『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第一章:「龍門」

第二話:「修行の日々」

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薄曇りの朝。村外れの小さな道場には、まだ冷たい空気が漂っている。木造の柱には古びた槍や刀が掛けられ、土壁には歴代師範の筆による書が掛けられていた。細かな埃が朝陽の光を受けて舞い上がる。

「リン、呼吸を整えろ。」

白蓮の声は低く、落ち着いている。杖を手にしながら、その鋭い目は弟子の動きを細部まで逃さず見ていた。彼女の黒髪は束ねられ、後ろで一つの房となり揺れている。重傷を負ったとは思えぬ鋭い立ち姿だが、時折左肩に軽く手を当て、痛みをこらえているのが分かる。

リンは深く息を吸い込み、胸の内を鎮めようとする。だが、心臓の鼓動は激しく、手足の震えは止まらなかった。

「もっとゆっくり。気は焦らず流すものだ。お前の呼吸はまだ速すぎる。」

白蓮の口調は穏やかだが、その言葉の重みは確かに伝わった。リンはもう一度息を吐き出し、目を閉じてみた。周囲の音が一つ一つ鮮明に聞こえ始める。風が木の葉を揺らす音、遠くで鶏が鳴く声、そして自分の呼吸の音。

「そうだ、その調子だ。」

白蓮が杖を軽く地面に突き立てる。彼女の体から放たれる気配は強く、リンは自然と背筋を伸ばした。

「次は基本の突きだ。力任せではなく、心を込めて打つ。手先だけで動かすのではなく、腰と足から連動させるのだ。」

リンは構えを取り直す。筋肉が張り詰め、足元から力が波紋のように体を巡る感覚を覚えた。腕を伸ばし、目標に向けてゆっくり突きを放つ。

だが、突きは途中で止まり、肘がわずかに曲がる。心が乱れていたのだ。

「まだだ。お前の突きは心が先に走っている。技は心を映す鏡。感情の乱れは技に如実に現れる。」

白蓮は静かに、しかし厳しく諭す。リンは汗で濡れた額を手の甲で拭い、もう一度気を整えた。

「師匠……僕は、強くなりたいです。なのに、どうしても自分を抑えられなくて……。」

「強さとは、力だけではない。己を知り、制することが真の強さだ。焦りは時に敵になる。何度でも挑み続けよ。」

その言葉に、リンは少しだけ胸のつかえが下りた気がした。

昼下がり、道場の空気は熱気を帯びていた。
木刀を振るたびに掌が痺れ、腕が鉛のように重くなる。リンは歯を食いしばって何度も突きを繰り返したが、どうしても動きがぎこちない。

「違う、そうじゃない!」
白蓮の声が鋭く響く。「力は抜け。今のお前は、ただ腕を振り回しているだけだ。」

リンは悔しさに唇を噛む。
(何度やっても同じだ……。どうして俺は、師匠みたいにしなやかに動けないんだ?)

その様子を見ていた兄弟子の楊烈(ようれつ)が歩み寄ってきた。
「リン、ちょっと木刀を貸せ。」
楊烈は軽く構え、ゆっくりと突きを放つ。無駄のない動きは、風を切る音すら澄んでいた。

「お前、腕で突こうとするから駄目なんだ。足、腰、肩……全部を連動させる。突きは全身で打つんだ。」
そう言うと、彼はリンの背後に回り、腰の位置を軽く押さえた。
「ほら、この状態から前に踏み出せ。足を動かすタイミングで腰を切る。それが腕に伝わるんだ。」

言われた通りに試すと、先ほどまでの突きよりも力が通った感覚があった。リンの目がわずかに見開かれる。
「……今の、ちょっと違った。」
「そうだ。それが“繋がった”感覚だ。忘れるなよ。」

そこへ姉弟子の蘭(ラン)が近づき、にやりと笑う。
「リン、さっきから肩に力入りすぎ。あんた、見栄張ってんでしょ。」
「そ、そんなこと……」
「嘘。顔に出てる。肩に力が入ると、内功の流れが詰まるの。気を通したいなら、肩を落として首筋を楽にしなさい。」

