師人生で初めてのことだった。
任せられる人間がいなかったから、自分が“鬼”であるしかなかったのだ。

だが今は――。

「……少しは、洗濯できたか?」

呟くように返した一言に、矢野は目を細めた。

「ええ。干す場所の風通しが、悪かったことに気づきました」

気の利いた答えに、真壁はわずかに唇を動かした。

笑うでもなく、呆れるでもなく――
ただ、ふと、ある記憶がよみがえっていた。



まだ新任教員だった頃。
教員室の奥で、白髪の先輩教師がよく言っていた。

「生徒を怒鳴るときは、自分が泣きそうなときだけにしろ。
それ以外は、怒ったフリでいいんだ。お前の本音を、生徒に預けるな」

あの頃は、わからなかった。
怒りも情熱も、全部本気でぶつけるのが正しいと思っていた。
だが――いま、その言葉の意味がようやく染みてくる。

“鬼”になることは、感情を捨てることではない。
人間であることを悟られないようにすることだ。

見透かされれば、バランスは崩れる。
だが、それでも鬼の袖には、露が降る。

そしてそれは、自分にしか見えない露であってもいいのだと、ようやく思えた。



その日の職員会議。
真壁は、報告書に目を通しながら、静かに指を組んだ。

かつてなら、声の大きい教師を一喝し、議題を締める役だった。
だが今日は、一歩引いていた。
若手たちが拙いながらも意見を交わし、討議をまとめようと奮闘している。

かつての自分なら、そこに苛立ちを覚えていただろう。
「時間の無駄」「非効率」と切り捨てたかもしれない。

だがいま、真壁は静かに頷いていた。
不格好でも、自分の代わりに教室を守ろうとした時間が、
彼らにとっての“洗濯”だったのだと。

「……教師ってのはな」

ふと、つぶやくように漏らした。

「誰かの汚れを洗うんじゃなく、自分の汚れを干す場所なのかもな」

隣に座っていた矢野が振り向いたが、真壁は何も続けなかった。

窓の外では、風が吹いていた。
乾ききっていない春の洗濯物を、やさしく揺らすような風だった。

春休みが明けた。
桜の花びらはもう落ちかけている。
けれど、新学年の教室は、どこか浮き足立っていた。

真壁は、今年度から2年3組を受け持つことになっていた。


教壇に立った真壁の姿を、生徒たちは食い入るように見ていた。

「俺が担任の間にやっていいことと、やっちゃいけないこと。
細かいルールは言わない。
ただ一つ、“目の前の誰かを泣かせて、平気な顔するな”。それだけだ」

その一言で教室の空気が変わった。
だが、静けさは、長くは続かなかった。



それは、4月も半ばのことだった。

昼休み明け。女子生徒の藤本杏奈が、教室から姿を消した。
机の中には、破かれたプリントと、奇妙な落書きが残されていた。

「死ね」「臭い」「消えろ」
丸文字で書かれたそれは、誰かがふざけて書いたようにも見えるし、
悪意を隠そうとしているようにも見えた。

副担任の矢野が真壁に報告を入れたのは、放課後だった。

「藤本さん、保健室で泣いてました。
でも、“誰がやったか分からない”“大ごとにしないでほしい”って……」

「誰も“いじめ”とは言ってないか」

「……ええ。“いじりだった”って、周りの子は言ってました。
“そんなつもりじゃなかった”って」

その言葉に、真壁の眉がわずかに動いた。

「いじり、ね……」



次の日、ホームルーム。
真壁は教卓に立ち、教室をゆっくりと見渡した。

「“いじり”って言葉は便利だな。
ふざけてただけ、悪気はなかった、冗談のつもり――そう言えば全部、なかったことにできる」

生徒たちは黙っている。

「けどな。
お前らが笑ってても、相手が笑ってなきゃ、それは“ただの攻撃”だ。
“冗談だった”っていうのは、“誰かの痛み”に気づいた上で言え」

黒板にチョークを走らせる。

「いじり」→「笑い合える関係」
「いじめ」→「逃げ場のない苦しみ」

二つの言葉を書いた後、真壁はチョークを投げ置いた。

「この二つを曖昧にしてるのは、“やってる側”だけだ。
“いじり”って言葉は、加害者が使うためにある。
お前らが、その程度の人間で終わらないことを、俺は信じたい」

静かな教室に、誰かが小さく唾を飲む音が響いた。

「犯人探しをするつもりはない。
でも俺は、クラスで“誰かが苦しんでる気配”には、目を逸らさない。
それが“鬼の仕事”だとしたら、俺はその役を引き受ける」



放課後。
真壁は保健室を訪ね、藤本杏奈に声をかけた。

「……戻れるか?」

杏奈は、うつむいたまま首を横に振った。

「誰も、私を守ってくれない。
先生がいなくなったときも、みんな平気だった。
“鬼の居ぬ間に洗濯”って、そういう意味ですよね?」

「違うな」

真壁は静かに言った。

「“洗濯”ってのは、鬼が戻ってくる前に、自分たちの汚れに気づくってことだ。
それに気づかず、ただ笑ってたなら――それは“洗濯”じゃない。ただの怠慢だ」

杏奈は小さく目を開いた。

「……先生は、怖い人だと思ってました」
「それは今も変わってない」
「でもちょっとだけ、優しいかもって思いました」
「それは言い過ぎだ」



翌日。
藤本杏奈は教室に戻った。

誰かが目をそらし、誰かが小さくうなずいた。
でも真壁は何も言わなかった。ただ、教壇に立った。

「俺の仕事は、お前らに正義を教えることじゃない。
“見えない痛み”を想像できる人間になってもらうことだ」

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だが、確かに、届いていた。



夕方。
職員室の窓から差し込む西日が、真壁の背中を照らしていた。

矢野がつぶやく。

「……“鬼の居ぬ間に洗濯”って、
先生が戻ってきたからこそ、みんな気づけたのかもしれませんね」

真壁はコーヒーを飲みながら、答える。

「本当に洗濯したかどうかは……まだ干してみなきゃ分からん」

その背中は、鬼のようであり、ただの教師のようでもあった。

鬼が戻った教室で、
洗い残された“痛み”が、初めて陽にさらされた。

それは大きな声で叫ばれたわけでも、誰かが名指しされたわけでもない。
ただ、沈黙の中にこそ、隠された苦しみがあったことに、皆がようやく気づいたのだ。

鬼の目は怖い。
嘘も言い訳も見逃さない。
でも同時に、目を逸らさず、見届けてくれる者でもある。

もし本当に“いじり”で済ませたいなら、
相手が笑えるように背中を押せ。
笑ってもいないのに冗談だと片づけるのは、それはもう暴力と変わらない。

教室という名の舟は、新しい年度の海に漕ぎ出したばかりだ。
まだ波は静かとは言えない。
だが――

鬼は、今日もその舟に立ち、背中を見つめている。
もう二度と、誰かが沈まないように。
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