『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

文字の大きさ
60 / 146
第五章:「魏支国潜入」

第六十話:「王都の光と影」

しおりを挟む
藍峯は王宮の静かな一室で、渡された通行の手形をじっと見つめていた。
魏支国――そこは隣国でありながら、不穏な噂の影が絶えない土地。疫病の影を探るには、どうしてもその奥へと踏み入らねばならない。

「……赤狼」
呼びかけに応じて、忠実な獣が静かに首を垂れる。

藍峯はその頭を撫で、低く語りかけた。
「しばし、リン殿の側を頼む。武神の守護者としての務めを、今はお前に託す」

赤狼の瞳が力強く光を返す。藍峯はわずかに口元を緩め、深く息を吐いた。
そして、旅支度を整えると、夜明け前の闇に紛れるように王都を発った。

国境の先には魏支国。
影を渡る者としての道が、いま再び始まろうとしていた。

国境の砦は、噂に違わぬ厳しさだった。高く築かれた城壁の上には弓兵が並び、門前では槍を手にした兵が列を成す。通行人は一人ひとり呼び止められ、荷を改められていた。

藍峯は隊列の最後に加わり、静かに順番を待つ。衣は商人風に整え、背には布袋を背負っている。だがその眼差しの奥には、研ぎ澄まされた緊張が潜んでいた。

「次!」
兵の声に促され、藍峯は一歩進み出た。

鋭い視線を向けられるが、彼は慌てず懐から通行の手形を取り出す。
「烈陽の街より薬草を仕入れる途にございます。こちらが証文」

兵は手形を受け取り、入念に照らし合わせる。藍峯は微動だにせず、その一挙手一投足を見守る。
やがて兵の顔が和らぎ、通行を許す合図を送った。
「……通れ」

藍峯は軽く頭を下げ、門をくぐった。背後で再び兵の怒号が響き、誰かが荷を改められている。
だが、もう振り返らなかった。

――こうして藍峯は魏支国へ足を踏み入れた。

広大な街道は王都へと続いている。両脇には荒れた田畑が広がり、行き交う農夫の顔には疲弊が刻まれていた。
藍峯はその光景を見やりながら、心の内で呟く。
「王都に辿り着けば、必ず病の源に近づける……」

彼の足取りは迷いなく、魏支国の心臓部へと向かっていった。
王都の城門をくぐると、目に飛び込んできたのは高い楼閣と、行き交う商人たちの賑わいだった。市場には絹や香が並び、人々の声は活気に溢れている。
「……これが魏支国の表か」
藍峯は心中でつぶやきながら、人混みをすり抜けて裏道へと足を向けた。

だが、石畳の通りを一本外れた途端、光景は一変する。
薄暗い路地には、痩せ細った子供たちが壁にもたれ、虚ろな目で空を見上げていた。片隅では老人がうずくまり、息も絶え絶えに呻いている。

藍峯の胸に重いものが落ちる。
「……これが、この国の裏か」

彼は袋を開き、烈陽で手に入れた薬草の束を取り出した。子供の傍らにしゃがみ込み、手のひらに小さく刻んだ乾燥草を乗せる。
「口に含み、水で流せ。喉の熱が和らぐ」

子供は怯えたように彼を見上げたが、やがて震える手で草を受け取り、口へと運んだ。

次に藍峯は老人へ近づき、袋から別の薬を差し出した。
「これは腹を整える。少しは力が戻るはずだ」

老人は涙を滲ませ、かすれた声で礼を呟いた。
藍峯は何も答えず、ただ立ち上がり、路地の奥へと歩みを進める。

賑わいの表に隠された飢えと病――この国の王都は、まるで仮面を被った怪物のようだった。
藍峯の目に、一層鋭い光が宿る。
「……魏支国よ。お前の闇を暴かせてもらう」

王都の裏通りを歩く藍峯は、立ち並ぶ建物の影に目を走らせていた。
どこを見ても、痩せた子供や老人がうずくまり、食を求めてかすれた声を上げる。表通りの賑わいとは正反対の荒廃に、彼の胸は重くなる。

