ポラリス~導きの天使~

ラグーン黒波

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第五章・死にたがりの【天使】

【第八節・自浄作用】

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 夢を見た。【天使】数人と、集団の人間が争い合う夢。僕の両手は千切れかけた自分の首元を押さえ、焼けるような痛みを堪えるのが精一杯で、倒れたまま争いを見守ることしかできずにいた。隣にはこちらと同じく首を切られ、既に琴切れた男の亡骸。身なりの細部はぼやけて見えないが、質の良さそうな赤い服と傍に転がる銀色の柄の杖が印象に残った。
 仲間……なのだろうか。目の前で、こちらを庇うように【信仰の力】で作った武器を振るう、白い神官服を纏った【天使】達。だが、その刃や弓で相手を傷付けるほど、我が身に返ってきた傷で負傷する。手足を落とすと同じ部位の手足が、腹部へ傷を負わせると腹が裂けて血が噴き出し、白く固い大理石の床を汚す。しかし、互いに争いを止める気配はないまま、徐々に【天使】側が人間達に数で押され始める。
 押し寄せる人々の手には鋼色の武器ではなく、正面の巨大なステンドグラスから差し込む光で輝く、刀身が銀色の剣・短い杭と槌・手斧・十字架などが握られていた。彼らは床に倒れた仲間のことなど構わず踏みつけ、更には【天使】の攻撃から身を守る肉の盾にし、狂ったように襲い掛かる。

 重傷を負い、立つことすら困難になった【天使】達は床へ倒れ伏せてしまう。そのまま数人の男に圧し掛かられて鎮圧され、彼らは手にしていた銀の武器や十字架を天へ掲げ、勝利の咆哮を上げた。――――やがて人々の壁をかき分け、縁の跳ね上がった独特の三角帽子を被った、暴徒集団の頭目らしき男が一人現れた。両目は青色で長い白髪、首から小さな銀の十字架をぶら下げ、白い手袋をしている。

「――――に、静粛に。これより――――を行う。皆彼らから離れ、返り血を浴びた者達は急ぎ身を清めなさい」

 男が手拍子をして指示をすると、【天使】達を拘束していた者達は離れ、人の壁の中へと急ぎ足で消えていく。彼は倒れた【天使】達へ近付くと手を後ろへ回し、休む姿勢で見下ろす。まだ息がある【天使】達は、敵意と怒りに満ちた目で視線を返していた。

「あなた達は王都の人々をかどわかし、神々の名や威光を後ろ盾に悪逆の限りを尽くしました。……同じく神々を信仰する私にとって、あなた達の行為は非常に遺憾極まりない。……よって、神々と力の無い人々に代わり、我々があなた達を裁かせていただきます。既に証拠は出揃い、情状酌量の余地すらないと理解してはおりますが……何か最期に、懺悔することはありますか?」

 慈悲の感情が籠っていない、冷淡な口調。しかし、男の表情は挑発的で、動けない彼らに対し勝ち誇っているようにも見えた。その言葉に、足元でうつ伏せで倒れていた茶色の巻き髪の【天使】が、血で濡れた口元を歪ませ声を振り絞る。

「ああ……あるともっ!! 最後の最後まで……俺らは、あんた達をその狂気から救えなかったってことだ……っ!! いい加減、目ぇ覚ましやが――――っ!?」

 彼が言い終える前に、男はいつの間にか手にしていた白い杭を巻き髪の背へ突き刺し、そのまま右足で踏みつけ更に深く刺し込んだ。

「ああああああぁあああああぁっ!?」

「【セル】っ!?」

 すぐ後ろで倒れていた、緑髪で片目の隠れた女性に名前を呼ばれた彼――――【セル】は、痛みに絶叫し――――身体が徐々に膨れ上がっていく。白い神官服を黒い盛り上がった筋肉が引き裂き、下半身は剛毛で毛深くなり、足先には樋爪が生え、頭部の巻き髪はそのままに、整っていた顔は牛に似た顔つきへと変容した。

