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第五章:「魏支国潜入」
第六十話:「王都の光と影」
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藍峯は王宮の静かな一室で、渡された通行の手形をじっと見つめていた。
魏支国――そこは隣国でありながら、不穏な噂の影が絶えない土地。疫病の影を探るには、どうしてもその奥へと踏み入らねばならない。
「……赤狼」
呼びかけに応じて、忠実な獣が静かに首を垂れる。
藍峯はその頭を撫で、低く語りかけた。
「しばし、リン殿の側を頼む。武神の守護者としての務めを、今はお前に託す」
赤狼の瞳が力強く光を返す。藍峯はわずかに口元を緩め、深く息を吐いた。
そして、旅支度を整えると、夜明け前の闇に紛れるように王都を発った。
国境の先には魏支国。
影を渡る者としての道が、いま再び始まろうとしていた。
国境の砦は、噂に違わぬ厳しさだった。高く築かれた城壁の上には弓兵が並び、門前では槍を手にした兵が列を成す。通行人は一人ひとり呼び止められ、荷を改められていた。
藍峯は隊列の最後に加わり、静かに順番を待つ。衣は商人風に整え、背には布袋を背負っている。だがその眼差しの奥には、研ぎ澄まされた緊張が潜んでいた。
「次!」
兵の声に促され、藍峯は一歩進み出た。
鋭い視線を向けられるが、彼は慌てず懐から通行の手形を取り出す。
「烈陽の街より薬草を仕入れる途にございます。こちらが証文」
兵は手形を受け取り、入念に照らし合わせる。藍峯は微動だにせず、その一挙手一投足を見守る。
やがて兵の顔が和らぎ、通行を許す合図を送った。
「……通れ」
藍峯は軽く頭を下げ、門をくぐった。背後で再び兵の怒号が響き、誰かが荷を改められている。
だが、もう振り返らなかった。
――こうして藍峯は魏支国へ足を踏み入れた。
広大な街道は王都へと続いている。両脇には荒れた田畑が広がり、行き交う農夫の顔には疲弊が刻まれていた。
藍峯はその光景を見やりながら、心の内で呟く。
「王都に辿り着けば、必ず病の源に近づける……」
彼の足取りは迷いなく、魏支国の心臓部へと向かっていった。
王都の城門をくぐると、目に飛び込んできたのは高い楼閣と、行き交う商人たちの賑わいだった。市場には絹や香が並び、人々の声は活気に溢れている。
「……これが魏支国の表か」
藍峯は心中でつぶやきながら、人混みをすり抜けて裏道へと足を向けた。
だが、石畳の通りを一本外れた途端、光景は一変する。
薄暗い路地には、痩せ細った子供たちが壁にもたれ、虚ろな目で空を見上げていた。片隅では老人がうずくまり、息も絶え絶えに呻いている。
藍峯の胸に重いものが落ちる。
「……これが、この国の裏か」
彼は袋を開き、烈陽で手に入れた薬草の束を取り出した。子供の傍らにしゃがみ込み、手のひらに小さく刻んだ乾燥草を乗せる。
「口に含み、水で流せ。喉の熱が和らぐ」
子供は怯えたように彼を見上げたが、やがて震える手で草を受け取り、口へと運んだ。
次に藍峯は老人へ近づき、袋から別の薬を差し出した。
「これは腹を整える。少しは力が戻るはずだ」
老人は涙を滲ませ、かすれた声で礼を呟いた。
藍峯は何も答えず、ただ立ち上がり、路地の奥へと歩みを進める。
賑わいの表に隠された飢えと病――この国の王都は、まるで仮面を被った怪物のようだった。
藍峯の目に、一層鋭い光が宿る。
「……魏支国よ。お前の闇を暴かせてもらう」
王都の裏通りを歩く藍峯は、立ち並ぶ建物の影に目を走らせていた。
どこを見ても、痩せた子供や老人がうずくまり、食を求めてかすれた声を上げる。表通りの賑わいとは正反対の荒廃に、彼の胸は重くなる。
「……この国は、見せかけだけの繁栄か」
その時、不意に背後から擦れた声がかかった。
「おや……旅の客人、道に迷ったか? いや、それとも“別の物”を探してるのかね」
振り返ると、痩せぎすの男が立っていた。片目に布を巻き、口元には不気味な笑みを浮かべている。
「この辺りじゃ、よそ者はすぐに目立つ。あんたのように目つきが鋭いとなおさらだ。……どうだ、ほんの少し銀貨を恵んでくれりゃ、この国の裏事情を聞かせてやるが?」
藍峯は無言で懐から路銀を数枚取り出し、男の掌に落とした。
