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第八章:「景嵐とルシア」
第百十二話:「逃れぬ誓い」
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王の怒声が轟いた玉座の間をあとにしたルシアと景嵐は、しばし無言のまま廊下を歩いた。
国王の言葉は鋭く、冷たく、姫の胸を深く刺していた。
「疫病神め」――その言葉が耳にこびりつき、足取りは重くなる。
やがて人目のない回廊に差しかかった時、景嵐が足を止め、低く囁いた。
「……姫様。このままでは危うい。王の御心は疑いに覆われております。いずれ我らは宮廷の重荷とされ、ヴェルリカの口実にすらされましょう」
ルシアは黙って彼を見上げた。
景嵐の瞳は真剣で、戦場に立つ時と同じ覚悟が宿っている。
「……もしも、この国を離れ、烈陽国に亡命すれば……。あそこは夫婦武神が治める国。正義を尊び、理を守る国です。姫様と私が行けば、必ずや匿ってくださるでしょう」
その言葉に、ルシアの瞳が大きく揺れた。
一瞬、その提案に心が傾きかける。けれどすぐに首を振った。
「それはなりません、景嵐様」
彼女の声は静かだが、凛と張り詰めていた。
「父上の不安を解き、潔白を証明しないままでは……私たちだけが安らぎを得ることなど許されません。もし逃げれば、父上はますます疑いを強め、国は混乱し、ヴェルリカの思うつぼとなりましょう」
「……しかし、姫様がこのままここに留まれば――」
景嵐の言葉を、ルシアはそっと遮る。
「大丈夫です。私は逃げません。たとえ誰に疎まれようとも、真実を証し立てます。それが、この国の姫に生まれた私の務めです」
その表情には涙が滲んでいた。だが、決して崩れはしなかった。
景嵐は沈黙し、やがて深く頭を垂れる。
「……承知しました。ならば私も、この命を懸けて姫様の御心に従いましょう」
二人の影は月灯りの差す石畳に寄り添い、細く、しかし確かに結ばれていた。
ルシアと景嵐は、誰もいない書庫の片隅に身を寄せていた。
古びた蝋燭の灯りが揺れ、積み上げられた巻物が影を落とす。
「……姫様。先日、国王陛下に盛られた毒のことですが」
景嵐が声を潜める。
「アルテリスではすでに禁じられている染料に含まれる毒。それをヴルリカ宮廷に持ち込める者が誰なのか……突き止めねばなりません」
ルシアは静かに頷いた。
「確かに……その毒の存在を知るには、アルテリスの風習に通じていなければなりません」
ふと、景嵐の脳裏に戦場で聞いた兵士たちの噂がよぎる。
――第二王子ファルトの側近に、王宮の衣服を管理する者がいる。その仕立て屋が出す染め物師は、セリオアの出身だと。
「……染め物師」
景嵐の瞳が鋭く光った。
ルシアは小さく息を呑む。
「セリオア……アルテリスの沿岸の町ですね。確かに、そこなら禁じられた染料を扱っていた過去があってもおかしくはありません」
「ええ。あの毒を知り、手に入れられる者は限られている。あの染め物師を追えば……必ず真実に辿り着くはずです」
二人は視線を交わした。
そこに迷いはなかった。
ルシアは裳裾を握りしめ、震える心を抑え込むように言う。
「……参りましょう、景嵐様。父上に潔白を示すために」
景嵐は深く頭を垂れ、剣に手を添える。
「御身を必ずお守りいたします。たとえヴェルリカが我らを敵に回そうとも」
夜風が書庫の窓を叩いた。
二人の決意は密かに交わされ、闇の中で動き始めた――染め物師の影を追うために。
王宮に広がる冷たい視線を避けるように、ルシアと景嵐はひっそりと動いていた。
だが、姫と護衛が表立って調べれば、すぐにファルトやその取り巻きの目に留まる。
「……景嵐様。私たちの力だけでは限界があります」
ルシアは小声で言い、傍らに控える侍女たちを振り返った。
幼い頃から仕えてきた者はおらず、皆ヴェルリカの侍女である。だが、彼女たちは異国の姫を慕い、決して見捨てようとはしなかった。
「姫様のためなら、私どもも働きます」
年若い侍女が、震えながらもきっぱりと頭を下げる。
その姿に、ルシアの胸が温かくなった。
「ありがとう……。では、城下の仕立て屋に出入りする染め物師を探してください。セリオアの言葉を話す者がいるはずです」
数日後――。
夜、薄暗い部屋に集まった侍女たちは、街で得た情報を口々に告げた。
「港近くの染物工房に、確かにセリオア出身の者が働いているそうです」
「ですが……その者は最近姿を見せていないと。噂では、王宮の誰かに呼び出されてから行方が分からなくなったとか」
「呼び出された……?」
景嵐の表情が険しくなる。
「それは誰に?」と問いただすと、侍女は震えながらも答えた。
「……第二王子ファルト様の側近と、町の者たちは言っておりました」
ルシアは唇を噛んだ。
「やはり……」
景嵐は静かに頷き、剣の柄に手を添える。
「証拠を掴ませぬために、口を封じられた可能性が高い。ですが、工房やその周囲にはまだ痕跡が残っているかもしれません」
ルシアは迷いなく言った。
