ポラリス~導きの天使~

ラグーン黒波

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第五章・死にたがりの【天使】

【第五節・土産】

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 翌朝。昨日の出来事をアダムへ話しながら仮眠室で司祭服に着替えていると、頭を抱えたアポロがローブで包んだ荷物を持って、部屋へ入ってきた。彼の左手にはサリー神官に盗られた財布が握られており、疲れ切った声の挨拶と共に手渡してくれた。

「お、おはようございます。……大変だったようですね」

「結局、夜中の三時まで付き合わされました。……司祭の財布だけは守り通したんで――――うぇえ……あったま痛てぇ……」

「ありがとうございます。……ですが今日は午前中のみで業務を終えてもらっても構いませんよ? もしくは午後から仕事をするとかでも……」

「お気遣い、ありがとうございま……午後から、頑張りますんでぇ――――」

 ――――アポロは言い終える前に横のベッドへ倒れこみ、いびきをかいて寝てしまった。着替え終えたアダムは「やれやれ」と言いながら両脚を持ち上げてベッドへ乗せてやり、彼のローブを布団代わりに掛けてやる。
 昨晩出て行った二人は教会へ戻らず、上司のミーアも「もう知りませんわ」と追いもせず、そのまま地下でアポロが準備していた料理と、アダムが切った西瓜を夕食とし、解散となった。ミーアはアダムや新人とも距離が近くなったようで、サリーの事は終始立腹だったものの、帰る際には嬉し気にこちらへ手を振っていた。
 これから数日間は二人との付き合いも多くなる。全てではないとはいえ、互いに協力できる関係をほぼ確約できたのは大きい。あとはサリーがどのような試練を課してくるか……環境調査の結果にも期待したい。

「数日は気が抜けないな」

 同じことを考えていたのか、アダムが三つ編みを結直しつつ話しかけてきた。

「そうだね。二人とも良い人だけど、ミーアさんは教会へ深くは関われないし、サリーさんは【ルシ】が僕らを試していると言っていた。でもスピカさん達の事や、僕らが行っている取り組みは知らないみたい。本人も詮索しないとは言ってたけど……」

「そうであると期待するしかあるまい。王都勤めの【上級天使】の階級は、決して飾りではない。一部の貴族への諜報活動や現場へ赴き、【火消し】を依頼されることもあると話していた。彼女を味方として丸め込めれば一番だが、もし【ルシ】派を瓦解させようとする派閥へ情報が知れ渡れば……今以上に、お前の理想が遠のく」

「時間は問題じゃないけど……それは困るね。特に王都は想像してたよりずっとごたついてて……うん。この街より、ずっと生き辛い世界なんだと思う。人間絶対主義と言うか……他種族に寛容な治安ではないんじゃないかな。ミーアさんも移り住もうか揺らいでたくらいだし」

「狂王が遺した【奴隷制度】も未だ生き続けている。護衛付きの要人でもなければ、他種族の旅人が王都へ出入りしようだなんて考えもしないだろうさ。特にエルフ族の扱いは……」

「………………」

「……いや、今は今日の業務の事を優先しよう。こいつが午後にまで目を覚ますかも怪しい。最悪、私達で業務を回せるよう考えておいてくれ」

 結終えたアダムは「紅茶を淹れてくる」と部屋を出て調理場へ向かい、入れ替わるようにして教会のローブ姿の新人が入って来た。

「おはようございま――……アポロ先輩、戻って来れたんですね」

「おはようございます。……彼も昨晩、サリーさんに振り回されて大変だったようですし、ゆっくり寝かせてあげてください。アダムが紅茶を淹れてくれるそうなので、それを飲みながら今日の予定を組み立てましょう」

