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第四章
84. 気高く、高潔な命 #
しおりを挟む近づく足音に、レオンスは目を覚ました。
ザッザッ、と土と砂利が混じる地を踏みしめる音に体を強張らせる。目を開けて周囲を確認すると、意識が落ちる前とまったく同じ場所に倒れていた。ただし、周囲に人はいない。共に行動していたはずの兵士は無論、レオンスに暴力を振るったエドゥアールの部下もいなかった。
違うことと言えば、体が熱かった。完全にヒートを起こしている。
起き抜けだった頭は急速に働き始めていたが、それと裏腹にして体はうまく動かなかった。
(……やられたっ)
悪い予想というのは当たるものらしい。
エドゥアール直属の部下と共に、この岩場へと来たレオンスだったが、そこで羽交い絞めにされ、太腿に何かを刺された。今の自分の体を見るに、そのときに発情促進剤を打たれたのは明らかだった。
発情促進剤は、いわば抑制剤とはまったく逆の代物だ。
あまり一般的に使われるものではないが、何らかの理由で発情がうまく訪れずに心身に不調をきたしたオメガに投与される薬の一種だ。医師の診断を受けないと処方されないもので、レオンスは今まで使ったことがない。なので確かなことはいえないが、レオンスは発情した状態にある。そして、意識が落ちる前に太腿に何か刺されたという記憶がある。それが何よりの証拠だろう。
発情促進剤はその名のとおり、発情を促す薬だ。その薬を服用すると、強制的にヒートを起こすことができる。
打たれてから意識をすぐ落としてしまったため、どのくらいの時間で効き目が出てきたかはわからない。しかし空を見れば、ちょうど陽が沈もうとしているところだった。この岩場へやってきたのは昼過ぎだったから、三時間から四時間は経っているだろう。
なぜレオンスが発情促進剤を打たれて、この場に置き去りにされているのか。
そんなこと、深く考えずともわかろうというものだ。レオンスは、皇国軍の兵を釣るための活きのいい餌——アルファやベータを無作為に誘引する囮として強制的にヒートを起こされ、この場に放置されたのだ。
おそらく、この場がギリギリ確認できる場所でエドゥアールの部下が待機しているのだろう。息をひそめ、レオンスの様子を見ているに違いない。
(ひとまず、どこかに身を隠して、緊急薬を打たないと……)
発情促進剤と、緊急時用の発情抑制剤だとどちらが効果を発揮するのか、レオンスは知らない。副作用も怖ければ、二つの薬を同時に打つのは危険も感じる。けれど、この状態でいるのはまずい。
頭を殴られた影響か、いまだに目が眩む。
しかし足音が近づいてきており、発情状態のレオンスがここに転がっているのは自殺行為に等しい。近づいてくるのが誰かはわからない。オメガならまだいいが、ここは自国と敵国との国境付近——さらに言えば、敵国の領内である。味方か敵かすらわからないが、どちらであっても高確率でアルファかベータだろう。
レオンスは今朝、抑制剤を飲んでいないのだ。いつもエドゥアールの前で新薬を飲む姿を監視されていたオメガ兵だったが、今朝に限ってエドゥアールの指示により「服用するな」と命じられた。そんな中での発情促進剤の投与である。
つまり、抑制剤無しでヒートを起こしている状態と、何ら変わりがなかった。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ——。
どこか身を隠す場所は……と、ぼやける視界で必死に周りを見渡す。大小の岩が点在するここでは、身を隠すのはそう難しいことではない。十全に動けるのであれば、だが。
レオンスはヒートを起こして倦怠感に襲われている上に、意識を失う前に腹や頭を殴られているため、体は思うように動いてくれなかった。ならば、せめて抑制剤を……と左胸のポケットを探っているうちに、複数人の男の声がレオンスの耳に届いた。
「……おい、なんか匂わないか」
「ん? 薬品の匂いじゃないか?」
「いや、それよりももっとイイ感じの……」
ジャリ——。
無意識に体が震える。
小石を踏みしめた音が聞こえたところで、岩場の陰から見知らぬ男たちが姿を現した。
「……っ!」
レオンスは目を見開いた。
姿を現した男たちは、皇国の軍服を身に着けていたのだ。確認できるだけで十数人はいる。遠くからも声がするので、実際にはもっと多くの人間が近くにいるだろう。
「チッ……お前、帝国側の兵士か。しかもオメガとは……っ」
「匂いの元は、そいつか。……ははっ、まさか帝国はそこまでするとはな」
「すぐにマスクをしろ! 抗えなさそうなやつは退け!」
匂いがわかるということは、皇国兵はアルファである可能性が高い。
いずれも見目が良く、体格もしっかりしているようだった。レオンスは咄嗟に立ち上がって逃げようとしたが、足がもつれて転びそうになる。そこへ皇国兵の腕が伸びてきた。
「——ッ!」
「おっと、逃がさないぞ。お前もヒートも起こしてるんじゃ、そうは動けないだろ」
腕を掴んだ男は、眼光鋭くレオンスを見下ろした。
鼻と口を革製の防護具で覆っているため面差しのすべてを見ることはできないが、一目で秀麗な容姿を持っている人物だとわかった。掴んでいる腕の太さや体格からしても、アルファなのは間違いない。しかし、彼からはアルファのフェロモンを感じることはできなかった。
「帝国のやつら、何かきな臭い動きをし始めたと思ったら、案の定コレか。本当にアルファ向けの抑制剤が役に立つとはな。にしても……この細身じゃ徴兵された民間人ってとこだろ。はぁ……帝国は酷ぇことをしやがる。ひとまず拘束して、連れ帰ろう」
「御意! ほら、こっちに来い」
「あ……」
最初に手を掴んだ皇国兵とは別の、これまたアルファ然とした兵にぐいっと腕を掴まれた。「来い」と引っ張られたレオンスだったが、皇国兵に見つかったことや、捕まってしまったことよりも、別のことに衝撃を受けていた。
(俺を襲わないのか……?)
