『天翔（あまかけ）る龍』

第三章:「運命の交差」

第四十四話:「武の鏡」

月明かりの下、二人の兄弟は互いに向かい合った。
景嵐の眼には怒りも憎悪も、ましてや殺意すらも宿っていない。ただひたすらに、武の道を試す者の瞳だけが輝いていた。

「……来い、弟よ」
景嵐の声には挑発も脅しもない。ただ静かに、しかし力強く、リンに告げられた。

リンもまた、刃を構える姿に殺気はなく、己の信じる「守る武」を示すための覚悟だけを帯びていた。

二人の間に漂うのは、冷たい空気や死の予感ではない。
ただ純粋な、武と武のぶつかり合い。理も情も交じらぬ、鍛錬と魂が響き合う瞬間だった。

森の静寂さえも二人の呼吸に従うかのように張り詰め、葉擦れの音も微かに震える。

景嵐は一歩踏み出す。
リンも応じ、身を沈める。
刀と拳が、互いの心を映す鏡のように反応し合う。

ここにあるのは、血縁でも運命でもなく、純粋なる「武」の対決だけだった。

互いの目が交わる。
同じ血を分けた者として、だが異なる道を歩む者として、静かな緊張が空気を満たす。

景嵐が最初の一閃を放つ。
リンは剣を翻して受け止め、すぐさま反撃に転じる。
剣と剣がぶつかる音が、森に軽く響く。火花は散らず、ただ鋼同士の響きだけが静かに広がる。

景嵐は軽やかに身を翻し、リンの斬撃をかわす。
刃が交錯し、木々の影を裂くように斬り合う。
殺意はないが、技は研ぎ澄まされ、攻防は緊張感に満ちていた。

「……お前、強くなったな」
景嵐の低い声。
互いに言葉ではなく、技と呼吸で会話する。

剣撃は互いに攻め、かわし、受け、返す。
どちらかが優位に立つ瞬間もあるが、殺意を帯びていないため、致命傷は与えられない。
二人の間に生まれるのは、己の武の可能性を確かめ合う、清々しい緊張感だった。

景嵐の剣先がリンの防御を掠める。
だがリンは瞬時に角度を変え、反撃の流れを作る。
二人の身体から発せられる「武の気」が森の空気を震わせ、葉が微かに揺れた。

一瞬の静止。互いに呼吸を整え、視線を交わす。
殺気はない。互いに命を狙わず、純粋に武を映し合う――鏡のような試合だった。

景嵐は心の奥で不思議な感覚にとらわれた。
幼い頃より力こそ正義と信じてきた自分が、こうも簡単に技と理で止められる。
己が己に負けそうになる衝動が、体中に湧き上がる。

だが、同時に湧くのは嫉妬にも似た感情だった。
弟が己の理を見据え、己と同じ武を持つ――それを認める悔しさ。

「……ならば、まだまだだな、弟よ」
景嵐は微かに笑みを浮かべ、次の一閃に体を乗せた。

リンも応じる。
二人の剣先が再び火花を散らすことなく交錯する。
今は殺し合いではなく、武の精度と精神が試される、一瞬の戦いの頂点に立つ時間だった。

剣を交わすたび、景嵐は不思議な感動が体を吹き抜けるのを感じていた。
力任せの破壊ではなく、純粋な武のぶつかり合い――命を懸けるわけでもなく、ただ己と己が技で語り合うこの瞬間に、胸が高鳴る。

幼き頃から力こそ正義と信じ、破壊の道を突き進んできた男にとって、こんな感覚は初めてだった。
刀を握る手が震えるわけでも、体が強張るわけでもない。
全身の血が熱く逆流するように流れ、心底から湧き上がる「武の歓喜」が、理性や怒りを一瞬だけ忘れさせる。

「……これが、武……か」
景嵐の瞳には、殺意ではなく純粋な探究心が宿る。
剣を交えるたびに、リンの技の鮮やかさ、正確さ、そして心の強さが肌で伝わる。
互いに命を狙わず、ただ武を極める――それは景嵐にとって、これまでの戦場では決して味わえなかった感覚だった。

破壊の焔と理の静かな炎が胸の奥で混ざり合う。
長年信じてきた己の価値観が揺らぐ一方、武の純粋さに触れることで生まれる新しい高揚感が体を貫いた。

そして景嵐は気づく――この弟との試合こそが、破壊の武神としての己を超え、真の武を知るための道である、と。

最後の一閃の後、二人は自然に剣を下ろす。
景嵐は息を整え、目の前の弟を見つめた。
「……これが、武か」
その声は静かで、しかし心の底から湧き上がる確信を帯びていた。

リンは微かに笑みを浮かべ、頷く。
「景嵐、私の武は、心も刃の一部として示す――それが、守る武」

景嵐は拳を握り直す。胸の奥で、破壊の武神として歩んできた自分の道が、新たな意味を帯び始めていた。
力だけではなく、技と心をもって挑む武の道。初めて、それを理解し、受け入れた瞬間だった。

森の闇に、月明かりが二人の影を細く引き伸ばす。
剣を交えた余韻が静かに空気を震わせ、葉擦れの音だけが聞こえる中、リンはゆっくりと口を開いた。

「景嵐……強さは正義に違いない。だが、真の強さとは、弱き者を守るために振るうものだ」

その声は低く、それでいて凛とした重みを持っていた。
「力だけで道を切り開くことは誰にでもできる。しかし、弱き者のために剣を振るう――それが、私たちの武の意味だ」

景嵐は一瞬、言葉を失った。胸の奥で、破壊こそが己の正義だと信じて疑わなかった自分が、静かに揺れる。
己の手の中の刀の重み、全身に駆け巡った血の熱、そして弟の言葉――すべてが混ざり合い、何か新しい感覚が体を満たす。

「……守るための強さか……」
景嵐の瞳に、ほんの僅かに驚きと敬意が滲む。怒りも憎悪もなく、ただ純粋に、心を貫かれた感覚。
「俺は……ずっと間違っていたのかもしれぬ。力こそ正義だと信じ、振るう刃の意味を考えぬまま……」

月光の下、二人の兄弟は剣を下ろし、互いの目を見つめ合う。
そこにあるのは勝敗ではなく、武を知り、互いを認める静かな理解の光だった。

景嵐の胸に、破壊の焔と守るための炎が混ざり合い、初めてその二つが共存する感覚を知る。
「……リン、お前の武……理解した」

リンは微笑み、軽く頷く。
「景嵐……それが、私たちの道だ」