「教会へ来るまでの道中で、サリーさんとミーアさんのお二人を見かけました。えっと……でも、その件で喧嘩していたようで……周囲の通行人も注目してました」

 新人はアポロの靴を脱がし、上半身を持ち上げ頭の下へ枕を差し込もうとしているが、重たくて持ち上がらないのか、彼の肩に手をかけた姿勢で唸っている。ようやくこちらも着替え終わったので、彼女と協力して寝ているアポロの上半身を起こし、枕を敷くことができた。体躯の大きい筋肉質な彼は重く、アダムはよく一人で両足を持ち上げられたなと、身体能力の高さに感心する。

「ありがとうございます。ポラリス司祭、……こ、このままミーアさんと仲良くなっても、問題ないのでしょうか? その……【天使】や教会としても……情報漏洩するのは、避けた方が……」

「……その選択も間違ってはいません。ですがこれはミーアさんの為でもあり、今後の僕達が進めていく活動の重要な足掛かりにもなります。更に気を遣う事が多くなるかもしれませんが、友人として彼女と接してあげてくださると助かります」

「い、いえ……嫌だとか、気を遣うのが大変だとかではなくてっ!! おお、お話が合う彼女と、仲良くなれたのが……嬉しくてぇ……」

 両手をパタパタとさせた後、新人は恥ずかしいのか手帳で顔を隠してしまった。
 そうか。新人に友人と呼べる関係の者が身近にいるという話は、今まで聞いたことが無かった。彼女にとっても初めての友人、か。……数日の短い期間、向こうは仕事の名目があるものの、時間を共有する機会をなるべく設けてやりたい。

「……親しき者が身近にいる事は良い事です。アダムやアポロ、ペントラさんやアレウス氏、森で暮らすスピカさん達。部下である君と過ごす時間も、僕にとっては貴重で充実した一時ですし。……ミーアさんにもいつか伝えられる日が来るかと思いますが、友人と時間を共有するのは君自身の心を豊かにする意味でも、僕は賛成しますよ」

「はいぃ……ありがとうございますぅ……」

 ぺこぺこと頭を下げ、ほっとしたのか背後のベッドへ腰かけようとして、アポロの腹部の上へ座ってしまった。

「ぉがぁっ!?」

「わああああぁっ!? ごっ、ごごごめんなさいっ!? あ、あのあの、わざとじゃ――――あれ?」

「……起きてはいないようです」

 新人を腹部に乗せたまま、アポロは心地良さそうに口を開け眠る。彼の呼吸に合わせて僅かに上下へ動く新人の姿が妙に愉快で、今度の休日は二人をイメージして一枚描くのもいいだろう。

 ……一昨日、ローグメルクに会った際、ティルレットがあまり絵を描かなくなったと話をしていたのが頭をよぎる。【情熱】の湧く対象がたまたま無いだけなのかもしれないが、長い付き合いの彼が違和感を覚える程度には、異様な事態の可能性もある。今週はこちらも予定が入っていて通うには厳しいが、来週なら直接会って話す機会もある。
 今は手元にある仕事へ集中しよう。

***

「――――え? 今なんて言いました?」

「復唱致します。数日程、不肖へ暇を頂きたいと申しました」

 自室のソファへ横になり、ティルレットの膝へ頭を預け、耳掃除をされている最中の切り出しだった。暇、暇、ひま……つまり【休暇】ですよね? 十五年間生きてきて、彼女から休暇の申し出があったのは初めてなんですが。

「休暇を取ること自体は構いませんが……何処か行きたい場所でもあるのですか?」

「【情熱】の赴くまま周辺を巡り、今一度、不肖の在り方を見つめ直しとうございます」

 頭を耳かき棒で固定され、彼女の表情は一切見えない。【箱舟】の一件以降、ローグメルクから彼女の様子が変だとは聞いていましたが、ボクは具体的に何がおかしいかとまでは気付けませんでした。強いて言えば、突発的に絵を描くことが少なくなったくらいでしょうか。うーん……ティルレットの感性は独特ですし、ボクやローグメルクには理解できない領域のお話なんですかねぇ。

