『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

文字の大きさ
9 / 12

第九話『鬼の耳に念仏』

しおりを挟む
鬼に念仏」とは、どんなに善意や説得を尽くしても、相手がまったく理解しようとしない、無意味な努力を指す。
だが、それが本当に無意味かどうかは、唱える側の覚悟次第だ。

三月の冷たい雨が、辰雄の肩を濡らしていた。
運送会社の制服のまま、市役所の自動ドアをくぐる。時計は昼の12時12分。昼休みはあと40分。

市役所保健課。
番号札を呼ばれ、辰雄は深呼吸してカウンターに歩み寄った。
制服の袖口からは、まだ荷物を運んだ時の埃が落ちきっていない。

「特定医療費の申請ですね」
斎藤が書類をめくりながら、無表情で言った。
「……ご主人の世帯収入が基準より年間で八万円ほど多いので、対象外になります」

「八万? 八万で、妻の命を諦めろって言うんですか」
声が少し震える。

「制度ですから。条件を満たしていない場合は、どなたでも対象外になります」

辰雄はカウンター越しに身を乗り出した。
「じゃあ聞きますけど、この八万は残業して稼いだ分です。病院代がかさんだから残業したんです。それが基準を超える理由ですか」

「……お気持ちはわかりますが」

「わかってない! あんた、妻が夜中に苦しんでる時に、何度もタクシー飛ばして病院行ったことありますか? 治療を受けさせたくても、財布の中身を見て、薬を一部しか買えなかったことありますか?」

斎藤は視線を落とし、黙って書類をそろえた。

「……こちらにも決まりが」

「決まりは人を救うためにあるんじゃないんですか? 数字を守るためにあるんじゃないでしょう」
辰雄の声は低かったが、窓口の後ろにまで響く力があった。

ロビーで待っていた数人が、こちらを振り返る。
木下が書類の山から顔を上げ、何か言いたげに辰雄を見つめていた。

「俺はあいつの……美佐子の葬式なんて出したくないんだ。あいつはまだ生きている。生きたいんだ」

ロビーの空気が、わずかに重くなる。
コピー機の音が止まり、近くの窓口の職員も顔を上げた。
辰雄の言葉は、ただの怒鳴り声ではなかった。必死さが滲み、場にいる誰もが耳を傾けざるを得なかった。

奥の席から、若い職員・木下が立ち上がり、そっと斎藤の耳元で何かを囁く。
斎藤は眉をひそめたが、木下の真剣な表情に押され、ため息をつく。

「……少々お待ちください」
斎藤が奥へ引っ込むと、木下がカウンターに立った。
「辰雄さんですよね。奥さんの件、別の制度の組み合わせなら可能性があります。ただ、いくつか追加の診断書と証明書が必要です」

辰雄は瞬きをし、息を詰めた。
「……それで間に合うのか?」

「期限は今日です。今から病院に行って、医師の印をもらえば――」

木下の言葉が終わる前に、辰雄は走り出していた。
ロビーを飛び出し、タクシー乗り場まで駆ける。
雨の匂いが鼻をつき、額ににじむ汗が冷たかった。

病院の廊下を駆け抜け、主治医の小笠原の元へ飛び込む。
状況を説明すると、小笠原はすぐ診断書を書き始めた。
「……辰雄さん、奥さんのためなら何度でもやりますよ」

診断書を胸に抱きしめ、再び市役所へ戻る。
閉庁時間まで残り15分。
靴底が濡れた床を鳴らしながら、辰雄は窓口に飛び込んだ。

斎藤が無言で書類を受け取り、木下が確認作業を進める。
そして、数分後――。

「……申請、受理します」

静かな言葉だったが、辰雄には鐘の音のように響いた。
思わず深く頭を下げる。
「ありがとうございます……本当に」



その夜、美佐子の病室。
辰雄は椅子に腰を下ろし、妻の手を握った。
「……通ったぞ。これで治療が続けられる」

美佐子は薄く笑い、目を閉じた。
「あなた、無茶ばっかり……」

辰雄は首を振り、静かに呟く。
「鬼に念仏でも、あんたのためなら何度でも唱えるさ」

外の雨は上がり、窓の外には小さな星がひとつ、夜空に光っていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...