『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

文字の大きさ
2 / 12

第二話「鬼の居ぬ間に洗濯」

しおりを挟む

――「鬼の居ぬ間に洗濯」
それは、厳しく恐れられる者の不在を意味する。
彼らがいない一時の間に、人は羽を伸ばし、息をつく。
けれど、洗濯の水はすぐに濁ることもある。
鬼がいないことを喜ぶ心が、やがて“支え”の不在を知るとき、
人は気づくのだ――その鬼が、どれほど重く、ありがたい存在であったかに。

春の朝、まだ空気にかすかな冷たさの残る時間帯。
私立北城中学校の職員室には、どこか浮ついたような空気が漂っていた。

「真壁先生、しばらくお休みらしいよ」
「えっ、ほんと? あの“職員室の鬼”が?」
「らしいよ。お父さんの介護とかで、有給まとめて取るって」

若手教員の声はひそやかだったが、にじむ安堵までは隠しきれなかった。
会議の空気を凍らせ、業務連絡の一言にさえピリつきを与える存在。
真壁陽平の不在は、職員室の空気をいくらか“人間らしく”させた。

その日から、職員室では笑い声が増え、誰かがコーヒーを淹れ、昼休みには軽口が飛び交うようになった。
授業も、提出物の確認も、報告書も、いくらか“丸く”なった。
ほんのわずかに。
だが確かに、何かが緩んでいった。

最初に異変が現れたのは、2年3組だった。

遅刻が続き、私語が増え、提出物が滞る。
それでも担任の矢野は、「今は静観で」と判断した。
真壁だったら一喝していた場面で、彼は一歩引いた。

「生徒の自主性に任せるのも、大事だよな……」
誰に言うでもなく、矢野は呟いた。
が、その声には、自信というより“逃げ”が滲んでいた。

1週間後、教頭から注意が入る。
2年生全体の風紀が緩んでいる、と。
生徒指導室では、いじめ未満の“からかい”事案が複数立て続けに報告された。

「……真壁先生がいないからだ、って言ってる生徒もいる」
そう告げたのは、若手の女性教員だった。
彼女は言葉を飲み込みながら、しばらく沈黙した。

「……でも、なんか悔しいんです。
せっかくいなくなって、やっと空気が柔らかくなったのに。
なんで、戻ってきてほしいなんて思っちゃうんだろうって」

矛盾した感情が職員室に充満しはじめていた。
それは、心地よい洗濯のあとに残る、ぬめるような濁りだった。



北国の実家の朝は静かだった。
父のいる寝室に、真壁は湯たんぽを取り替え、無言でシーツを整える。

言葉を発しなくなって三年目。
かつての厳格な父は、いまはただ目で「ありがとう」と伝えるだけだった。

「あんたのやり方は冷たい」
そう言っていた母も、もういない。

教師になって二十数年。
今まで、どれほどの人にそう言われてきたろう。
「冷たい」「厳しすぎる」「人の気持ちがわかってない」
それでも自分のやり方を変えなかったのは――
いや、変えられなかったのは、あの日があるからだ。

新人の頃、真壁はまだ理想家だった。

「生徒を信じて、寄り添う教育を」
どこかの教育学者の受け売りを掲げながら、教室で生徒と向き合っていた。
笑顔を絶やさず、提出物の遅れにも優しく対応し、遅刻にも事情を聞こうとした。
だが、保護者会でその“優しさ”は真っ向から否定された。

「うちの子が甘えてるのは、そちらの管理が甘いからじゃないですか?」
「提出物を出さない生徒を注意しないなんて、指導力が足りない」
「生徒に好かれようとしてるだけでしょ?」

真壁は反論できなかった。
事実だったからだ。
そのあと、生徒に“ナメられた”という言葉を同僚から投げつけられたとき、
帰り道の電車の中で、無意識に拳を握っていた。

あの日、悔しくてたまらなかった。
生徒を信じようとしたことが、間違いだったとは思いたくなかった。
だが――生徒を「守る」という言葉の重さが、まったくわかっていなかったのだ。

そして、決定的だったのは三年目の春。
いじめが発覚した。

女子生徒がクラス内で孤立していた。
廊下に靴を隠され、筆箱を捨てられ、ノートには無言の落書き。
担任だった真壁は、生徒同士の軋轢だと見ていた。
「話し合いで解決できる」と信じていた。