「――――――!?」

 人の姿では無くなったセルは、自身の異常を確かめるように左手と新たに生えた右手で顔や身体を触り、判別できない言葉で叫ぶ。なんだあの姿は……まるで魔物ではないか。

「皆、心して見よ。これが彼らの正体であり、本質である。心の闇によって醜く変貌したこの姿、どう弁明のしようがあろう? まるで――――」

「――――違うっ!! 我らは【悪魔】ではないっ!! 惑わされるな神の子達よっ!!」

 右足が膝から切断され、近くに転がった長椅子へ手を掛けて左足のみで立ち上がった、顔の彫りが深い中年風の【天使】の男が声を上げる。神官服に損傷はないが、肩や脇腹からも血が染み出して滴っており、白い神官服が真っ赤に染ってしまっていた。

「【ゼイン】神官長……道を違えたのはあなた方の方でございましょう? 特に神官長に至っては他者の財産を不正に搾取し虚偽の報告を行い、更には神の身元へ還るべき遺体を裏社会へ流すなど複数の容疑に掛けられ、一刻程前に全ての証拠が出揃いました。失礼ながら、その過程で教会へ勤める者達の過去についても調べさせていただきましたが、皆さんの出身に経歴……何もかもが嘘の羅列であり、信用足るものが無い」

 血濡れた手袋を取り外してその場に棄て、懐から新しい手袋を取り出しながら、三角帽男は中年風の【天使】――――【ゼイン】へと歩み寄る。棄てられた手袋の手のひらには何かが書かれているようだが、定まらない視界では細部まで読み取れない。

「何も罪を犯していないとおっしゃられるのであれば、逆にあなた方の異常なまでの身体能力の高さや治癒能力、彼の姿についての説明もできる筈でしょう? 再三尋ねてもお答えできないのは、やはり後ろめたい事実が隠れているからではないでしょうか? 神官長、是非細部までお話していただきたく思いますが――――」

「――――断るっ!! それは神官として、崇拝する神々へ背く行為であるっ!! だが、セルに打ち込んだ杭……あれは人の身には過ぎたる【禁忌の呪術】の類であろうっ!? 誰に雇われた殺し屋か知らぬが、外道はそちらの方だっ!! 仮にあ奴へ打ち込まず、貴様の信者へ刺しても確実に変容が起こるっ!! それをあたかも化けの皮が剥がれたのだと錯覚させる意図的な手法、神の名を借り私利私欲に動いているのは貴様の方だっ!!」

「まだそれだけ話す余力があるとは……つくづく人間離れしていますね。なら、あなたのおっしゃるように、手近なそこの信者にでも協力してもらいましょうか――――ねぇっ!!」


 男の右手から振り向きざまに放たれた白い杭が、こちらへゆっくりと飛んでくる。僕は動けず、杭が頭へ刺さることを拒絶できない。心音が高まり、全身の神経が眼球に注がれているのを感じた。だが――――その間へ割り込むようにして飛び込み、覆いかぶさる緑髪の片目が隠れた【天使】。髪に隠れた目が潰れているのか、血の涙を流している。

<【ウール】? ……駄目だ、アタイなんかを庇っちゃ……>

 脳内に僕のでは無い、別の【思考】が響く。これは……サリーか? ゆっくりと流れる時間が次第に加速しつつあるのを感じながら、片目の隠れた【天使】――――【ウール】は、軽く微笑んで見せた。

「――――ごめんね。最期くらい、あなたの役に立ちたかったから――――」

 時間の流れが戻ると同時に腹を杭で貫かれ吐血し、それでもこちらへは倒れまいと床を両手で突いて上半身を支えるウール。きつく目を閉じ、唇を食いしばって痛みに叫びそうになるのを耐えていた。彼女の背後からは、三角帽子の男が愉快そうに笑う声がする。

「おおぉと失礼っ!! 手が滑ってしまいましたっ!! あっはっはっはっ!!」

「き……貴様あぁっ!!」

「……さあ、皆の前で真実を白日の下に曝しましょう。彼だけでなく、あなたや彼女も【悪魔】であるかどうか――――」


***

 地の底から、強引に引きずり上げられた感覚と共に目を覚ます。見知らぬ木の天井とぶら下がるランタン。頭を預けている枕からは、薬草で殺菌された鼻腔を突く特有の匂いがする。枕元には真剣な表情で本を読むアポロと、それを覗き込む新人【天使】の姿。二人とも修練着ではなく、教会の青いローブを纏っていた。こちらの視線に気付いたのかアポロは本から顔を上げ、勢い良く立ち上がる。