「何か、個人的に納得しかねることでも最近ありました?」

「不肖にも分かりませぬ。然し、【情熱】を燻る何かが消えかけ、揺らいでいるのを感じております」

「……【箱舟】での出来事は、事故みたいなものです。ボクらが想像するより、神は理不尽で強かった。全力を出して正面からぶつかっても勝てないことは理解できましたし、単純な【個】の限界も知れました。誰かが崩れると、そこが伝播して総崩れになる事も」

「申し訳ございません。不肖の未熟さ故。お嬢様、頭をこちらへ」

「ん」

 反対側へ寝返り、ティルレットの方へ顔を向ける。日干しした枕のようなお日様の匂いと、メイド服越しに伝わるほど良いぽかぽかとした彼女の体温。干し草の上でお昼寝をしているようで、眠たくなってきますね。

「……お兄さんが潰されて、ペントラさんがやられて、あなたとローグメルクが目の前でいなくなった時、頭が真っ白になりました。ああ、終わるってこういう事なんだなって……動けなくなってしまいました」

「………………」

「戦うことは痛くて……怖いです。思い出しただけでも手足が震えます。未だに夢に見ますし、目が覚めたら皆いないんじゃないかと、不安に駆られた時もありました。改めて皆さんの覚悟の凄さと、国を背負った父の偉大さを学べました」

「………………」

「……強くなりたいです。何も失わなくていいくらい。守られてるだけじゃ、きっと駄目なんです。ティルレット、教えてください。どうしたら、あなたのように強くなれますか?」

「不肖、ティルレット。今でこそスピカお嬢様の剣ではございますが、ヴォルガード様に仕えるより前は、各地を放浪する【はぐれ悪魔】でございました」

「へ? そうな――――痛っ!?」

 初めて語られたティルレットの過去に驚き、頭を動かしてしまって変な場所に耳かき棒が当たった。『ゴリっ』て音が脳みそに響いたんですけど、大丈夫ですかね? 鼓膜破れて血とか出てません?

「申し訳ございません。不肖の不手際で、少々力加減を誤ってしまいました。お怪我はございませんが、一度お止めになられますか?」

「い、いいえ。こっちこそすみません。……そのまま続けてください」

「了承。かつてはある契約の為、【冥界】より【契約悪魔】として呼び出されましたが、顕現すると同時に契約者は惨殺。惨殺した者は、更に不肖へ手をかけようといたしましたが、契約者との交戦の際に負った傷が致命傷だったのでありましょう。不肖が手を下すまでもなく、亡くなられました」

「その場合、自分の意思で【冥界】へ帰れるんですか?」

「否。契約不履行では、【冥界】へ戻ること叶わず。不肖は【はぐれ悪魔】として、放浪する日々と相成りました。お恥ずかしながら当時は死が恐ろしく、生に貪欲な身でございましたので、獣畜生や蛮族と何ら変わらない生き方をしておりました」

「なんか……意外です。ワイルドな生き方をするティルレットが想像できません」

「恐縮。様々な種族と剣を交え、時には同じ【はぐれ悪魔】と争うこともございました。然し、今のように景観へ【情熱】を覚える事は一度として無く、冷めた日々が過ぎ行くばかり。当時一城の主であられたヴォルガード様へ挑み、敗北するその日まで、自然と鍛えられたのでございます」

「努力の賜物ですね。そうですかぁ……因みに何年ぐらい旅してたんです?」

「戦争が六度起こりましたので、逆算すると二百年弱でございましょうか。不肖自身、詳細な年月はお答えしかねます」

「マジか」

 仕えるまでの旅路で二百年弱、父に仕えてから今に至るまで何十年。三百歳近いのに老いるどころか更に強く、肉体的に若々しいままなのですか。【悪魔】って、年を取らないんですかね?