「……話せ」
男は満足げに銀貨を弄びながら、声を潜める。
「魏支国で流行ってる“病”のことを知りたいんだろう? 表の連中は皆、知らぬふりをしているが……裏じゃ誰もが噂してるさ」
「噂、だと?」
藍峯の眼差しが鋭く細められる。
男は銀貨を弄びながら、声を潜めて笑った。
「魏支国の“病”はな、どこからともなく湧いたわけじゃねえ。みんな知ってる――“禁苑”から広まってるってな」
藍峯の眉が動く。
「禁苑から……?」
「ああ、王都の北にある高い塀に囲まれた区画だ。昔は皇族の庭園だったが、今は誰も近づかねえ。衛兵でさえ恐れて足を踏み入れない。だが夜になると、煙が立ち、呻き声が漏れる。囚人や流れ者が中に運ばれるのを見た奴もいるが……戻った者は一人もいない」
藍峯は深く黙考したのち、低く呟いた。
「つまり、病の源はそこにあるというわけか」
男は肩をすくめ、にやりと笑う。
「俺は何も言っちゃいねえさ。ただ、あんたがもし命知らずなら……北の“禁苑”に足を運んでみるといい。もっとも、戻って来られる保証はねえがな」
藍峯は銀貨を一枚だけ追加で置き、無言で背を向けた。
胸中に宿るのはただ一つ――魏支国の闇を暴く決意だった。
藍峯は王都の裏通りを離れ、さらに北へと歩みを進めていた。
だが、禁苑はすぐそこにあるわけではなかった。北区からさらに山道を越えねばならず、道は荒れ果て、冷たい風が吹きつける。
途中、藍峯は道端に身を寄せる旅人や病人の群れを見かけた。彼らは衣を薄くまとい、乾いた咳を繰り返している。
「……大丈夫か」
藍峯は背から薬草袋を下ろし、手早く煎じ薬を渡す。
人々は弱々しく感謝し、やがてぽつりぽつりと口を開いた。
「北には……禁苑がある」
「山深く、年中吹雪が止まぬ地だ……空気は乾いて……喉を焼く」
「そこには……人ではない、魔が棲むと……皆がそう言う」
藍峯は耳を澄ませ、静かに頷いた。
「魔物、か……」
噂が事実であるかどうかは分からない。だが病に蝕まれた者たちが、口々に同じことを語るというのは、不気味な一致だった。
風が強まり、白い砂塵が巻き上がる。まるで雪のように乾いた粉が藍峯の頬を打った。
彼は目を細め、山道の先を見据える。
――魏支国の禁苑。
そこはただの庭園ではない。人為か、あるいは人智を越えた何かが潜む場所。
藍峯は背を正し、再び歩を進めた。
魏支国――そこは隣国でありながら、不穏な噂の影が絶えない土地。疫病の影を探るには、どうしてもその奥へと踏み入らねばならない。
「……赤狼」
呼びかけに応じて、忠実な獣が静かに首を垂れる。
藍峯はその頭を撫で、低く語りかけた。
「しばし、リン殿の側を頼む。武神の守護者としての務めを、今はお前に託す」
赤狼の瞳が力強く光を返す。藍峯はわずかに口元を緩め、深く息を吐いた。
そして、旅支度を整えると、夜明け前の闇に紛れるように王都を発った。
国境の先には魏支国。
影を渡る者としての道が、いま再び始まろうとしていた。
国境の砦は、噂に違わぬ厳しさだった。高く築かれた城壁の上には弓兵が並び、門前では槍を手にした兵が列を成す。通行人は一人ひとり呼び止められ、荷を改められていた。
藍峯は隊列の最後に加わり、静かに順番を待つ。衣は商人風に整え、背には布袋を背負っている。だがその眼差しの奥には、研ぎ澄まされた緊張が潜んでいた。
「次!」
兵の声に促され、藍峯は一歩進み出た。
鋭い視線を向けられるが、彼は慌てず懐から通行の手形を取り出す。
「烈陽の街より薬草を仕入れる途にございます。こちらが証文」
兵は手形を受け取り、入念に照らし合わせる。藍峯は微動だにせず、その一挙手一投足を見守る。
やがて兵の顔が和らぎ、通行を許す合図を送った。
「……通れ」
藍峯は軽く頭を下げ、門をくぐった。背後で再び兵の怒号が響き、誰かが荷を改められている。
だが、もう振り返らなかった。
――こうして藍峯は魏支国へ足を踏み入れた。
広大な街道は王都へと続いている。両脇には荒れた田畑が広がり、行き交う農夫の顔には疲弊が刻まれていた。
藍峯はその光景を見やりながら、心の内で呟く。
「王都に辿り着けば、必ず病の源に近づける……」
彼の足取りは迷いなく、魏支国の心臓部へと向かっていった。
王都の城門をくぐると、目に飛び込んできたのは高い楼閣と、行き交う商人たちの賑わいだった。市場には絹や香が並び、人々の声は活気に溢れている。
