『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

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第八話『鬼の居所が悪い』

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森川はいつもと違っていた。
普段は誰にでも穏やかに接し、頼れる存在として職場の空気を和ませていた彼が、突然冷たい視線を投げかけ、厳しい口調で部下たちに指示を飛ばす。

「おい、何度言わせるんだ。もっと気を引き締めろ。」
「そんな甘い仕事のやり方じゃ、いつまで経っても成長しないぞ。」

若手社員たちは戸惑い、心の中でつぶやいた。
(森川さん、どうしたんだろう……)

上司も心配そうに様子をうかがうが、本人は何も語らず、ただいつもの仕事を続けている。
職場は次第に重い空気に包まれ、誰もが森川の態度に気を遣うようになった。

ある日、若手の一人、佐藤が意を決して声をかけた。
「森川さん、何かあったんですか?いつもと違って、みんな戸惑っています。」

森川は一瞬だけ目を伏せ、深く息をついた。
「……実はな、俺は余命宣告を受けているんだ。病気で、長くはない。」

その言葉に、佐藤は言葉を失った。

「だからこそ、俺は後継者を育てたい。漫然と仕事をしている奴らを叱り飛ばしてでも、厳しく鍛えたいと思ったんだ。甘やかす時間はもう残っていない。」

森川の覚悟に触れ、佐藤の胸は熱くなった。

その後、森川の真意が周囲に伝わると、職場の空気は少しずつ変わっていった。
若手たちは自分たちの仕事への姿勢を見つめ直し、責任感を持って取り組み始める。

森川の厳しさは、単なる怒りではなく、愛情だったのだ。
彼の背中はいつしか、職場全体を支える大きな支柱となっていった。

残された時間は決して多くはなかった。
ある日の夕暮れ時、職場の休憩室で若手社員の佐藤がぽつりと呟いた。

「森川さん、今日もまた厳しかったですね……」

隣にいた先輩の田島が頷きながら答えた。

「でもな、あの人の怒りには理由があるんだ。俺たちが気づいてないだけで、背負ってるものが大きすぎるんだよ。」

佐藤は眉をひそめて言った。

「でも、あんなにキツく当たられると、正直怖いです。俺たちに期待してるのはわかるけど……」

田島は静かに微笑みながら語りかけた。

「俺も最初はそう思った。だがな、森川さんの姿を見て、やっと気づいたんだ。彼は自分の時間が限られてるからこそ、俺たちに本気でぶつかってくるんだって。甘やかしてる暇はない、ってね。」

佐藤は目を伏せ、静かに頷いた。

「実は、彼が病気で余命宣告を受けてるって聞いて……びっくりしました。まさか、あんなに元気そうなのに。」

田島は少し目を細めて言った。

「そうだ。表面には出さないけど、彼は毎日が戦いなんだ。俺たちに仕事を教えながら、自分自身とも闘っている。」

その日の夕方、森川はいつものようにデスクで作業をしながら小さく呟いた。

「まだまだだな…でも、これからだ。お前たちには伸びしろがある。」

彼の言葉は控えめだったが、重みは確かに若手の胸に響いた。

彼の言葉は決して大きくはなかったが、胸に響く重みがあった。若手たちの心に静かに沁み渡り、やがて確かな覚悟となっていった。

しかし、その翌日、森川は体調を崩し、やむなく職場を離れる決断を下した。
病院での検査の結果は、誰もが恐れていた通りだった。命の残り時間は限られていた。

入院生活は厳しく、痛みや不安と闘いながらの日々。だが森川の闘志は揺るがなかった。
家族や病院のスタッフに支えられながらも、彼の頭の中は常に職場のこと、そして後継者たちのことが占めていた。

「俺の代わりに、あいつらを強く育ててくれ……」
小さな声でつぶやくその言葉は、本人の弱さを一切感じさせない強い決意だった。

ある夜、病室の窓から見上げた星空に、森川はそっと手を合わせた。
「ありがとう。ここまでよく頑張ったな、俺」
彼の瞳には、ほんの少しだけ安堵の色が浮かんでいた。

その後も、職場では彼の教えを胸に刻んだ若手たちが奮闘を続けていた。
時には壁にぶつかりながらも、森川の言葉を思い出し、前へ進む。

そして、数か月後、森川は静かにこの世を去った。
その知らせは職場に深い悲しみをもたらしたが、同時に彼の魂が永遠にここに宿ることを全員が感じていた。

葬儀の場で、田島は涙をこらえながら語った。
「森川さんは、最後まで俺たちのことを想っていた。彼の魂はここに生き続ける。俺たちがそのバトンを繋いでいくんだ。」

森川の厳しさと愛情は、確かな灯火となって若者たちを照らし続けた。
彼の人生の軌跡は、まるで冬の寒さを乗り越え、春に咲く一輪の花のように、多くの人の胸に温かく息づいているのだった。
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