蘭はリンの肩に手を置き、軽く押し下げた。
「ほら、呼吸して。背中の奥まで空気を入れる感じ。そうすれば腕は勝手についてくる。」

リンは深く息を吸い、吐いた。肩が自然に下がり、全身が少し軽くなる。
試しに突きを放つと、先ほどよりも鋭く、軌道がぶれない。

白蓮が遠くから静かに頷いた。
「……少しは形になってきたな。だが忘れるな、技は一度掴んでもすぐに逃げる。何度も繰り返して体に刻み込め。」

その日、リンは夕暮れまで木刀を握り続けた。
腕は痛み、足は痺れたが、胸の奥には確かな手応えが残っていた。
(俺、少しだけ……近づけたのかもしれない)
そう思った瞬間、悔しさがわずかに希望へと変わった。

夕刻。
一日の修行を終えたリンは、重くなった足を引きずりながら村外れの川へ向かった。
流れる水面は夕陽を受けて朱に染まり、涼やかなせせらぎが耳に心地よい。

靴を脱ぎ、膝まで川に浸かると、冷たい水が火照った足を一気に冷ましてくれる。両手ですくい、顔や首筋にかけると、張り詰めていた筋肉がほぐれていく。

(ふぅ……。今日は少しはマシになったかもしれない)
楊烈の腰の使い方、蘭の肩の力を抜く呼吸法――その感覚がまだ身体に残っていた。

その時、水音とは別の小さな音が耳に届いた。
振り向くと、川下の浅瀬で一人の女性が洗濯をしている。
年はリンより少し上か。長い黒髪を布で束ね、白い袖をたくし上げ、静かに衣を川水で揉み洗いしていた。

女性はふと顔を上げ、リンと視線が交わる。
「……訓練帰り?」
澄んだ声が、夕暮れの水面に溶ける。

「え、あ、はい……」
答えると、女性は小さく笑みを浮かべた。
「随分と擦り傷だらけね。武人の卵かしら。」
「えっ……」
彼女はそれ以上何も言わず、また衣を水に沈めた。

その手際は妙に無駄がなく、川辺に似つかわしくない鋭さを感じさせる。
リンは声をかけようとしたが、なぜか胸の奥に小さな警戒心が芽生え、言葉が出なかった。

洗濯を終えると、女性は濡れた衣を肩にかけ、振り返らずに川辺を離れていく。
夕陽の中、その背がだんだん小さくなっていった。

(……誰だ、あの人)
川面に映る自分の顔は、修行の疲れよりも別の感情で赤く染まっていた。

川辺から戻ったリンは、道場の門前で足を止めた。
薄暮の中、そこに立つ一人の人影。背は高くはないが、纏う空気が周囲の景色を押しのけるように濃い。

灰色の外套に身を包み、白髪をひとつに束ねた老女――いや、その背筋の伸び方は、年齢という枷を感じさせない。
ただ静かに立っているだけなのに、リンの胸の奥に圧迫感が走る。

「……あれは……」
声に出す前に、道場の戸が開き、白蓮が現れた。
その表情は普段の厳しさとは違い、深く敬意を帯びている。

「――師匠。」

老人はゆっくりと白蓮に視線を移し、わずかに頷いた。
そして、まっすぐにリンを見た。

一瞬で全身の血が逆流するような感覚。
その瞳は、皮膚も筋肉も骨も、さらに奥の奥――魂そのものまで覗き込んでくるようだった。

「……ほう。」

低く、短い声が漏れる。
老人は白蓮に目を戻し、静かに言った。

「白蓮。この子を……よく拾ったな。」
「師匠……?」
「間違いない。千年に一度、いや、千五百年ぶりかもしれぬ逸材だ。
 だが、このままでは花も咲かずに散る。」

白蓮は微かに眉を動かした。
リンは、自分の価値を認められた喜びよりも、なぜか背筋を冷や汗が伝う感覚を覚えていた。
老人の言葉には、ただの褒め言葉ではない重さがあったからだ。

飛燕と呼ばれたその人物は、ゆっくりとリンの肩に手を置く。
軽く触れただけなのに、その手から押し寄せるような力と温もりが伝わる。
「これから、お前は試されるだろう。己を制する覚悟があるなら、白蓮にすべてを学べ。」

そう言い残し、飛燕は踵を返し、暮れゆく道を去っていった。
その背が消えるまで、リンは一歩も動けなかった。
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