だが、その生徒はある日、欠席し、そのまま転校した。
保護者からの電話に詰め寄られた真壁は、ただ一言だけ責められた。

「先生は、うちの子の“助けて”を見落としたんです」

あの声は、今も耳の奥にこびりついている。

以来、真壁は変わった。

誰かを信じることより、見落とさないことを優先した。
“鬼”になることが、生徒を守る唯一の方法だと思った。
教室を掌握し、空気を読ませ、言葉にせずとも圧をかける。
恐れさせることでしか、均衡を保てない――
それが、教師としての正解だと信じた。



父の寝室で、静かに湯を注ぎながら、真壁はその記憶をたどっていた。

「……違うんだよな」
呟いた声は、誰にも届かない。
あのとき、本当に必要だったのは「恐れ」だったのか。
「見落とさないこと」と「信じること」は、共存できなかったのか。
もう何年も考えないようにしていた問いが、
父の沈黙の横顔を見つめるうち、胸の奥にしみ出してくる。

今の職員室では、自分の不在がどんな空気を生んでいるのか。
それを思うと、ほんの少しだけ、胸の奥がじんと熱を持った。

「……帰らなきゃな」

寒い部屋の中で、静かに立ち上がった。

春休みが明け、桜の花が静かに散る朝。
北城中学校の職員室に、重くも確かな足音が戻ってきた。

真壁陽平。
その姿を見た瞬間、数人の若手教員が小さく背筋を伸ばすのが見えた。
緊張――だが、かつてのような“畏れ”一辺倒ではなかった。

「……戻りました」
静かな声が響く。
誰かが「あ、おかえりなさい」と言いかけて、言葉を引っ込めた。
矢野が立ち上がり、深く会釈する。

「おかえりなさい、真壁先生」

いつの間にか、矢野の声には芯が宿っていた。
思えば、ここを任せて離れたのは、真壁の教師人生で初めてのことだった。
任せられる人間がいなかったから、自分が“鬼”であるしかなかったのだ。

