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第五幕

04 人間らしさ

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「恋人……?」

「好きなんでしょう? 大事なんでしょう?」

「好き……。大事……。大事は大事」

「きっと特別なんだよ」

「とく、別……」

 ——実篤さねあつは特別? 確かにそうかもしれない。

 野原はそう思った。

 家族よりも同じ時間ときを過ごしてきた。自分のことをよく理解してくれているのは槇だった。いつも黙っていても、ある程度のことを理解してくれていた槇だからこそ。まったく話が通じないのがショックだったのだ。

 自分には伝えたいことがあった。
 槇に知ってもらいたいことがあった。

「野原は可愛いね」

 水野谷の手が伸びてきたかと思うと、頭を撫でられた。水野谷の手のひらは大きくて温かい。なんだかまた涙が零れた。

「一人で頑張ってきたんだ。誰にも相談できないでしょう? 野原は」

「相談……。はい」

「なんでも相談してよ。おれはいつでも野原の話を聞けるよ。だって可愛い後輩じゃない」

「可愛い、後輩……」

 戸惑って呟くと、水野谷は「さて、今晩はどうする?」と尋ねてきた。

「うちに泊めてもいいけど。どうする? その様子だと出てきちゃったんでしょう?」

「……はい」

「ちゃんと仲直りして明日には戻らないと」

 水野谷はそう言うが、野原の気持ちはまだ揺れていた。そのまま首を横に振った。

「野原?」

「課長。あなたの言葉はよく理解しました。だからこそ、仲直りはまだしたくない」

「え?」

「ただ、ごめんなさいをしても意味がないのだと思ったのです。多分、きっと。この件でおれたちはずっと同じことを繰り返す気がするんです」

 ——そう、多分。ちゃんとしないとダメなんだ。そして、それはきっと。おれだけの問題じゃないのかもしれない。

「野原……」

「でもよくわかりました。どうしたらいいのか、正直わかりません。でも、考えてみます」

 野原の言葉に、水野谷はにっこり笑顔を見せた。

「野原は変わったね」

「そうでしょうか」

「うん。なんか人間らしくなってきた」

「人間らしく……?」

「ああ、ごめんごめん。悪い意味じゃないよ。野原のキャラクターだしね」

「キャラクター?」

 疑問符だらけになっている野原に、水野谷は余計に笑う。

「うんうん。いいね。いいよ~。みんなに好かれるキャラになってきたじゃないの。おれが見込んだだけのことはある。自信持っていいんだよ? 野原はね。本当は人の気持ちをよく理解できない自分が嫌なんだろう?」

いや——? きらいってわけではないですけど……でも、みんなに迷惑をかけているんだろうなって思っています」

「ほらほら。マイペースで無表情なくせに。案外、気遣い症なんだから。疲れちゃうよ。そういうの。ね? どれ送っていこうか。実家にでも帰るかい?」

「あ……そうですね」

「もう。なにも考えていないんだから」

 正直、飛び出してきたのはいいものの、行く当ては考えてもみなかった。水野谷に指摘されて、初めて気が付く。

 実家にはまだ自分の部屋がある。本はすべてマンションに持って行ってしまったが、寝る場所くらいはあるのだ。

 ——そうだ。実家に帰ろう。

「課長。今日はありがとうございました」

「ううん。本庁にでもいるならもっとマメに見てあげられるけど。悪いね。おれも嬉しかったよ。野原とこうして飲むの久しぶりじゃない。また来ようね」

「はい」

 水野谷が店主にタクシーの手配を依頼しているのを見ながら、野原は日本酒を一気にあおった。



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