「では、夜明けと共に城下へ参りましょう。染め物師の影を、必ず見つけ出さねばなりません」
こうして姫と景嵐、そして数名の忠実な侍女たちは、ひそやかな探索の一歩を踏み出す。
城下町の闇に潜む陰謀の糸口を掴むために――。
国王の言葉は鋭く、冷たく、姫の胸を深く刺していた。
「疫病神め」――その言葉が耳にこびりつき、足取りは重くなる。
やがて人目のない回廊に差しかかった時、景嵐が足を止め、低く囁いた。
「……姫様。このままでは危うい。王の御心は疑いに覆われております。いずれ我らは宮廷の重荷とされ、ヴェルリカの口実にすらされましょう」
ルシアは黙って彼を見上げた。
景嵐の瞳は真剣で、戦場に立つ時と同じ覚悟が宿っている。
「……もしも、この国を離れ、烈陽国に亡命すれば……。あそこは夫婦武神が治める国。正義を尊び、理を守る国です。姫様と私が行けば、必ずや匿ってくださるでしょう」
その言葉に、ルシアの瞳が大きく揺れた。
一瞬、その提案に心が傾きかける。けれどすぐに首を振った。
「それはなりません、景嵐様」
彼女の声は静かだが、凛と張り詰めていた。
「父上の不安を解き、潔白を証明しないままでは……私たちだけが安らぎを得ることなど許されません。もし逃げれば、父上はますます疑いを強め、国は混乱し、ヴェルリカの思うつぼとなりましょう」
「……しかし、姫様がこのままここに留まれば――」
景嵐の言葉を、ルシアはそっと遮る。
「大丈夫です。私は逃げません。たとえ誰に疎まれようとも、真実を証し立てます。それが、この国の姫に生まれた私の務めです」
その表情には涙が滲んでいた。だが、決して崩れはしなかった。
景嵐は沈黙し、やがて深く頭を垂れる。
「……承知しました。ならば私も、この命を懸けて姫様の御心に従いましょう」
二人の影は月灯りの差す石畳に寄り添い、細く、しかし確かに結ばれていた。
ルシアと景嵐は、誰もいない書庫の片隅に身を寄せていた。
古びた蝋燭の灯りが揺れ、積み上げられた巻物が影を落とす。
「……姫様。先日、国王陛下に盛られた毒のことですが」
景嵐が声を潜める。
「アルテリスではすでに禁じられている染料に含まれる毒。それをヴルリカ宮廷に持ち込める者が誰なのか……突き止めねばなりません」
ルシアは静かに頷いた。
「確かに……その毒の存在を知るには、アルテリスの風習に通じていなければなりません」
ふと、景嵐の脳裏に戦場で聞いた兵士たちの噂がよぎる。
――第二王子ファルトの側近に、王宮の衣服を管理する者がいる。その仕立て屋が出す染め物師は、セリオアの出身だと。
「……染め物師」
景嵐の瞳が鋭く光った。
ルシアは小さく息を呑む。
「セリオア……アルテリスの沿岸の町ですね。確かに、そこなら禁じられた染料を扱っていた過去があってもおかしくはありません」
「ええ。あの毒を知り、手に入れられる者は限られている。あの染め物師を追えば……必ず真実に辿り着くはずです」
二人は視線を交わした。
そこに迷いはなかった。
ルシアは裳裾を握りしめ、震える心を抑え込むように言う。
「……参りましょう、景嵐様。父上に潔白を示すために」
景嵐は深く頭を垂れ、剣に手を添える。
「御身を必ずお守りいたします。たとえヴェルリカが我らを敵に回そうとも」
夜風が書庫の窓を叩いた。
二人の決意は密かに交わされ、闇の中で動き始めた――染め物師の影を追うために。
王宮に広がる冷たい視線を避けるように、ルシアと景嵐はひっそりと動いていた。
だが、姫と護衛が表立って調べれば、すぐにファルトやその取り巻きの目に留まる。
「……景嵐様。私たちの力だけでは限界があります」
ルシアは小声で言い、傍らに控える侍女たちを振り返った。
幼い頃から仕えてきた者はおらず、皆ヴェルリカの侍女である。だが、彼女たちは異国の姫を慕い、決して見捨てようとはしなかった。
「姫様のためなら、私どもも働きます」
年若い侍女が、震えながらもきっぱりと頭を下げる。
その姿に、ルシアの胸が温かくなった。
「ありがとう……。では、城下の仕立て屋に出入りする染め物師を探してください。セリオアの言葉を話す者がいるはずです」
数日後――。
夜、薄暗い部屋に集まった侍女たちは、街で得た情報を口々に告げた。
「港近くの染物工房に、確かにセリオア出身の者が働いているそうです」
「ですが……その者は最近姿を見せていないと。噂では、王宮の誰かに呼び出されてから行方が分からなくなったとか」
「呼び出された……?」
景嵐の表情が険しくなる。
「それは誰に?」と問いただすと、侍女は震えながらも答えた。
「……第二王子ファルト様の側近と、町の者たちは言っておりました」
ルシアは唇を噛んだ。
「やはり……」
景嵐は静かに頷き、剣の柄に手を添える。
「証拠を掴ませぬために、口を封じられた可能性が高い。ですが、工房やその周囲にはまだ痕跡が残っているかもしれません」
ルシアは迷いなく言った。
「では、夜明けと共に城下へ参りましょう。染め物師の影を、必ず見つけ出さねばなりません」
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