「幻滅なされましたか?」

「まさか。どんな形であれ、今はボクの従者であり、家族である事実は変わりませんし。……やっぱり、ティルレットはカッコいいです。あなたの過去が聞けて嬉しかったですよ」

「恐縮。お嬢様。不肖、ティルレット。個人的な見解をお伝えしとうございます。許可を」

「許可します。なんですかね?」

「感謝。父君であられるヴォルガード様。母君であられる【アマト】様。双方の血が流れるスピカお嬢様は、いずれ不肖よりも強くなられます。その力を振るう時、【天界】より見下ろす神々は、間違いなくお嬢様を探し当てるでしょう。願わくば力を振るうことなく、穏やかな日々を過ごすことが叶うよう、不肖を剣としてお傍に置いていただきたく思います。――――お掃除が終りました」

「ありがとうございます。でも……もう決めたことですので」

「左様でございますか」

 そのままごろりと仰向けになり、視界に入ったのは覗き込むティルレットの顔――――ではなく胸と天井。……この角度からだと顔が見えないですね。

「休暇はいつからいつまで?」

「お嬢様が許可していただければ本日にでも。遅くとも、一週間程で戻って参ります。その間、城にはお嬢様とローグメルクのみとなりますが、あ奴一人でも全く問題無い……無い…………転ばぬ先の杖、シスターにも協力を仰ぎとうございます。許可を」

「……彼に対しては負けず嫌いですよね、ティルレット。でも多分問題ないと――――」

「――――許可を」

 ローグメルクの方が家事炊事洗濯庭の手入れまで、戦闘能力を除く全てがティルレットより数段上。普段言葉を詰まらせることのない彼女が取り乱し、未だに受け入れていない現実の一つ。ティルレットが駄目なのでは無くて、優秀過ぎるのですよ。我が家の家政夫が。まあ、今回は心置きなく行かせてあげる為に、そうしておきましょう。

「わかりました。休暇の件も、シスターへ頼んでおくことも許可します」

「感謝」

「ただし、旅人や街の住人に迷惑を掛けないでくださいね? デウスぅ……なんちゃらが作った【機神】も活発化してるって話ですし、王都側でも色々動きがあるようです。ついでに、お兄さんの街をお忍び観光するのもいいかもしれません。あなたの角は目立ちますが、ボクの角やローグメルクより小さいので、フードなどを被れば隠せるでしょう。あとは……五体満足で、怪我せず無事に帰って来てください。ボクからのお願いはそれだけです」

「了承」

「お土産、期待してますよ」

***

 メイド服以外が無いということで、急遽アラネアにティルレットの服を適当に仕立ててもらった。露出の少ない白黒服に黒いスカート、灰色のフード付きショールを纏い、この時期にしてはやや暑苦しそうな格好になった。本人は汗一つ流してないっすけど。

「よくお似合いですわ。でも暑苦しくありませんこと?」

「シスター、不肖の体温は魔力で調節できます故、心配は無用にございます。不肖が不在の間、お嬢様を宜しくお願い致します」

 俺がいるんすけどね。そう言いそうになったのを、両手で口を押えて飲み込む。あっぶねぇ、今こっち睨んでたから間違いなく刺されるところだったっす。アラネアはティルレットの周りをぐるぐると回りながら巻き尺を伸ばし、最後に採寸を確認している。

「……うんうん、サイズもちょうどみたいだね。動きづらくはない? 変な男にナンパされても無視するんだよ? 喧嘩して怪我でもさせたら、それこそ事だからさ」

「感謝。適切でないと判断すれば自己判断で改良いたしますので、ご安心を」

「改良……うぅん、まぁ、できればそうならないことを願うかな」

「アラネア、諦めるっす。俺の予想ではどこかしら破いて帰ってくるっすよ。賭けてもいいっす」

「貴様の首を賭けるか」

「そ、そっちは賭ける物無いでしょうやっ!?」

「ならば【お嬢様のお耳掃除をする権利】を賭けましょう。光栄に思え」

「まーたそんなあって無いような権利を――――ちょっ、ストップ、首周りが冷てぇっす」

 口を滑らせてしまい、ティルレットに喉元を人差し指で刺される。この状態でも、その気になれば魔術でスパッと首落とせるんで油断ならねぇっす。二・三歩下がり、間合いから離れようとするとネクタイを掴まれ、強引に屈まされた。目の前には見慣れた無表情の顔。お嬢、これパワハラ案件じゃねーすか?