「……これが魏支国の表か」
藍峯は心中でつぶやきながら、人混みをすり抜けて裏道へと足を向けた。
だが、石畳の通りを一本外れた途端、光景は一変する。
薄暗い路地には、痩せ細った子供たちが壁にもたれ、虚ろな目で空を見上げていた。片隅では老人がうずくまり、息も絶え絶えに呻いている。
藍峯の胸に重いものが落ちる。
「……これが、この国の裏か」
彼は袋を開き、烈陽で手に入れた薬草の束を取り出した。子供の傍らにしゃがみ込み、手のひらに小さく刻んだ乾燥草を乗せる。
「口に含み、水で流せ。喉の熱が和らぐ」
子供は怯えたように彼を見上げたが、やがて震える手で草を受け取り、口へと運んだ。
次に藍峯は老人へ近づき、袋から別の薬を差し出した。
「これは腹を整える。少しは力が戻るはずだ」
老人は涙を滲ませ、かすれた声で礼を呟いた。
藍峯は何も答えず、ただ立ち上がり、路地の奥へと歩みを進める。
賑わいの表に隠された飢えと病――この国の王都は、まるで仮面を被った怪物のようだった。
藍峯の目に、一層鋭い光が宿る。
「……魏支国よ。お前の闇を暴かせてもらう」
王都の裏通りを歩く藍峯は、立ち並ぶ建物の影に目を走らせていた。
どこを見ても、痩せた子供や老人がうずくまり、食を求めてかすれた声を上げる。表通りの賑わいとは正反対の荒廃に、彼の胸は重くなる。
「……この国は、見せかけだけの繁栄か」
その時、不意に背後から擦れた声がかかった。
「おや……旅の客人、道に迷ったか? いや、それとも“別の物”を探してるのかね」
振り返ると、痩せぎすの男が立っていた。片目に布を巻き、口元には不気味な笑みを浮かべている。
「この辺りじゃ、よそ者はすぐに目立つ。あんたのように目つきが鋭いとなおさらだ。……どうだ、ほんの少し銀貨を恵んでくれりゃ、この国の裏事情を聞かせてやるが?」
藍峯は無言で懐から路銀を数枚取り出し、男の掌に落とした。
「……話せ」
男は満足げに銀貨を弄びながら、声を潜める。
「魏支国で流行ってる“病”のことを知りたいんだろう? 表の連中は皆、知らぬふりをしているが……裏じゃ誰もが噂してるさ」
「噂、だと?」
藍峯の眼差しが鋭く細められる。
男は銀貨を弄びながら、声を潜めて笑った。
「魏支国の“病”はな、どこからともなく湧いたわけじゃねえ。みんな知ってる――“禁苑”から広まってるってな」
藍峯の眉が動く。
「禁苑から……?」
「ああ、王都の北にある高い塀に囲まれた区画だ。昔は皇族の庭園だったが、今は誰も近づかねえ。衛兵でさえ恐れて足を踏み入れない。だが夜になると、煙が立ち、呻き声が漏れる。囚人や流れ者が中に運ばれるのを見た奴もいるが……戻った者は一人もいない」
藍峯は深く黙考したのち、低く呟いた。
「つまり、病の源はそこにあるというわけか」
男は肩をすくめ、にやりと笑う。
「俺は何も言っちゃいねえさ。ただ、あんたがもし命知らずなら……北の“禁苑”に足を運んでみるといい。もっとも、戻って来られる保証はねえがな」
藍峯は銀貨を一枚だけ追加で置き、無言で背を向けた。
胸中に宿るのはただ一つ――魏支国の闇を暴く決意だった。
藍峯は王都の裏通りを離れ、さらに北へと歩みを進めていた。
だが、禁苑はすぐそこにあるわけではなかった。北区からさらに山道を越えねばならず、道は荒れ果て、冷たい風が吹きつける。
途中、藍峯は道端に身を寄せる旅人や病人の群れを見かけた。彼らは衣を薄くまとい、乾いた咳を繰り返している。
「……大丈夫か」
藍峯は背から薬草袋を下ろし、手早く煎じ薬を渡す。
人々は弱々しく感謝し、やがてぽつりぽつりと口を開いた。
「北には……禁苑がある」
「山深く、年中吹雪が止まぬ地だ……空気は乾いて……喉を焼く」
「そこには……人ではない、魔が棲むと……皆がそう言う」
藍峯は耳を澄ませ、静かに頷いた。
「魔物、か……」
噂が事実であるかどうかは分からない。だが病に蝕まれた者たちが、口々に同じことを語るというのは、不気味な一致だった。
風が強まり、白い砂塵が巻き上がる。まるで雪のように乾いた粉が藍峯の頬を打った。
彼は目を細め、山道の先を見据える。
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