「……ん? おおっ、よかったっ!! 目が覚めましたか、ポーラ司祭っ!? ちょっと待っててくださいっ!! すぐ先生呼んできますんでっ!!」

「あ、待って……あぁ……い、行っちゃいました」

 新人へ本を預け、アポロは部屋を一目散に飛び出して行ってしまった。一人残された新人はこちらを見て、不安げな表情を浮かべる。そうだ、首の傷は……包帯を巻かれているものの、痛みはない。上半身を起こした際に視界が揺れる感覚と、強い空腹感がして左手で重い頭を抱える。血を流し過ぎ、貧血を起こしてるのか?

「司祭……お、お腹空いてませんか? アポロ先輩と作った薬草スープと、りんごを持って来たんですけど……」

「いただきます。……どのくらい眠っていたのでしょうか?」

「えっと……昨夜、サリーさんに蹴られて気を失った司祭を、アポロ先輩が抱えて、大急ぎで街の病院まで運んで治療を受けたんです。く、首の傷自体は浅かったんですけど、出血が酷いのと頭を強く打ったので、念の為に入院していただきました。……ちょうど、今はお昼休憩だったので、先輩と二人でお見舞いに来たんです」

 新人は足元に置かれたバスケットの中から、大きめの携帯保存瓶と木の小さな器を取り出し、栓を外してスープをとぽとぽと注いでいく。具材は細かく刻まれた薬草と、喉に良いと聞く油分を含んだ小さな種。受け取ったスープへ口を付けると、動物の骨から出汁を取ったのか、ほんのりと肉と香辛料の風味もした。

 戦闘経験豊富な【上級天使・サリー】に、僕一人で勝てるとは想像してもいなかったが、ここまで圧倒的な実力差を思い知らされるとは。未知の攻撃への対応、そこから転じて致命傷になる急所を的確に狙う腕前。相手の武器でさえ己の物とし、素手でも十二分な戦闘能力。彼女の力を一時的に借りたが大きさや重さに振り回され、扱いやすい【銃】の形へ落ち着けたところで、こちらへ向かって来る彼女の足を止めることすら叶わなかった。

「……僕達は、世界を変えるにはまだまだ力不足です。暴力で物事を解決するのは好みませんが、皆を守る立場の僕が、いつまでもそんなことを言っていられない」

「………………」

「焦ってはいけないのも理解しています。皆さんにも言ってきたことですから。ですが……いざ身に染みて実感すると、何もかも足りない物ばかりで、より多くのものを欲してしまいます。特に僕は自分一人でまともに戦う事すらできない。……不甲斐なさを、悔しく思います」

「……ポラリス司祭でも、【悔しい】と考えることは……あるのですか?」

 スープの瓶を抱えた新人が不思議そうな顔で尋ねてきたので、頷いて答える。

「勿論。最近は……特に。ああすればよかった、こうすれば最良だったではなく、単純にどうあがいても【敵わない】。理不尽であると感じ、対抗しようとも、大きな力の差の前にはどんな言葉や価値観も無力で届きません。いつも肝心な時に打ち勝てず、負けてばかり。それなのに、今は自分の業務をこなすことで精一杯で……君が成長していた事にも気が付けなかった」

「い、いえ……あれは、そのぉ……」

「?」

「実は……ベファーナさんに魔術を習ったり、瞳の力の扱い方を教えていただいてて――――」

「――――イーヒッヒッヒッ!! ウチをお呼びかナ? カワイイ弟子ヨッ!!」

 聞き慣れた指をパチリと鳴らす軽快な音と共に、天井からぶら下がるランタンへ両足をかけ、逆さでこちらを見下ろす【魔女・ベファーナ】が、何処からともなく現れた。ニヤニヤと笑いながら腕組みをしているが、逆さになっても帽子や目玉の入ったペンダントは重力に逆らい続けている。

「いっ、いつからそこに?」

「【出てきた】のは今だけド、君らの事はいつだって見ているサッ!! アア、ザガム達のことは心配いらないヨ。ここにぶら下がってるウチハ、彼女に預けた魔力の【ほんの一部】だからネ。ウーム……細かく説明すると五年近く掛かっちゃうかラ、質量を持った幻覚か幻とでも思っていてくれ給エッ!!」