「不在の間、宜しく頼む。手は出すな、絶対に手は出すな。復唱要求、手は出すな」

「の、ノータッチっ!! 漢、ローグメルクっ!! ティルレットさん不在中、ノータッチを貫き通すんでよろしくお願いしゃすっ!! てか、どんだけ信用されてないんすかっ!? 一応、曲がりなりにも育ての親っすよっ!? そっちも分かってるでしょうやっ!?」

「如何に従者といえど、過ちを犯す可能性無きにしも非ず。スピカお嬢様も様々なことへ興味を持たれるお年頃故、妙な気を起こさぬよう」

「……悔しいなら、頭ぐらい撫でてやればいいじゃねぇすか。手袋してれば問題ねぇんすから」

「………………」

 ティルレットは無言でネクタイを掴んでいた手を離し、外へと出て行った。

「なんか……哀しそうだね?」

「……ええ。彼女自身の問題でもありますけど、顔や言葉に出さないだけで、過去の一件を引き摺っているに違いありませんわ。アラネアさんは、当時の事をご存知ありませんこと?」

「いや? 親友が話したがらないことは触れない主義なんでね」

 シスターに尋ねられたアラネアがシルクハットを被り直しながら、こっちを向いてウィンクをしてきた。聞きはしねぇが察してたって感じっすね。話しても……いいっすか。ちょうどお嬢もお祈りの最中でいねぇし。シスターもあわあわしてるし。
 顎を擦り、どう説明したもんかと考えつつ口に出してまとめていく。

「……十四年前、ここに越して来たばっかの頃っす。ティルレットがまだ一歳のお嬢を触って、お嬢が一度死にかけたことがあったんすよ。魔物から庇って抱きかかえた時、手袋が破けてたのに気付かなかったみたいっすね。まぁ、シスターが解呪してくれたんで、呪詛が身体を回りきって発火する前に助かったんすけど。そっから抱っこもおんぶも、飯の世話からおしめ交換も、全部俺かシスターっす」

「あー……なるほど。スピカ嬢とのスキンシップを極力避けてる感じはそれだね」

「んで、耳掃除は最近できるようになったみたいなんす。けど、頭に手を添えない危なっかしいやり方で……いやぁ、見てらんねぇっすわ。お嬢が痛いって叫んだ時は、心臓飛び出そうになったっす」

「覗き見とは感心しないなぁ」

「アラネアまでそう言うすかっ!?」

「冗談だよ。彼女、無頓着そうに見えて繊細なのは俺にも分かる。赤ん坊なんてまともに抱いた事無いんじゃないかな。初めて抱っこした娘が自分のワンミスで死にかけたなんて、親なら一生トラウマものさ。愛情深いからこそ、触れるのに躊躇しちゃうんだね」

「アラネアさんはお詳しいのね」

「趣味で愛のキューピットもやってるんで、そういう話を耳にする機会も多いんだ」

 マジでこの蜘蛛男の処世術はワケわかんねぇ。どこもかしこも自分の巣みたいに歩き回り、知識や人脈を絡めとって自分の物にする。シスターも俺も、隣町や魚人族の港街辺りまで行くのが手一杯だってのに……。

「ならお二人に聞くっすけど……そういう場合、どうやってトラウマ克服するんすか?」

 質問に対しアラネアは「そうだねぇ」と言い、ポケットから取り出した手帳をパラパラと見返して考える。シスターも歯と頬骨に右手を当てて考えていた。一分程間を開け、シスターが先に口を開く。

