『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

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第六話 『鬼の首を取ったよう』

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「鬼の首を取ったよう」とは、大した成果でもないのに、得意げになって大騒ぎする様子を指す。まるで鬼の首を取った英雄気取りだが、周囲から見ると「で、だから何?」といった空気が流れるのが常。

「なあなあ、聞いた? 佐伯主任、今朝から“伝説のファクス誤送信を防いだ男”って社内で名乗ってるらしいよ」

「え、それってただの確認作業じゃ……」

「しっ! 聞こえるって」

オフィスの隅でひそひそと囁きが交わされる中、佐伯隆・35歳、主任、今日も全力で「鬼の首を取ったよう」に得意満面であった。

「俺が今朝な、いつも通り書類チェックしてたら、経理からの請求書が間違っててさ! 宛先が別部署になってたのよ。これ、俺が気づかなきゃ大問題だったぞ? いやぁ、俺、会社の危機を救ったってことでいいよなこれ」

周囲は愛想笑い。彼の手には、なぜか自作の「社内防衛功労賞(紙製)」が握られていた。

「つーかさ、マジで俺いなかったらこの会社潰れてたんじゃね?」

「それはないですね」

若手の佐藤が即答したが、隆は聞いちゃいない。

ランチタイム。社員食堂のテーブルを囲む面々の空気は、昨日と同じようで、どこか違っていた。隆がまた何か自慢話を始めるのでは、とみんなが微妙に目を伏せている。

案の定、彼は席に座るなり「おう、みんな聞いてくれ」と大声を上げた。

「実はな、俺、さっき社長に呼ばれたんだよ」

一瞬、皆の視線が集まる。

「でさ、言われたよ。“君のような人材がいて、我が社も安心だ”って」

「それ、社長じゃなくて清掃のおばちゃんじゃないですか?」

またしても佐藤がボソリと突っ込む。

「ま~た鬼の首を取ったみたいな顔してるよ」

「次あたり、“伝説のペン貸した男”とかで社史に残りそう」

笑いが起きる中、隆はなおも堂々としていた。本人は本気で“英雄”気取りなのだ。

だがこの日、彼の“鬼首伝説”は、ついに終焉を迎える。

午後、社内ミーティングの席で、ある重要案件の進捗を問われた隆が、
「あ、それ……まだやってなかったっす」
と爽やかに言い放ったのだ。

会議室が静まり返る。

部長が低い声で言う。
「……鬼の首を取る前に、自分の担当業務、ちゃんと終わらせような」

それからしばらく、佐伯隆は妙におとなしかったという。
社内ではこの日を「首落とし記念日」と呼んで笑い合うのが、小さな恒例になった。

それから数日、佐伯主任は少し元気をなくしていた。

派手な自慢話もしなくなり、社内チャットに自作の“俺スゴイ報告”を投下することもなくなった。若手社員たちはホッとする一方、ちょっとだけ物足りなさも感じていた。

「あの人、あれで会社の潤滑油だったのかもな……」

そうつぶやいたのは、佐藤だった。

いつも冷静に突っ込んでいた佐藤だが、なんだかぽっかりと空いた時間が妙に静かで、寂しいような気がしていた。

一方の佐伯はというと、珍しく黙々と仕事をしていた。しかも、正確で、早い。

「主任、今月の報告書、全部もう揃ってるんですか?」

「うん。っていうか、ほら……口だけって言われんのもシャクだからさ。やるときゃやるのよ俺」

肩をすくめるその姿に、少し照れたような笑みが浮かんでいた。

「でもさ、ちょっとはさ……あの時の請求書のやつ、ほんとに危なかったんだぜ?」

「……はいはい、鬼の首を取ったようにね」

佐藤はニヤリと笑った。

「でも……ま、あの時の主任の顔、ちょっとカッコよかったですけどね」

「……え、マジで? それ録音しておいてくれ」

「絶対しません」

ふたりのやり取りに、周囲からくすくすと笑い声がこぼれた。

やがて月末の社内報で、「請求書誤送信防止の取り組みを強化します」という記事が掲載され、そのきっかけとなった“初動の気づき”に、さりげなく「佐伯主任の報告により――」と記載されていた。

誰も大きな声では言わなかったが、その記事を見て、

「……やっぱ、ちょっとは鬼の首、取ってたのかもな」

そうつぶやいた社員が、一人や二人ではなかったという。

得意げな顔も、空回りも、照れくさい沈黙も──
全部ひっくるめて、「佐伯主任」は今日も会社のどこかで、小さな首を取った気でいる。

実のところ、佐伯主任の“自慢癖”には、ちょっとした法則があると社内では密かに噂されていた。

例えば、新人が小さな成功をしたとき――
たとえ自分の手柄じゃなくても、「いやー、俺がちょっとアドバイスしたらさ~!」と、まるで自分が育てたような顔をする。

誰かが失敗して落ち込んでいるとき――
「昔俺もやったやった! もうひと桁間違えてさ~!」と、なぜか自分の黒歴史を自慢げに語り、なぜか相手が元気になる。

口では「俺が、俺が」ばかりだけど、振る舞いはどこか周囲を見ていて、意外と空気も読んでいる。
言葉は大仰でも、その芯にあるものが、ちゃんと“人の顔を見ている”からこそ、誰も本気で怒れないのだ。

「主任ってさ、言ってること半分嘘でも、なんか憎めないよね」

「うん。なんなら、ちょっと続きが聞きたくなるしね」

「……なんか、いないと物足りないよね」

そんな会話が、今日もどこかのデスクの隅でひそひそと交わされていた。

たとえその手に握るのが、鬼の首じゃなくても――
自慢げに語るその姿が、いつしかみんなの顔に、笑顔を咲かせていた。
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