「はぁ。……ですが、もうすぐお医者様も来られると思いますし、今一度何処かへ身を隠した方がいいのでは?」

「ノォ~プロブレェ~ムッ!! ドクターのおじいちゃんはさっきぎっくり腰を起こしテ、アポロ君に抱えられ整骨院へ搬送中だヨッ!! 医者が医者へ運ばれるというのモ、ナカナカ愉快な状況ではないかネッ!? 多分しばらく病室へは来ないんじゃないかナァ?」

「そうしたか。……七十以上のご高齢ですし、大事が無いといいのですが」

 軽く揺れてランタンから両足を離し、するりと飛んだベファーナは隣に設置されたベッドの上へ落下し、軽く跳ねて小さな掛け声を発して床へ着地した。新人は顔を瓶で隠しつつも、慌てた様子で彼女に謝罪し始めた。

「すすすっ、すみません、ベファーナさんっ!! 秘密にしていなきゃいけないのは分かっていたのですが……」

「別に黙っていろとモ、イケナイことだともウチはな~んにも言ってないヨ? 寧ろ宣伝してもらった方が【魔女】として箔が付くシ、その調子でジャンジャン広告しておくレッ!!」

「そ……それは、【天使】としての立場上、難しいです」

「ムッ、それはザンネン。でも【天使】をクビになったラ、【魔女】として生きる事も考えてはくれないかイ? 今ならベファーナちゃん師匠の次に凄い【魔女】にしてあげると約束しよウッ!! 元々世界に一人しかいないケドッ!? イーヒッヒッヒッ!!」

「あ……あはははは……」

 自虐を含んだベファーナの提案に対し、苦笑いで新人は返す。……彼女にとってそれが幸せだと感じるのであれば、強ち悪い話ではないのかもしれない。もっともまだ新人も僕らも成長途中、彼女個人の生き方を尊重するのは難しいが。ベファーナはとことこと歩いてこちらへ近付き、僕の首に巻かれた包帯を右手人差し指でなぞる。すると包帯を止めていた糊が粘着力を失ったように剥がれ、スルスルと解けると彼女の指先へ巻きついていく。

「フム、傷は完治しているようダ。一応、【中級天使】である君は人間より治癒力が高イ。大怪我をしても食事と睡眠をしっかりとって養生すれバ、翌日には何事も無かったように復帰できる筈サ」

「ありがとうございます」

「ダ・ガ・シ・カ・シッ!! 身体の怪我は治ってモ、君らの心まで完治するとは限らなイッ!! 【天使】だけに限らズ、精神汚染や過去のトラウマが身体に及ぼす影響ハ、例え数千人の命を救った医者でも計り知れないのだヨッ!!」

「……それはどういう――――」

「――――マァマァ、落ち着いテッ!! この答えは君自身が夢という形で彼女へ干渉シ、追体験した筈サッ!!」

「………………」

 ベファーナは指先に巻いた包帯へ息を吹きかけ宙へ放してやると、包帯は地面を這う蛇の如く宙を這い、僕らの頭上で自由気ままな動きをし始めた。発言を聞く限り、彼女はこちらの見た夢の内容まで把握しているようだ。

「結論から言うト、その夢は実際に起こった出来事ダ。何者かによって嵌めらレ、姿を変えられていく同僚達。無力さに苛まレ、何一つ守ることのできなかった自分自身への責任……心が壊れるにハ、充分過ぎる経験ダ。君達を拒絶する発言や素振りを示したリ、高い治癒能力があるにも関わらズ、全く治る気配がない首の傷や突発的自殺衝動、痛覚の麻痺――――本人にしか知り得ない過去ヲ、君は彼女から取り込んだ【信仰の力】と共に覗き見たのだヨ」

「首を切ったような痛みに出血、蚯蚓腫れが出来たのも……サリーさんの経験が僕の身体にも反映されたから、ですか」

「イエスッ!! 【他者の力】を取り込ミ、自身の【信仰の力】と重ねて戦ウッ!! 君がその力をより強く引き出そうとすればするほド、力・経験・身体の傷に至るまデ、あらゆるものが君の身体に影響を与えるだろウッ!! それが望むもので無くともネ」

