吾輩は野良の猫である

シュンティ

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手袋と蛇口

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 吾輩は野良の猫である。名前はたくさんある。
 野良の猫は人間どもの潤滑油。町の治安を守っているのは、警察ではない。我ら野良の猫である。野良の猫がいなければ人の世は今よりもはるかに索漠としているであろう。
 といって、野良の猫は人間のために存在しているのではない。我らは我らのために生きているのである。

 吾輩の明晰な頭脳を勘違いして羨ましがるものがいるやもしれないから、予め釘をさしておくが、能力が高いから幸福度も高いなどと言うことは幻想でしかない。能力が高きものは高きものの苦悩が常につきまとう。吾輩の事でいえば、鋭敏な観察眼と精緻な思考力故に、諸君なら特に気にせず通り過ぎてしまうようなことでも、吾輩の眼を通るとそうもいかなくなって、苦悩の根源となってしまうことが往々にしてあるのである。

 例えば、車の往来の激しい道路のちょうど中間あたりに手袋が片方だけ落ちていたとしよう。諸君もそれに気付きはするだろうし、いったい誰がこの広い道の真ん中に手袋などを落としたのかというくらいのことは考えるやもしれぬ。が、吾輩の分析はそんなところでは到底おさまらない。誰が、いつ、なぜ、不注意にもあるいは故意に手袋をそんな場所に、車が頻繁に往来する道の中間に落とすに至ったのか考えずにはおれない。考えるだけではない。四方から舐めるようにその観察をする。やがて観察しているだけでは満足できなくなって、その手袋の臭いを嗅がずにはおれなくなる。車の往来が絶えた一瞬間を狙って臭いをかぎに行くのである。命がけである。吾輩が分析力に乏しいただの猫であるのなら、落ちている手袋は落ちている手袋でしかなく、それ以下でもそれ以上でもなかろうが、吾輩は吾輩であるからそうもいかないのである。
 諸君の中には、そこまで己を客観的に見る事が出来るのであるから、嗅ぐのを我慢することだってできるだろうにと思うものがおるやもしれぬが、それは無理な話だ。いくら己を客観視できたところで、吾輩の全身をめぐる血が、体を構成する何億何兆個の細胞が、体中に張り巡らされた神経が、行けと命じてくるのである。その衝動に抗うことなどできるはずがない。もし抗えばそちらの方が危険なのである。

 このような例は挙げだせばきりがない。

 公園の水道で遊ぶ子どもらを時々見かけることがある。水ごときであれほど大盛り上がりできるとは、人間の想像力もバカにはできぬ。
 子どもらが帰った後、蛇口の先を見ればポツポツと水が滴り落ちている。吾輩にとってはこれとても死活問題となりうる。誰も使っていない水道というのは、止まっているのが自然状態であって、ああやって水が一滴一滴こぼれていくのは、吾輩の神経に触って仕方がない。気づいてしまったが最後、もう吾輩の脳裏でポツポツが四六時中続くことになる。誰かが蛇口をもう三〇度でも締めてくれればよいのだが、悲しいかな、公園の蛇口の締めの甘さを、気にかけるものなどそうめったにおらぬ。蛇口を止めたって儲けにはならない。どうせ税金から出ているのだ。諸君のそのような個人主義は巡り巡って諸君の払う税金を高止まりさせている。
 蛇口問題がどのように死活問題になるのか? 蛇口問題は、安物のフライパンについたこげのように、吾輩の脳内にしつこくこびりついて、いつ何時も離れない。それはどうということのないブロック塀の上を歩いている時もそうである。蛇口のことが頭から離れないがために、ブロック塀の終わりに気づかずに、アスファルトの地面にもう少しで頭から激突しかける。そこは猫の本能のなせるわざで、何とか着地を成功させるものの、肉球にはじっとり冷汗がにじんでいる。毎日のように蛇口公園に通い、水道のポツポツが続いているかどうかを確認する。ポツポツがおさまっているところを見届けない限り、吾輩の神経は蛇口問題に浸食され続けるわけである。

 手袋と蛇口の話しかしておらぬが、諸君がいかに幸せな人生を送っているのか少しはわかったのではないだろうか。吾輩のような感覚鋭敏な生き物は絶えずその高き能力と引き換えに高い税金を払っているようなものであるから、安易に羨ましがるものではない。
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