「……私の経験上で申し上げますと、過去の精神的ショックを払拭しきるには、お互いの歩み寄ろうとする意思が重要になると思いますわ。スピカ嬢は記憶にないとの事なので本当に気にしていないでしょうし、この場合はティルレットさん側の意思ですわね。それ以外にも、ふとしたタイミングで解決してしまう場合もございますが、周囲の助けが無ければ、生涯解決しない場合もございます」

「俺もそう思う。トラウマからの育児放棄とかなら最悪のパターンだけど、少なくともティルレットさん側から歩み寄ろうと努力してはいる。すぐには無理でも刺激しないで、見守ってあげた方がいいんじゃないかなぁ」

「……そうすか。二人がそう言うなら間違いねぇっす。俺、馬鹿なんでそういう素養とか教養あんまねぇんすわ。……また余計な事言っちまったすかね?」

 ホント、昔から俺は一言余計だ。言わなきゃいいのに、相手の抱えてる爆弾に触っちまう。お嬢やティルレットに散々注意されても直んねぇし、こんなんじゃヴォルガードの旦那に合わせる顔がねぇっす。
 頬にコツコツとした硬い感触を感じ、顔を上げる。頭蓋こ――――……シスターの右手だ。

「あまりご自分を責めてはいけませんわ。改善しようと行動し、自分の行いを反省できるのがローグメルクさんの良い所です。言葉選びは少々乱暴ですけども、お二人は長い付き合い。きっとティルレットさんにも、ローグメルクさんの気持ちは伝わっていますわ」

「……ありがとうございやす。俺も休暇取って、もう少し社交性を学んだ方がいいんすかねぇ」

「その時は少し遠くの街へ一緒に行こうっ!! 心配しないでっ、俺が何とかするからさっ!!」

「へへへっ、悪くねぇ旅行計画っすね。アラネアが言うと、マジでなんとかできちゃうんで心強いっす」

 高い天井の店で大きく伸びをして、縮こまった気持ちを引き延ばす。俺はあの一件のお陰で抱っこもおんぶも、飯の世話からおしめの交換まで、全部できるようになった。そうしなきゃお嬢が死ぬって、必死になって努力して頭に叩き込んで覚えたし、【地上界】の父さん母さんがどんだけ我が子を愛してんのかってのもよく分かった。
 店の床を蹴って飛び出し、ティルレットの姿を探す――――いた。お嬢が中で祈っている教会を見上げ、森の入り口で立ち止まっていた。

「ティルレットっ!! 行く前にいい事教えといてやるっすっ!! 俺がなんでもできるようになったのはあんたのお陰で、俺はあんたに感謝してるんすよっ!!」

 俺に気付き、目が合った。

「何事か存じかねますが、それは鍛錬の成果でしょう。誇りに思いなさい」

「そりゃどーもぉっ!! だから余計なお世話ついでに、俺も俺で準備しておくっすっ!! 五体満足で帰ってくるんすよっ!! 地味に土産も期待してるんで、よろしくお願いしゃーすっ!!」

「…………――」

 表情は変わらないが、ティルレットの口元がかすかに動く。そしてそのまま、森の獣道へ歩き出した。どうせ「馬鹿」とか「阿呆」とかっすけど、んなこと気にしてたらキリねぇっすもん。俺はちゃんと言われた通りお嬢の身の回りの世話して、あんたの帰りを待つだけっす。


 【情熱】ってのは、正直俺にはよくわかんねぇ。芸術的感性も教養もねぇし、あんたとはとことん話も性格も合わねぇ。
 でも、お嬢を死ぬほど愛してんのは俺と同じで、それだけがあんたと唯一共感できる感情だ。
 膝の上で気持ちよさそうに眠る、娘の頭を撫でてやれない母親だなんて、あんまりにも寂しいじゃねぇすか。








***


「…………感謝」
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