「そ……それはポラリス司祭の方が、得られる恩恵以上に危険なのでは……?」

「表現としては【汚染】と言った方が正しかナ。無色透明な水ヘ、次々と絵の具を溶かしていくようなものダ。何色にも染まリ、受け入レ、拒むことの出来ない透明な力。それがポラリス君の【信仰の力】の本質サ」

「色が無いのは――――【透明】なのが、僕自身の色だから……」

 サリーが指摘した、【色が無いことはあり得ない】といった含みの言葉も、ベファーナの説明で全て腑に落ち、不安だった悩みが少し落ち着いた。より強く【他者の力】を引き出そうとすれば痛みや傷を伴い、僕個人の精神にまで干渉する。その反面、相手の分厚い強固な装甲や皮膚を傷付けることなく、内部から精神や肉体へ強引に干渉可能なのも、僕の【信仰の力】か。

「ですが……これまで幾度となく皆さんの力を借りても、僕自身の【信仰の力】が常に透明なのは何故なのでしょう? 水へ絵の具を何色も溶かしてしまえば、いずれ濁ってしまうと思うのですが……」

 質問に対しベファーナはニヤリと笑い、左右の指をパチリと鳴らす。小さく弾ける光と共に、僕の膝の上へ無色の液体と筆の入った小さな白い容器、その隣に紫の絵の具瓶が置かれた。

「筆に絵の具を付けテ、容器の中で溶かしてみなヨッ!!」

 彼女に言われるがまま液体から引き上げた筆先へ絵の具を少量付け、容器内の液体へ溶かす。染み出た紫色は漂い、徐々に紫色が濃くなると容器の白い底が見えなくなった。完全に筆先からは絵の具が洗われたようで、一旦引き上げてベファーナへ尋ね――――……容器内の紫色が、少しずつ薄まっていく。
 白い底が見えないほど濃かった紫色は、ゆっくりと【色の無い色】に溶かされるように掻き消され、数十秒ほどで再び元の無色透明へと戻った。筆先に付けた絵の具も無くなり、容器の白い底も明瞭に見えている。

「これは……一体……」

「【自浄作用】、自然の摂理サ。水中に潜む、目には見えないほど小さな微生物が絵の具を分解シ、時間を掛けてまた透明な状態へと戻すのだヨ。その液体には数十年分の循環を【魔術】で圧縮シ、数十秒で透明な状態へ戻るようにしてあル。微生物が完全に死滅しない限りハ、半永久的にその状態へ戻り続けるのサ」

「筆は……腐食や劣化しないのです?」

「イイ質問ダ、我が弟子チャンッ!! これはあくまで【自分を侵食する対象のみ】を狙いすました作用サ。分解できなイ、脅威でないと判断されれば無視されル。試しに飲んでみるかイ? 普通の飲料水と何ら変わらないシ、君達【天使】は胃酸で消化できる範囲なラ、どんなものでも栄養にできるだロォ?」

「えっ、遠慮しておきますぅ……」

「イーヒッヒッヒッ!! 冒険心が足りないネェッ!!」

 ベファーナが再びパチリと指を鳴らすと容器と筆、絵の具瓶は光となって弾け消えた。

「僕が変わらず染まり切らないのは、容器の中と同様に【自浄作用】が働いているからなのですね」

「ソウ。汚染しきる前ニ、君の方が【他者の力】を溶かしてしまうんダ。……ある程度はネ。限度を越えたリ、君自身の精神が壊れてしまったラァ……それはもう【ポラリス】ではなイ、【何か】へと変わってしまうかモ?」

「………………」

「それだけじゃなイッ!! なにより君には【非情】さが足りなんダッ!! 他者を踏みつケ、押し通してでも選択する力強さがないのだヨッ!! 昨晩の模擬戦闘モ、本来なら君が圧勝することもできた筈ダッ!! 腱や足などではなク、脳や脊髄に銃弾を撃ち込めばより確実に動きは止められただろうネッ!! 君は君なりに十分本気だったのかもしれないガ、一瞬の判断が生死を分ける重要な戦いにおいテ、その優しさは仇となルッ!!」