だが今は――。

「……少しは、洗濯できたか?」

呟くように返した一言に、矢野は目を細めた。

「ええ。干す場所の風通しが、悪かったことに気づきました」

気の利いた答えに、真壁はわずかに唇を動かした。

笑うでもなく、呆れるでもなく――
ただ、ふと、ある記憶がよみがえっていた。



まだ新任教員だった頃。
教員室の奥で、白髪の先輩教師がよく言っていた。

「生徒を怒鳴るときは、自分が泣きそうなときだけにしろ。
それ以外は、怒ったフリでいいんだ。お前の本音を、生徒に預けるな」

あの頃は、わからなかった。
怒りも情熱も、全部本気でぶつけるのが正しいと思っていた。
だが――いま、その言葉の意味がようやく染みてくる。

“鬼”になることは、感情を捨てることではない。
人間であることを悟られないようにすることだ。

見透かされれば、バランスは崩れる。
だが、それでも鬼の袖には、露が降る。

そしてそれは、自分にしか見えない露であってもいいのだと、ようやく思えた。



その日の職員会議。
真壁は、報告書に目を通しながら、静かに指を組んだ。

かつてなら、声の大きい教師を一喝し、議題を締める役だった。
だが今日は、一歩引いていた。
若手たちが拙いながらも意見を交わし、討議をまとめようと奮闘している。

かつての自分なら、そこに苛立ちを覚えていただろう。
「時間の無駄」「非効率」と切り捨てたかもしれない。

だがいま、真壁は静かに頷いていた。
不格好でも、自分の代わりに教室を守ろうとした時間が、
彼らにとっての“洗濯”だったのだと。

「……教師ってのはな」

ふと、つぶやくように漏らした。

「誰かの汚れを洗うんじゃなく、自分の汚れを干す場所なのかもな」

隣に座っていた矢野が振り向いたが、真壁は何も続けなかった。

窓の外では、風が吹いていた。
乾ききっていない春の洗濯物を、やさしく揺らすような風だった。

春休みが明けた。
桜の花びらはもう落ちかけている。
けれど、新学年の教室は、どこか浮き足立っていた。

真壁は、今年度から2年3組を受け持つことになっていた。


教壇に立った真壁の姿を、生徒たちは食い入るように見ていた。

「俺が担任の間にやっていいことと、やっちゃいけないこと。
細かいルールは言わない。
ただ一つ、“目の前の誰かを泣かせて、平気な顔するな”。それだけだ」

その一言で教室の空気が変わった。
だが、静けさは、長くは続かなかった。



それは、4月も半ばのことだった。

昼休み明け。女子生徒の藤本杏奈が、教室から姿を消した。
机の中には、破かれたプリントと、奇妙な落書きが残されていた。

「死ね」「臭い」「消えろ」
丸文字で書かれたそれは、誰かがふざけて書いたようにも見えるし、
悪意を隠そうとしているようにも見えた。

副担任の矢野が真壁に報告を入れたのは、放課後だった。

「藤本さん、保健室で泣いてました。
でも、“誰がやったか分からない”“大ごとにしないでほしい”って……」

「誰も“いじめ”とは言ってないか」

「……ええ。“いじりだった”って、周りの子は言ってました。
“そんなつもりじゃなかった”って」

その言葉に、真壁の眉がわずかに動いた。

「いじり、ね……」



次の日、ホームルーム。
真壁は教卓に立ち、教室をゆっくりと見渡した。

「“いじり”って言葉は便利だな。
ふざけてただけ、悪気はなかった、冗談のつもり――そう言えば全部、なかったことにできる」

生徒たちは黙っている。

「けどな。
お前らが笑ってても、相手が笑ってなきゃ、それは“ただの攻撃”だ。
“冗談だった”っていうのは、“誰かの痛み”に気づいた上で言え」

黒板にチョークを走らせる。

「いじり」→「笑い合える関係」
「いじめ」→「逃げ場のない苦しみ」

二つの言葉を書いた後、真壁はチョークを投げ置いた。

「この二つを曖昧にしてるのは、“やってる側”だけだ。
“いじり”って言葉は、加害者が使うためにある。
お前らが、その程度の人間で終わらないことを、俺は信じたい」

静かな教室に、誰かが小さく唾を飲む音が響いた。

「犯人探しをするつもりはない。
でも俺は、クラスで“誰かが苦しんでる気配”には、目を逸らさない。
それが“鬼の仕事”だとしたら、俺はその役を引き受ける」



放課後。
真壁は保健室を訪ね、藤本杏奈に声をかけた。

「……戻れるか?」

杏奈は、うつむいたまま首を横に振った。

「誰も、私を守ってくれない。
先生がいなくなったときも、みんな平気だった。
“鬼の居ぬ間に洗濯”って、そういう意味ですよね?」

「違うな」

真壁は静かに言った。

「“洗濯”ってのは、鬼が戻ってくる前に、自分たちの汚れに気づくってことだ。
それに気づかず、ただ笑ってたなら――それは“洗濯”じゃない。ただの怠慢だ」

杏奈は小さく目を開いた。

「……先生は、怖い人だと思ってました」
「それは今も変わってない」
「でもちょっとだけ、優しいかもって思いました」
「それは言い過ぎだ」



翌日。
藤本杏奈は教室に戻った。

誰かが目をそらし、誰かが小さくうなずいた。
でも真壁は何も言わなかった。ただ、教壇に立った。

「俺の仕事は、お前らに正義を教えることじゃない。
“見えない痛み”を想像できる人間になってもらうことだ」

その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
だが、確かに、届いていた。



夕方。
職員室の窓から差し込む西日が、真壁の背中を照らしていた。

矢野がつぶやく。

「……“鬼の居ぬ間に洗濯”って、
先生が戻ってきたからこそ、みんな気づけたのかもしれませんね」

真壁はコーヒーを飲みながら、答える。

「本当に洗濯したかどうかは……まだ干してみなきゃ分からん」

その背中は、鬼のようであり、ただの教師のようでもあった。

鬼が戻った教室で、
洗い残された“痛み”が、初めて陽にさらされた。

それは大きな声で叫ばれたわけでも、誰かが名指しされたわけでもない。
ただ、沈黙の中にこそ、隠された苦しみがあったことに、皆がようやく気づいたのだ。

鬼の目は怖い。
嘘も言い訳も見逃さない。
でも同時に、目を逸らさず、見届けてくれる者でもある。

もし本当に“いじり”で済ませたいなら、
相手が笑えるように背中を押せ。
笑ってもいないのに冗談だと片づけるのは、それはもう暴力と変わらない。

教室という名の舟は、新しい年度の海に漕ぎ出したばかりだ。
まだ波は静かとは言えない。
だが――

鬼は、今日もその舟に立ち、背中を見つめている。
もう二度と、誰かが沈まないように。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...