『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第九章:「衰退と再生の章」

第百二十二話:「少年の教育」

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ドレイヴァの王城、奥まった離宮にその少年は匿われていた。
母ノミは身を潜めるように暮らしていたが、やがて子は城の手に引き取られ、育成の名目で王宮に迎えられることとなった。

「今日からはこの殿舎が、お前の学び舎だ」
少年の小さな手を引いたのは、老練の学官であった。

幼い目には、ただ広く眩しい世界が映るばかりだった。

だが、その学びの場は純粋な教育の場ではなかった。
読み書きや計算の裏で、彼に教え込まれたのは歴史であり――その歴史は、常に「ヴェルリカとアルテリスに虐げられたドレイヴァの正義」を強調するものだった。

「そなたの父は、ヴェルリカの王子ファルト。だが、父は短慮であり、真の王にはなれぬ器であった」
「そなたこそ、その血を継ぐ者。いつか“新たな国”を興し、ドレイヴァの盟友となるのだ」

幼子には意味のすべてを理解できない。
ただ「お前は選ばれし者だ」という言葉が、何度も繰り返され、心に刻まれていった。

時が流れ、少年は剣を手に取ることを命じられる。
小さな体には重すぎる木剣が、何度も地に落ちる。
それでも師は容赦なく叱咤した。

「お前は王の血を引くのだ。弱きままではならぬ!」

母ノミは遠くからその姿を見守るしかなかった。
彼女の胸にはただ一つの願い――「せめて、この子が人として幸せに生きてほしい」という祈りがあった。

だが、少年の運命はすでに大きな力によって形作られつつあった。
彼の小さな心に、ドレイヴァの思想と“使命”が少しずつ植え付けられていく。

そして密かに囁かれるのは――
「この子こそ、未来の“ヴェルテリス王”となるべき存在だ」という言葉であった。

薄暗い館に、かすかな蝋燭の灯が揺れていた。石造りの壁は湿り気を帯び、窓は外の光をほとんど通さない。ここは王都の外れにある古びた離れで、元来ならば誰も寄りつくことのない場所だった。

その館に、カイリは住まわされていた。

「机に向かえ、少年。」
鋭い声とともに、重臣のひとり――灰色の外套を纏ったリュザンが帳面を机の上に置く。そこにはドレイヴァの言葉で書かれた文字列が並んでいた。

「これからは我らの言葉を覚えろ。剣の扱いも、礼法もだ。おまえには“居場所”を与えてやろう。」

リュザンの口元には冷たい笑みが浮かんでいた。

カイリはまだ十にも満たぬ年頃で、目を瞬かせながらも言われるままに木製の椅子に腰かける。その小さな手は筆を握るのに不慣れで、線は震え、文字は歪んだ。

だが、それを見ていた別の重臣――瘦せぎすのサルヴォは、にやりと笑った。
「よい。まだ拙くとも、覚えは早い。王太子殿下に比べれば……素直さだけは勝っているかもしれぬ。」

館の外れに響く夜風の音を背に、男たちは少年の背を見下ろしていた。

本来、王と太子は王宮の豪奢な広間で暮らしている。だがカイリは、粗末なこの館で教育を受けることを命じられた。それは王の意向ではなく、重臣たちの密かな策であった。

――この少年を育て、いずれ何かの“器”とする。

彼らの胸には、そんな思惑がひそかに燃え続けていた。

国境の朝はいつも穏やかだった。だがその日の午前、ドレイヴァ側の監視哨から緊急の伝令が走ったという知らせが、ヴェルテリス国防本部にもたらされた。内容は短く、そして衝撃的だった。

「ヴェルテリス軍の演習で流れ矢が飛来し、ドレイヴァの民が負傷した。即刻謝罪と賠償を求む」

伝えられた現場は、両国の監視線から見て明確に中立地帯の遥か向こう――おおよそ三里(約12キロ)にも及ぶ開けた平原で、そこから矢が飛んでくることなど物理的に有り得ない距離であった。ヴェルテリスの射手が通常使用する弓矢の有効射程は数百歩に過ぎない。だがドレイヴァは、傷ついたという者たちの写真と血染めの布片を同時に配布し、事情を詰めかけた。

情報は瞬く間に両国に広まる。ドレイヴァの伝令局は感情を煽る文言を添え、近隣諸国にも「蛮行の証拠」として写真を流布した。村人の悲痛な表情、床に伏せる老人、血を拭う幼子の手——視覚情報は即座に世論を揺らす。

烈陽から派遣されていた三武官は、まず冷静な対処を求めた。炎迅の武官は短く言った。
「まずは事実確認を。証言と現場検分を受け入れよ。感情に走れば相手の術中だ。」

水鏡の武官はより厳格に、安全距離の数理と射程の検証を要請した。
「地形と風向、弓の性能を図り直せば、この『流れ矢説』が物理的に破綻していることは明白だ。」

剛嶺の武官は防御の強化を命じ、国境の沿岸監視と哨戒を即座に増強させた。民衆の不安が広がる前に、秩序を保つことが急務であった。

一方で壮舷は議場へ赴き、法と手順の観点から静かに告げた。
「証拠を持って来い、と。写真や布片は確かに情に響く。だが我らは法治の国である。現場検分、弾道学的検証、独立した第三者の立会い——これらを求め、我らの側からも調査団を派遣する。拙速な報復は避けねばならぬ。」

だがドレイヴァの声明は強硬であった。王宮の高堂に立つ老宰相は国民演説を行い、怒りを剥き出しにした。
「隣国の軍が、我が民を平然と狙ったのである! 我らは黙して許すわけにはいかぬ!」
言葉は民衆の憎悪に油を注ぎ、幾つもの街で抗議の声が高まった。王は「迅速なる処置」を命じ、辺境の部隊に出動準備を命じる。

ヴェルテリス側では、壮舷がさらに踏み込んだ対応を提案する。
「我らからの独自検証と、第三国(烈陽を含む)の中立的観察者の同伴を要求する。もしドレイヴァがそれを拒むなら、その時点で真意が明らかになるだろう。」

藍峯は静かに、だが強く付け加えた。
「宣伝戦は始まっている。だが我らも情報戦で応じねばならぬ。被害者の写真の出自、血の検査、布片の織りと印章――偽造の可能性を早急に突き止め、公に示すのだ。」

だが時間はヴェルテリスに味方しなかった。ドレイヴァは予め用意した遺族の証言者を前面に出し、連続した犠牲者の物語を紡ぎ上げた。彼らは演説台で涙を流し、群衆は怒号を上げた。隣国を糾弾する声が日に日に増し、国王のもとには「制裁を」との圧力が積み重なっていく。

劇場のように作られた情景の裏で、壮舷と三武官は不穏な真実を察する。矢があの距離を飛ぶ確率が低いこと、現場に残された布片の織り方にドレイヴァ国内の特色があること、そして写真に写る人々の配置が演出臭を帯びていること——三つの小さな矛盾が、いずれ大きな破綻へと繋がるだろう。

だが破綻が露呈する前に、政治は既に動き始めていた。国民の怒り、王宮の決断、周辺諸国の圧力──すべてが一つの綱のように結ばれ、やがては刃を向ける口実となる。

その夜、ヴェルテリスの議場の灯は深く揺れた。壮舷は静かに窓の外を見やり、つぶやいた。
「真実は我らが守る。だが真実が示されるまでに失われるものを、誰が償えるだろうか――」

暗雲が、ゆっくりと国を覆い始めていた。
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