 彼女は笑いながら僕のベッドを飛び越え、新人の隣の空いた席へ音も無く着地する。

 【非情】さだけではない。僕には【天使】としてあるべき感情のいくつかが欠落している。怒り、増悪、嫉妬、他人を蹴落とす狡猾さ。……アダムがよく【負の感情】として語るそれらが、人間にとって大きな行動をする為の強い感情に成り得ることがあるのは理解している。時にそれは努力の結晶として、世の為に才能が開花する事もあれば、衝動的に他者を攻撃するきっかけにもなる。とても……とても強い感情。
 胸を焦がし、突き破りそうになるあの荒々しい感情が、僕にとっては【負の感情】に近いのかもしれない。【箱舟】の中でも、立ちはだかったスピカの言葉や演技に流されてしまいそうになった。そういった感情を僕は学習・理解しないのではなく……無意識に閉じ込めてしまっているのか。

「それでも君は変わろうとせズ、あの日に誓ったスピカの言葉を信ジ、正面から打ち勝っただろウ?」

 いつの間にか取り出した陶器のカップを片手に持ち、新人からスープを注いでもらうベファーナは、ニヤニヤとこちらの顔を覗き込む。

「あの時は……ペントラさんやベファーナさん、ティルレットさんの助力もありました。僕一人で彼女を止めることは出来ませんでしたよ」

「シカシ、直接戦ったのは君ダ。変わることで得られる強さもあれバ、変わらないことで得られる強さも在ル。君が【ポラリス】のままで強くなり続けることはとても険しク、苦難の多い選択ダ。でも君がそう望むのなラ、ウチも親友として惜しみなく協力しようじゃないカ」

「私も、足手まといかもしれませんが……今後とも、司祭に協力しますっ!! サリーさんは確かに一人でも強かったですが……ひっ、一人じゃないからこそ、私達は強くなれるんですっ!! あの、だから、その……そんなに、思いつめないでください」

「……ありがとう」

 新人とベファーナの温かい言葉で、胸の揺らぎが収まる。彼女は良い人よ。そう語ったミーアの言葉を思い出す。サリーの強さは、僕が見た過去から来ている。失う事への後悔。力が及ばず、目の前で変貌し、罪人扱いを受ける同僚と上司の姿。あの経験があったからこそ、彼女は他人を寄せ付けず孤高に生き、僕らの望む未来を否定する。自分と同じ結末を辿って欲しくはないから。

 ……強くなろう。あの悲しい出来事を繰り返さないために。生ける屍になっている今の彼女が、もう一度【生きたい】と望むように。彼女が否定した僕自身のまま、失う事のない強さを手に入れよう。一人ではなく、皆で。

「決心できたようだネ? なら次のステップへ進もうカッ!! 今夜病院へザガムと馬で迎えにくるかラ、それまで大人しく養生していてくれ給えヨッ!! 徹夜仕事になるだろうかラ、睡眠も忘れずにネッ!!」

「え?」

「という事でカワイイ我が弟子チャン、頭の固いむっつり三つ編み君や熱血漢マッチョ君への説得を頼むヨッ!? ナァニ、明日の朝までには五体満足で出社できるとモッ!! 明後日は彼女とお友達は帰ってしまうからネッ!! 隠れて特訓をするなラ、監視が外れた今夜がチャンスダッ!!」

「えっと……それは……まず何をするつもりなのですか? 説得しようにも、どう説明したらいいか……」

「ヒ・ミ・ツッ!! イーヒッヒッヒッ!! 愉しくなってきたヨッ!! 君の望む未来を否定したひょろ長女を完膚無きまでボッコボコにしテ、盛大に見返してやろうじゃないカッ!! ……ウム、いい味付けのスープだネッ!! 【魔女】は食事を摂らなくても死にはしないガ、こういう家庭的な味は好きだヨッ!!」

 頷きながら、ベファーナはアポロと新人が作ったスープへ口を付ける。幻覚と本人が言ったものの、こうして消費されたスープはどこへ消えているのだろう? 消化器官が一見無さそうでも、紅茶や焼き菓子を飲んで食べるシスターといい、まだ世界には理屈や常識で証明できない事が多い。新人も味わって飲む師の様子をまじまじと見ていた。
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