「……この国は、見せかけだけの繁栄か」

その時、不意に背後から擦れた声がかかった。
「おや……旅の客人、道に迷ったか? いや、それとも“別の物”を探してるのかね」

振り返ると、痩せぎすの男が立っていた。片目に布を巻き、口元には不気味な笑みを浮かべている。
「この辺りじゃ、よそ者はすぐに目立つ。あんたのように目つきが鋭いとなおさらだ。……どうだ、ほんの少し銀貨を恵んでくれりゃ、この国の裏事情を聞かせてやるが?」

藍峯は無言で懐から路銀を数枚取り出し、男の掌に落とした。
「……話せ」

男は満足げに銀貨を弄びながら、声を潜める。
「魏支国で流行ってる“病”のことを知りたいんだろう? 表の連中は皆、知らぬふりをしているが……裏じゃ誰もが噂してるさ」

「噂、だと?」

藍峯の眼差しが鋭く細められる。
男は銀貨を弄びながら、声を潜めて笑った。
「魏支国の“病”はな、どこからともなく湧いたわけじゃねえ。みんな知ってる――“禁苑”から広まってるってな」

藍峯の眉が動く。
「禁苑から……?」

「ああ、王都の北にある高い塀に囲まれた区画だ。昔は皇族の庭園だったが、今は誰も近づかねえ。衛兵でさえ恐れて足を踏み入れない。だが夜になると、煙が立ち、呻き声が漏れる。囚人や流れ者が中に運ばれるのを見た奴もいるが……戻った者は一人もいない」

藍峯は深く黙考したのち、低く呟いた。
「つまり、病の源はそこにあるというわけか」

男は肩をすくめ、にやりと笑う。
「俺は何も言っちゃいねえさ。ただ、あんたがもし命知らずなら……北の“禁苑”に足を運んでみるといい。もっとも、戻って来られる保証はねえがな」

藍峯は銀貨を一枚だけ追加で置き、無言で背を向けた。
胸中に宿るのはただ一つ――魏支国の闇を暴く決意だった。

藍峯は王都の裏通りを離れ、さらに北へと歩みを進めていた。
だが、禁苑はすぐそこにあるわけではなかった。北区からさらに山道を越えねばならず、道は荒れ果て、冷たい風が吹きつける。

途中、藍峯は道端に身を寄せる旅人や病人の群れを見かけた。彼らは衣を薄くまとい、乾いた咳を繰り返している。

「……大丈夫か」
藍峯は背から薬草袋を下ろし、手早く煎じ薬を渡す。
人々は弱々しく感謝し、やがてぽつりぽつりと口を開いた。

「北には……禁苑がある」
「山深く、年中吹雪が止まぬ地だ……空気は乾いて……喉を焼く」
「そこには……人ではない、魔が棲むと……皆がそう言う」

藍峯は耳を澄ませ、静かに頷いた。
「魔物、か……」

噂が事実であるかどうかは分からない。だが病に蝕まれた者たちが、口々に同じことを語るというのは、不気味な一致だった。

風が強まり、白い砂塵が巻き上がる。まるで雪のように乾いた粉が藍峯の頬を打った。
彼は目を細め、山道の先を見据える。

――魏支国の禁苑。
そこはただの庭園ではない。人為か、あるいは人智を越えた何かが潜む場所。

藍峯は背を正し、再び歩を進めた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ドマゾネスの掟 ~ドMな褐色少女は僕に責められたがっている~

ファンタジー
探検家の主人公は伝説の部族ドマゾネスを探すために密林の奥へ進むが道に迷ってしまう。 そんな彼をドマゾネスの少女カリナが発見してドマゾネスの村に連れていく。 そして、目覚めた彼はドマゾネスたちから歓迎され、子種を求められるのだった。

彼の言いなりになってしまう私

守 秀斗
恋愛
マンションで同棲している山野井恭子(26才)と辻村弘(26才)。でも、最近、恭子は弘がやたら過激な行為をしてくると感じているのだが……。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...