『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第十章:「孤立する正義」

第百三十五話:「謎の女ジプ」

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蘭舜はドレイヴァの暗がりで潜入任務を続けていた。
街の裏通り、薄汚れた宿、そして市場の人混み――目当ての「ビス」を追うはずが、いつも決定的な瞬間で影を見失う。まるで霧の中を手探りするかのように、彼女は指先からすり抜けていった。

そんなある日の夕刻。
蘭舜が休息のために立ち寄った小さな食堂に、一人の女が現れた。

栗色の髪を緩やかにまとめ、深い蒼の衣を纏った異国風の装い。瞳は柔らかに笑い、気さくな声で隣席の蘭舜に話しかけてきた。

「見かけない顔ね。旅の人かしら?」

蘭舜は警戒しつつも答える。
「……通りすがりだ」

女は軽やかに笑みを浮かべた。
「私はジプ。商家の娘で、この街でしばらく世話になっているの」

「……ジプ?」
蘭舜は女の雰囲気を一瞥する。気品と庶民性が同居した、不思議な存在感。だが、特に怪しい点は見当たらない。

ジプは食卓に運ばれた粗末なスープをすすりながら、何気ない調子で言った。
「この国はいま揺れている。強者のために弱者が犠牲にされている……でも、あなたみたいな瞳をした人なら、きっと放ってはおけないでしょう?」

蘭舜の心がわずかに波立つ。
(……なぜ俺の内を見抜くような言葉を)

しかし次の瞬間、女は屈託なく笑い飛ばした。
「なんてね。ただの旅人に説教じみたことを言うのも変よね」

その飄々とした態度に、蘭舜は言葉を失った。
だが心のどこかで、この女がただの旅人ではないと直感していた。

その名は――ジプ。
蘭舜は知らなかった。目の前の女が、探し続けている「ビス」と同じ人物であることを。
市場の喧騒が溢れる通り。人々が行き交う中、突然、子供の悲鳴が響き渡った。小さな少年が、無邪気に駆け出したその先には、馬車の車輪が迫っている。誰もが目を見開き、足を止めた。

だが、瞬時にその場に割り込んだ者がいた。黒いフードを深く被り、顔を半ば隠した女性――ジプ。しなやかな身のこなしで走り寄り、危うく轢かれる寸前の少年を抱き上げ、まるで重力を無視するかのように軽やかに地面に降ろす。少年の母親が慌てて駆け寄ると、ジプは静かに一歩下がり、微笑みを浮かべた。

「大丈夫、もう安全です」

その声は穏やかで、けれど確かな力を帯びていた。蘭舜は、その一連の動作を息を呑んで見つめていた。動きのひとつひとつに武の才覚が感じられる――普通の人間ではない。いや、ただ者ではない。

「……名をお聞きしても?」
蘭舜が声をかけると、ジプは一瞬、視線を上げ、薄く笑みを浮かべた。

「名乗るほどの物ではありませんから」

それだけ告げると、ジプはさっと人ごみに紛れ、まるで最初からそこにいなかったかのように消えていった。蘭舜はしばし立ち尽くし、その背中を見送った。

彼女の振る舞いには計り知れない余裕と、自らの正体を隠す意志が感じられる。けれど、その瞬間、蘭舜の胸に熱い興味が芽生えた。
「……この人物、ただ者ではない」

市場の雑踏の中で消えたジプ。その存在感は、確実に蘭舜の心に刻まれていた。

市場を抜け、狭い路地へと入ったジプ。人々の視線を巧みに避け、歩みは軽やかだが、背後には常に警戒心が滲む。だが、その足取りの端々に、熟練の戦士としての緊張感が漂っていた。

一方、蘭舜は少し距離を置きつつも、目を離さなかった。市場での一瞬の光景だけで、この女性――いや、この人物には尋常ならざる力と技量があることを見抜いた。腕の使い方、足運び、目線の動き。すべてが無駄なく計算され、常に次の動きを想定している。

「……気を抜いてはいないな」
蘭舜は小さく呟く。ジプはその存在を意識しているかのように、ふと立ち止まり、振り返る。しかし、その表情に正体を示すようなものはなく、ただ柔らかな微笑みを浮かべるのみだ。

その瞬間、路地の角で小さな騒ぎが起こる。ジプは瞬時に反応し、素早く動き、何事もなかったかのように人々をかき分けて通過する。その動きの鮮やかさに、蘭舜の心臓はわずかに高鳴った。

「……この人物、ただの市井の者ではない」
ジプは背後をちらりと確認し、すぐに目立たぬ軒先に身を隠す。そこに立つ姿は、先ほど市場で見せた穏やかさとは対照的に、戦士の気配を纏っていた。

蘭舜は息を整え、心の中で決意を固める。
「必ずこの人物の正体を見極める……そして必要ならば力を貸す時を待とう」

ジプは路地の奥へと消え、その影は冷静かつ計算された足取りで、再び街の中に溶け込む。だが、その行動の端々に、民衆を守る意志が潜んでいることを、蘭舜は確かに感じ取っていた。

こうして、二人の視線はすれ違いながらも、互いの存在を意識したまま、静かに物語を紡ぎ始める。

ジプが路地を抜け、静かな広場に差し掛かったその時、背後から低い声が響いた。

「そこの君――少し話を聞かせてもらえるか?」

振り返ると、そこには蘭舜の姿があった。目は鋭く、警戒心を隠さない。ジプは一瞬眉をひそめるが、軽く微笑み、静かに立ち止まる。

「ええ、何でしょう?」

声には自然な落ち着きがあり、何事もないように振る舞う。蘭舜の目は、その微妙な間や仕草から違和感を察し――心の奥で、あの冷徹なスナイパー、ビスの影がよぎる。

「……まさか、君はビスではないのか?」
蘭舜の問いかけは直接的だが、声は抑えられ、周囲には聞こえないようにしている。

ジプは軽く肩をすくめ、首を振る。言葉では答えず、あくまで別人として振る舞う。だが、その瞳の奥には、確かな計算と警戒心が宿っていた。

その様子を、藍峯は影から見守っていた。経験が告げる――この人物がビスであることに疑いの余地はない。しかし藍峯は敢えて口にせず、静かに知らぬふりをしてやり過ごす。

「……なら、君の道を行け」
心の中でそう決め、藍峯は人混みに紛れて距離を保った。

ジプは広場を去るその背中に、僅かに気配を意識していた。互いの正体を知りつつも、敢えて触れずに交わるその距離感が、今後の二人の微妙な駆け引きの始まりとなった。
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