『鬼の袖にも露は降る』

キユサピ

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第九話『鬼の耳に念仏』

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鬼に念仏」とは、どんなに善意や説得を尽くしても、相手がまったく理解しようとしない、無意味な努力を指す。
だが、それが本当に無意味かどうかは、唱える側の覚悟次第だ。

三月の冷たい雨が、辰雄の肩を濡らしていた。
運送会社の制服のまま、市役所の自動ドアをくぐる。時計は昼の12時12分。昼休みはあと40分。

市役所保健課。
番号札を呼ばれ、辰雄は深呼吸してカウンターに歩み寄った。
制服の袖口からは、まだ荷物を運んだ時の埃が落ちきっていない。

「特定医療費の申請ですね」
斎藤が書類をめくりながら、無表情で言った。
「……ご主人の世帯収入が基準より年間で八万円ほど多いので、対象外になります」

「八万? 八万で、妻の命を諦めろって言うんですか」
声が少し震える。

「制度ですから。条件を満たしていない場合は、どなたでも対象外になります」

辰雄はカウンター越しに身を乗り出した。
「じゃあ聞きますけど、この八万は残業して稼いだ分です。病院代がかさんだから残業したんです。それが基準を超える理由ですか」

「……お気持ちはわかりますが」

「わかってない! あんた、妻が夜中に苦しんでる時に、何度もタクシー飛ばして病院行ったことありますか? 治療を受けさせたくても、財布の中身を見て、薬を一部しか買えなかったことありますか?」

斎藤は視線を落とし、黙って書類をそろえた。

「……こちらにも決まりが」

「決まりは人を救うためにあるんじゃないんですか? 数字を守るためにあるんじゃないでしょう」
辰雄の声は低かったが、窓口の後ろにまで響く力があった。

ロビーで待っていた数人が、こちらを振り返る。
木下が書類の山から顔を上げ、何か言いたげに辰雄を見つめていた。

「俺はあいつの……美佐子の葬式なんて出したくないんだ。あいつはまだ生きている。生きたいんだ」

ロビーの空気が、わずかに重くなる。
コピー機の音が止まり、近くの窓口の職員も顔を上げた。
辰雄の言葉は、ただの怒鳴り声ではなかった。必死さが滲み、場にいる誰もが耳を傾けざるを得なかった。

奥の席から、若い職員・木下が立ち上がり、そっと斎藤の耳元で何かを囁く。
斎藤は眉をひそめたが、木下の真剣な表情に押され、ため息をつく。

「……少々お待ちください」
斎藤が奥へ引っ込むと、木下がカウンターに立った。
「辰雄さんですよね。奥さんの件、別の制度の組み合わせなら可能性があります。ただ、いくつか追加の診断書と証明書が必要です」

辰雄は瞬きをし、息を詰めた。
「……それで間に合うのか?」

「期限は今日です。今から病院に行って、医師の印をもらえば――」

木下の言葉が終わる前に、辰雄は走り出していた。
ロビーを飛び出し、タクシー乗り場まで駆ける。
雨の匂いが鼻をつき、額ににじむ汗が冷たかった。

病院の廊下を駆け抜け、主治医の小笠原の元へ飛び込む。
状況を説明すると、小笠原はすぐ診断書を書き始めた。
「……辰雄さん、奥さんのためなら何度でもやりますよ」

診断書を胸に抱きしめ、再び市役所へ戻る。
閉庁時間まで残り15分。
靴底が濡れた床を鳴らしながら、辰雄は窓口に飛び込んだ。

斎藤が無言で書類を受け取り、木下が確認作業を進める。
そして、数分後――。

「……申請、受理します」

静かな言葉だったが、辰雄には鐘の音のように響いた。
思わず深く頭を下げる。
「ありがとうございます……本当に」



その夜、美佐子の病室。
辰雄は椅子に腰を下ろし、妻の手を握った。
「……通ったぞ。これで治療が続けられる」

美佐子は薄く笑い、目を閉じた。
「あなた、無茶ばっかり……」

辰雄は首を振り、静かに呟く。
「鬼に念仏でも、あんたのためなら何度でも唱えるさ」

外の雨は上がり、窓の外には小さな星がひとつ、夜空に光っていた。
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