皇国兵は、ヒートを起こしているレオンスを襲うでもなく、ただ革製の手枷を嵌めるだけだ。何人かは苦悶の表情を浮かべているが、そういう者はレオンスから距離を取り、みだりに触れないようにしている様子だった。
発情しているオメガを前に、はたして、こんなに自制心が働くものなのだろうか……。
「……助かった、のか」
「敵国に捕まるってのがアンタにとって助かるってことなら、そうかもな」
思わず呟いた言葉に、一番最初にレオンスの腕を掴んだ皇国兵が怪訝な顔をしながら返事をした。気安い雰囲気ではない。敵はどこまでも敵であり、本来であれば目が合うだけで殺す殺される関係である。そのはずなのに、皇国兵は凍てつく雰囲気はあれど、すぐにでもレオンスの命を奪おうとする鋭利な空気を発していなかった。
今、自分はたしかに敵国である皇国の兵士に捕らえられたのだ。
それなのに、斬殺される恐怖よりも、命を取られずに拘束されていることへの安堵感が勝っていた。
可能であれば自分で歩け、と促されて手枷から伸びる鎖をくいっと引かれた。立て、ということだ。ヒートを起こしている状態で自力で立ち上がるのは、なかなかにして難儀しそうだが、なんとか立ち上がらければ。そう思って膝に力を入れたときだった。
ドンッ! と大きな音が響いた。
「な、なに……? うわ、っ‼︎」
「なんだ⁉︎ 何が起きたっ!」
なんだろうと思った瞬間には、背後から衝撃波が加わり、立ち上がりかけていたレオンスは強風に煽られ再び地に転がった。舞い上がる土埃で目が眩んで、何も見えない。それでも目を細めて、周囲へと目を凝らしていると……「放てーっ!」という怒声が聞こえた。そして、その声を皮切りに、天から火を纏った矢が降り注いできた。
飛んできた火矢は、レオンスを囲んでいた皇国兵の首を射抜いた。ボウッと炎が上がり、端正な顔をあっという間に焼き尽くされていく。その隣の兵は腕に火弓を受け、やはり同様に体に炎を纏っていく。足もとから炎に包まれる者、背中から火柱を上げる者、何本もの火矢を受けて全身を炎で焼かれていく者——レオンスを見つけ、捕虜にすると言っていた敵兵が、次々と燃え上がっていった。
「うわぁぁ、熱い! 熱いっ‼︎」
「くそっ! 燃えてるッ! 消えろっ消えろっ消えろぉぉぉぉっ‼︎」
「ぐ、ぅっ……ひぃ、ぃぃ……っ‼︎」
レオンスは、目の前で燃える人影をただ見つめることしかできなかった。
呆然と立ち尽くしていると、レオンスの腕を掴んでいたアルファが「退けっ!」と叫んでいる。遠くには火矢から逃れ、その場を急いで立ち去ろうしたり、火をなんとか消そうと軍服を脱ぎ捨てながら駆けていく皇国兵がいた。
(……いったい、何が……)
ギリッと強く掴まれた腕の痛みで我に返った瞬間——。
「いったん退————が、はッ!」
レオンスを捕えていた皇国のアルファが、背中から血を噴き出して倒れた。
その次には、また別の敵が腹部から剣を生やして、そのまま地面へと崩れ落ちていく。
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