『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

文字の大きさ
3 / 12

第三話『鬼の目にも涙』

しおりを挟む
鬼の目にも涙――

どれほど冷酷に見える者でも、
心のどこかに、哀しみの一滴を宿している。

だがその涙は、人前に見せるものではない。
それは、強さの裏に隠された“許されぬ感情”。

泣いてはいけない。
そう自分に言い聞かせて、
人を裁くことを選んだ女がいた。

 
一|鬼の女

東京地検・第四検察部。
重たい鉄扉の奥。書類の山と疲れた目が交差する昼下がり、綿貫理子は淡々と事件資料に目を通していた。

「これは……窃盗か」
若い検事補が渡したのは、厚みのないファイルだった。

江口達生、25歳。無職。要介護の母と同居。
盗んだのはモルヒネパッチと、近所の無人販売所の米と野菜。金額にして3500円相当。

「……起訴相当。次」

いつもの調子で理子は言い放った。
情など、判断には不要だ。そう信じて、ここまでやってきた。

「“鬼の理子”……さすがだな」

そう囁く同僚の声が聞こえたが、彼女は無表情のままだった。

 



二|青年の言葉

数日後、面談室。江口達生が入ってきた。
痩せて、背は曲がり、目は虚ろ。それでも、椅子に座るときだけ、彼は静かに頭を下げた。

「江口達生さん、あなたはモルヒネパッチを……?」

理子が問うと、彼はゆっくりと顔を上げ、答えた。

「……母が……末期がんでした。
骨にまで転移して、夜になると叫ぶんです。痛くて……眠れないって。

でも、薬は限られていて……先生は“次の月まで処方できない”って言うし。
僕は……それでも……何かしたくて……」

 

理子は黙って聞いていた。
供述の中に情状酌量を探すことはしない。けれど、その目だけは、江口から逸らさなかった。

「お金もなくて……母の世話をしながら働くのは、正直、限界でした。
それでも……米くらいは食べさせたかった。
薬だけは……貼ってあげた夜、母が“ありがとう”って……

それが……最後の言葉でした」

 

沈黙。

面談室の時計が静かに刻を進めるなか、江口は何も言わず、ただ目を伏せていた。
その沈黙の奥に、言葉よりも雄弁な記憶が、胸の奥に波紋のように広がっていく。

 

──湯気のたつ味噌汁の匂い。
深夜一時、冷えた台所に差し込む灯りの下で、母は台本のように広げたレシートをにらみつけながら、黙々と帳簿をつけていた。
彼女の指先には絆創膏。洗剤荒れた指を見つけるたびに、胸がつまった。

──運動会の日。
クタクタになって帰ってきた夜勤明けの母が、寝ずに詰めてくれた弁当。
銀色の保冷バッグの中には、ぎゅうぎゅうに詰まった卵焼きと、冷めても柔らかい唐揚げ。
「母ちゃん流のごちそうや」って笑ってたあの顔。
ご飯のすみに、梅干しの代わりに飴玉が入ってたこと、今でも忘れない。

──中学時代、反抗してぶつけた乱暴な言葉。
「うるせえよ、ババア」
翌日、弁当の中に入っていたのは、真っ黒に焦げた卵焼きがひとつ。
何も言わずに差し出されたその弁当を、江口は屋上で抱えて泣いた。
誰にも見せなかったけれど、母には全部伝わっていた気がする。

──誕生日に、ケーキなんて買えないと言いながら焼いてくれたホットケーキ。
真ん中にロウソク一本、ピンと立てて、
「今日は、ちょっと贅沢してもええやろ」
どこか誇らしげで、でも少しだけ申し訳なさそうなその声が、いまも耳の奥で響いている。

──高校を卒業して就職した日。
玄関先で新しい作業服を見せると、母は声も出さずに笑って、肩を抱いてきた。
そのぬくもりが、自分にとって“帰る場所”そのものだった。

 

──そして、あの夜。
母の手を握りながら、彼女がかすれた声で言った。

「ありがとね……ほんまに、よく頑張ったなぁ……」

あれが、最後だった。
呼吸がゆっくりと細くなっていく中で、母は初めて、安らかな顔をして眠った。

江口は続けるべきか迷ったが、かすれた声で言った。

「……罪だって、わかってました。
でも、あれが母の苦しみを少しでも減らしたと思うと……
それだけは……
“なかったこと”には、したくなくて」

 

その言葉の奥に、理子の何かが静かに軋んだ。

 



