代償

零壱

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脈動

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「は…、…」

 吸い上げるたび、心臓が脈打つ。
 甘い。
 それは度数の高い酒の匂いに似た、思考を蕩けさせる味だった。
 俺は一体何をしているんだろう。
 何を飲んでいるんだろう。
 わからない。
 何もわからないまま目の前の背と後頭部を抱えて、ごくり、ごくりと喉を鳴らす。

「ぁ、き……っ」

 兄貴が俺を呼ぶ。
 舌に触れる味よりももっとずっと甘ったるい声に、酔っ払った頭をゆっくりと持ち上げた。

「ちあき」
「あ」
「俺の千秋ちあき

 真っ青な顔色で兄貴が微笑わらう。
 俺の唇を震える指でなぞりながら、身体を預けてきた。どこか具合いが悪いのかなんて考えかけて、真っ白なシャツを染めているものに気がついた。
 赤い。
 兄貴の襟周り、首筋。
 その白い肌に不自然に空いた、ふたつの穴から滴るもの。
 咽せ返るほどの匂いが部屋を満たし、頭を揺らす。
 それはなんだ?

「スーツ、よく似合ってる。奮発して良かった」

 スーツ?
 スーツ、と繰り返して、兄貴の腰を抱いたまま、自分の服を見下ろす。
 見覚えがあった。
 一昨年、兄貴となんとなく眺めていた雑誌が特集していた、高級スーツ。

「少し汚れたから、クリーニングに出さないとな」

 気怠げに息を吐いた兄貴の唇が、耳に触れる。はあ、と零れた熱に、擦り寄る体温に、ずくりと下腹が疼いた。

「千秋」
「あに、」
美味うまかった?」

 何。

「俺の血は、美味うまかったか?」

 目を見開く。
 背筋を迫り上がったのは、身が竦むような怖気だった。
 冗談を、とは笑えなかった。兄貴の首周りだけでなく、俺の真新しいスーツも赤く汚れていたからだ。
 ここはどこだ。
 呼吸が乱れる。
 パイプ椅子が並んだ、真っ白な部屋だ。俺達しかいない。知らない場所だけれど、見覚えがある。去年の法事で訪れた部屋にそっくりだ。
 何かがおかしい。
 徐々にクリアになっていく思考が警鐘を鳴らす。甘い甘い匂いは相変わらず兄貴からするけれど、その隙間、微かに漂うこれは、日本人なら馴染み深い線香の。

「千秋」

 背後を振り返る。
 蓋の開いた棺。
 その向こう、白い花で組まれた祭壇の中央には、馬鹿みたいに笑っている俺の写真があった。

「千秋、兄ちゃんを見ろ」
「あ、」

 動きの止まった顔を両手に包まれて、強引に視線が重なる。
 顔色が悪い。
 心配だ。
 兄貴は偏食の痩せ型だ。
 雑然と、砂嵐に塗れた記憶が甦る。
 道場に向かう途中だった。
 練習が終わったら飯でも食べに行こうと思っていた。兄貴に好きそうなカフェを見つけたから。
 歩いていたら看板が落ちてくるのが見えて、目の前には子どもがいて、咄嗟に抱え込んだ。子どもは驚き──ニタリと嗤った。胸糞の悪い笑みだと思ったのまでは覚えている。だけどそれだけだ。そこでぶつりと終わっていた。

「千秋、もうどこにも行くなよ」

 外は危ないから。
 まるで小さい子どもに言い聞かせるように兄貴が笑った。

「……兄貴」
「うん」
「兄貴」
「うん。千秋」

 俺達は周りが引くくらい、仲の良い兄弟だった。
 頭が良くて綺麗で、兄貴に近づきたい奴らは掃いて捨てるほどいたけれど、兄貴は友人付き合いもせずに俺ばかりを構った。両親に呆れられても友人達にブラコンとからかわれても、俺は兄貴が大好きで大切で、俺以外を大事にしない兄貴を守りたかった。
 他でもない、俺が、守りたかったのに。

春人はると

 兄貴の名前を呼び捨てる。

「あぁ……」

 返ってきたのは、恍惚とした吐息。
 何が起こっているのかはわからないままだ。でも、わかることもある。
 片手で目の前の頬を包み、それからまた、惹かれるまま首筋の穴へ唇を寄せる。

「俺がやったんだよな、これ」
「ぁ、」
「痛いよな?ごめん」

 舌先を這わせた。
 痺れに近い快楽が脳を満たす。
 ただの血なのに、兄貴のだから。

「春人、なぁ……」

 兄貴。
 俺の春。
 静まり返った斎場で、棺の前で抱き合った身体を互いに火照らせる。
 この現実離れした状況のせいか、それとも、以前から?
 わからない。
 考えたくない。
 いつまでも味わいたくなる衝動を押し殺し、無理やりに唇を離す。目を見たくなった俺は、兄貴の柔らかい栗色の髪を緩く掴んで上向かせた。

「俺、死んだの?」

 俺の胸元──トクトクと音を鳴らす心臓付近に手のひらを添えて、兄貴が狂った瞳で、艶然とわらう。

「大丈夫。今は生きて……っ……!」

 今は。
 それなら俺は、やっぱり死んだのか。

「春人」
「ぁ、あ……!」

 一度死んで、兄貴の血をすする化け物になった。
 他人事のように思いながら、世界中で誰より大切な人の肌に舌を這わせた。







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