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第四話『鬼の霍乱』
しおりを挟む「鬼の霍乱」──
普段は極めて健康で、病気などとは無縁と思われていた者が、ふとしたことで病に伏すこと。
それは単なる病ではない。
周囲の信頼ごと、世界の秩序ごと、一瞬で瓦解させるほどの“異変”だ。
暁星学園バスケットボール部。
都内でも指折りの強豪校であり、毎年のようにインターハイ出場を果たす名門だ。
その名を牽引してきたのが、三年の葛西拓真だった。
背番号4、ポイントガード。
身長185センチ、俊敏なフットワークに精密なパス、的確な判断力。
3Pシュート成功率は驚異の48%。アシスト数、スティール数、走行距離、全てが圧倒的。
なのに誰よりも練習熱心で、誰よりも声を出す。
朝練には必ず一番乗り。練習後は一人居残りでフリースローを百本打ち込む。
掃除も進んでやる。ボールは常にピカピカに磨かれていた。
後輩には優しく、指導は的確。顧問からは「生徒というより指導者」とさえ呼ばれた。
ある一年生は言った。
「葛西先輩が体育館にいるだけで、空気が違うんです」
ある記者は書いた。
“バスケの鬼神、暁星に宿る”──と。
絶対的なカリスマ、英雄。存在を神格化する者も少なくなかった。
彼がいる限り、誰もが勝利を信じて疑わなかった。
そしてその日もいつもと変わらない日になるはずだった。その時までは。
快晴。春の終わり。関東大会前の最後の練習試合に向けて、チームは熱を帯びていた。
「ナイスパス、ユウト! そのまま走れ!」
声を張りながらコートを駆ける葛西は、今日も絶好調に見えた。
その姿に、誰も異変を感じてはいなかった。
午後三時すぎ。試合形式の練習中。
ドリブルで中央を抜けた葛西が、突如、膝をついた。
「……っ!」
ボールが、コートに転がった。
床に右手をつき、息を荒げる彼の姿を、誰も理解できずにいた。
「……え?」
静まり返る体育館。ひとつ、またひとつ、悲鳴に似た叫びが漏れた。
「葛西先輩!? どうしたんですか、先輩!!」
マネージャーの詩織が駆け寄る。顧問の村井がベンチから飛び出し、指笛が鳴る。
葛西は、立ち上がれなかった。
肩で息をし、額に浮かんだ汗は熱のせいか、緊張のせいかもわからなかった。
「ごめん……大丈夫……ちょっと、熱っぽいだけだから……」
そう呟いた唇は、かすかに白かった。
葛西拓真。
“鬼”と呼ばれた男が、倒れた。
***
そのまま救急搬送された病院で、検査の結果が出たのは三日後。
医師は慎重な口調で告げた。
「急性リンパ性白血病です。早期発見とはいえ、治療には時間がかかります」
母はその場で嗚咽した。
顧問の村井は、病室の外で壁を叩いた。
そして葛西本人は、静かに天井を見上げながら言った。
「……戻れないのか? あのコートに」
答えはなかった。
ただ機械音だけが、病室に響いていた。
「風邪も、インフルも一度もかかったことなかったのに……」
彼は誰よりも強く、誰よりも健康で、誰よりも“異常”だった。
その異常が、破られた。
鬼の霍乱——。
それは、ただの病ではない。
神を人に戻す、一瞬の崩壊だった。
入院して一週間が過ぎた。
白く無機質な病室は、葛西にとってまるで異世界だった。
「……こんなに、静かなんだな」
点滴の滴る音と、外を走る車の音。
時間はあっても、心は何も埋められなかった。
彼は“やることがある時間”で自分を保っていた。
予定、目標、練習、試合、後輩指導。埋め尽くされたスケジュールは、彼に迷いを与えなかった。
それがすべて剥がれた今、自分が空洞のように感じられた。
「俺は……なんだったんだ?」
そんな葛西の病室に、最初に訪ねてきたのは、2年の後輩・城戸だった。
控えのガードだった彼は、いつも葛西のプレーを真似し、背中を追い続けてきた。
「……先輩、これ。ノート、見つけたんす」
城戸が差し出したのは、葛西が毎日の練習でつけていたバスケノート。
一つ一つのプレーの反省。声かけの言葉。後輩への気づき。
そのすべてが、葛西の“強さ”の源だった。
「……これ、みんなにコピーして配ってます。俺ら、まだ戦いますから」
彼の言葉に、葛西は目を見開いた。
「おまえら……練習、やれてるのか?」
「最初はグダグダだったけど……“葛西先輩がいたら怒るぞ”って、佐伯キャプテンが言って……」
言いながら、城戸は顔をそらした。
「……声、出さなきゃって思ったんす。葛西先輩、いつも言ってたから。“バスケは声だ”って」
葛西はゆっくりと頷いた。
思わず、涙がこぼれそうになるのをこらえた。
***
その日の練習、体育館では“ある光景”があった。
キャプテンの佐伯が中心に立ち、声を張る。
「リバウンド取って、声で呼べ! 次の動き、常に伝え合え!」
葛西が常に言っていた言葉を、彼らは一つ一つ真似し始めていた。
コートの端には、コピーされた葛西ノートがクリアファイルに収められて掲示されていた。
「これ、葛西先輩の“魂”です!」
と、誰かが言った。
もはや“神”はいない。
だが、彼が残した“声”は、彼らの中に生きていた。
***
数週間後。
葛西は、病室のテレビで仲間たちの試合を観ていた。
モニター越しのコートでは、彼が築いたチームが、今まさに奮闘していた。
「……いいぞ、ユウト。そのタイミングだ」
「佐伯、もっと声を張れ……そう、それだ」
ベッドの上で、無意識に呟く。
そして試合終了。僅差で勝利。
モニターの中で、仲間たちが抱き合い、叫ぶ。
葛西は、唇を噛み締めながら涙を流した。
「みんな、ちゃんと強ぇじゃねぇか……」
“鬼の霍乱”は、彼だけの物語ではなかった。
それは、チーム全体に走った雷光であり、試練だった。
そして彼らは、それを乗り越えようとしていた。
葛西は、その夜、日記にこう記した。
「俺がいなくてもチームは進む。それでいい。
けど、俺は帰る。
声の届く場所に、もう一度立つ。」
天井を見つめたまま、葛西は深く息を吸った。
それは久しぶりに、確かに「前を向く」呼吸だった。
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