三|兄・一真のこと

夜。理子は帰宅し、滅多に開けないクローゼットを開けた。
奥には、兄・綿貫一真の形見がある。彼の死後、一度も触れていなかった小箱。

 検察庁の夜は静かだった。
提出された書類の束に囲まれながら、綿貫理子は一人、照明を落とした部屋で机に頬杖をついていた。

江口達生の言葉が、彼の沈黙が、胸の奥で波紋のように広がり続けている。

──それは、忘れかけていた記憶の水面を叩くように。

 

 

彼女は思わず、机の引き出しを開ける。
奥から取り出した、小さな木箱。
鍵などかかっていない。けれど、滅多に開けることはない箱。

中にあったのは、一冊の手帳と、黒いリストウォッチ。
そして──兄の遺影の写真だった。
柔らかく笑う、あの人の目元が、今の自分に少し似てきた気がする。

 

夜の静寂に、思い出が滲み出す。

 

──小学生の頃。
仕事で疲れきった母が眠っている間、兄はいつも理子の宿題を見てくれた。
「お前はバカだなぁ」と言いつつ、ノートに落書きして笑わせてくれた兄。
帰り道が怖いと泣いた彼女の手を引いて、暗がりで肩車してくれた。

「俺が世界でいちばん信用してるのは、理子だけだぞ」

あの言葉に、子どもだった自分は誇らしくなって、兄の隣を歩く背筋を少し伸ばした。

──中学に上がったころ、母が倒れた。
看病を担ったのは、一真だった。
高校を出てすぐ就職し、家計を支えながらも、妹には進学を選ばせた。

「俺はいい。理子、お前はずっと“自分の頭で戦える人間”になれ」

制服を買うお金もないのに、兄は真夜中の工場バイトで貯めた小銭で入学金を工面した。
理子がそれを知ったのは、ずっとあとになってからだった。

 

──そして、理子が司法試験に受かった年の春。

駅前で起きた通り魔事件。

兄は駅前で起きた通り魔事件に巻き込まれ、命を落とした。

女性とそのお腹の子を庇って、一真は刃を受けた。

駅前で、誰かの叫び声。走る足音。

血まみれで倒れる兄。

理子は、兄の死に目には会えなかった。

 

一真は、大学進学を諦めて理子の学費を稼いだ。
夜勤をしながらも、妹にだけは明るく接していた。

「お前が夢を叶えるなら、それでいい。
弁護士になれ、理子。俺が後ろにいるから」

 

通夜の晩、兄の部屋で見つけた、送られなかった下書きメール。
それが、今も理子の心の奥に残っている。

『司法試験合格おめでとう。理子はもう、自分で歩いていける。俺の出番はそろそろ終わりだな。
それでも、泣いていいときは泣いていい。前を向くことだけは忘れるな。』

涙を必死に堪えた。
泣けば崩れてしまいそうで、泣けば兄をもう一度失ってしまう気がして。
彼女は自分の感情を奥にしまい、代わりに“鬼”になった。
誰も泣かせないために。
誰も無駄死にさせないために

その言葉が、今、江口の言葉と重なっていく。

 



四|決断と赦し

翌朝、検察庁。

理子は、会議室にファイルを置いて言った。

「江口達生について、私は起訴猶予を提案します」

ざわめく若手たち。
だが理子は、真っ直ぐ前を見て続けた。

「罪は罪。だが、今回の行為は“人の痛みをどうしても放っておけなかった者”の行動です。
私はそれを、軽視しません。
私がここにいるのは、兄の……誰かの死を無駄にしないためでもあるからです」

それは、検察官・綿貫理子の、初めての“赦し”だった。

 



五|涙の夜

夜、自宅の仏壇。兄の写真の前。

理子は、そっと目を閉じてつぶやいた。

「兄さん……ようやく……
あなたの言葉に、追いつけた気がします」

頬を熱いものが伝うのが分かった。
そうして胸の奥が、温かく震えていた。

 



翌朝、理子は江口の担当弁護士に、ある書類を手渡した。
それは、示談交渉を前提とした処分保留の可能性を含む意見書。
形式上は淡々とした文面だが、その一字一句に込められた温度は、確かに彼女の中で変わり始めた心の証だった。

 

「情に流されてはいけない。でも、人を裁くには、人を知らなければならない」
かつて、兄が生前に語っていた言葉が、今になって骨の奥に沁みてくる。

 

事務所を出た江口達生は、数歩進んで、立ち止まった。
薄曇りの空の下、まだ冷たい風が吹いていたが、彼の足取りはわずかに軽かった。

その背に、理子は静かに目を向ける。
まるで、何かを見届けるように。

 

人は、誰かを守るために鬼になることがある。
鬼に涙があるとすれば、それは──
一度でも、誰かを深く愛した証だ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

まなの秘密日記

到冠
大衆娯楽
胸の大きな〇学生の一日を描いた物語です。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

処理中です...