地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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交響曲第一番変イ長調 Op.55

第5話 ピアノで家が買えます

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あおー、少し手伝えよ」 

 星野の声にはっとして蒼は顔を上げた。五月になった。蒼が星音堂せいおんどうにやってきて一カ月が経ったのだ。まだまだ雑用ばかりだが、なにせホール運営というのは事務作業よりも体を動かすことのほうが多かった。 

 事務所の入り口に立っている星野に連れられて蒼は廊下に出る。 

「ピアノの出し方、教えるから」 

「ピアノ、ですか?」 

 中庭を臨む廊下を歩きながら星野の後ろをくっついて歩く。彼はテーブルや椅子が置かれているスペースを横目に大ホールの舞台袖に続く扉を開けた。 

「明日は『ピアノの日』だからな」 

「ピアノの日……?」 

 今月の予定に書いてあった星音堂主催の催しだったはずだが、どんなものなのか蒼には想像もできなかった。 

 真っ暗な舞台袖に入り、星野は壁面に並んでいるボタンをいくつか押す。すると、舞台袖の蛍光灯が灯った。それからステージの上のライトも一つ。 

「ほれ。これな」 

 星野はポケットから鍵を取り出すと、ステージではなく脇の金属製の扉を開けながら、蒼に白い手袋を手渡した。 

 星野にはいつものことなのかもしれないが、蒼からしたら全てが初めてで、なにが起きるのかわからない。目を瞬かせながら彼の様子を見守る。彼は重そうな扉を引っ張って開いた。——と。中にはグランドピアノが二台見えた。 

 ——こんなところにピアノがあったんだ。 

「大ホールには大きいサイズのグランドピアノが二台。スタンウェイとヤマハな。他には第一練習室にカワイが一台。第四と第五練習室にヤマハ一台ずつ。小ホールはこれより小さいタイプのカワイが一台だ」

「え、えっと……」

 星野には馴染みなのことかも知れないが、名前を言われてもなにがなんだかわからない。指を折って数える。大ホール二台。小ホールが一台、練習室が三台。ということは合わせて六台。

「六台ですね。ピアノ」

「いやいや。違う。アップライトのピアノもあるからさ。全部で八台。ちなみに第二練習室はオルガンがあって……」

「ほ、星野さん」

「なんだよ?」

「後でちゃんと教えてくださいよ」

 目を白黒させている蒼を見て、星野はめんどくさそうに顔をしかめた。

「お前さ。自分でも勉強しておけよ」

「そんなこと言われても。どこから勉強したらいいのかすらわかりません」

「素直に言われると拍子抜けすんなー」

 星野は悪態を吐いてから、ピアノの運搬方法の説明を始めた。

「今回はスタンウェイを出すぞ。ピアノを移動するときはこの運搬車を使う」 

 星野が指さしたのは、車輪が三つ付いているヘリコプターみたいな形をした台だった。高さは蒼の膝上くらいだろうか? パイプ製の丸いハンドルみたいなものが見えた。 

「この丸いところを回すと台が上下するから。低くしてからこれをピアノの下に入れる。それからぐるぐる回してフィットさせてから動かすんだ」 

「はあ」 

「はあ? じゃねーし」 

 蒼の反応が薄いので星野は呆れた顔をした。 

「ピアノで床が傷つくのを防ぐんだ。よしっと」 

 星野が作業をしているのを一緒に屈んで見る。それから運搬車のセットが終わったようで、星野が立ち上がったので慌てて自分も立ち上がった。 

「じゃあ運ぶぞ。ゆっくりだぞ。慌てるな。絶対にぶつけるなよ」 

「ぶつけたらどうなるんですか?」 

「お前よー」 

 星野はまた呆れた顔をした。 

「このピアノはスタンウェイ・アンド・サンズっていう会社のピアノでな、アメリカ製の最高級品だ。特にここにあるのはスタンウェイの中でも最上級モデルだ。すげー高いんだよ」 

「すげえ高いって……いくらくらいなんですか?」 

 蒼の質問に星野は軽く答える。 

「二千万以上するぞ」 

「へ?」 

「だから、二千万円」

「ええええー!?」 

 驚きすぎて蒼はピアノから手を離してしまった。 

「おいおい。急に離すなよ」 

「だ、だ、だって! 家が買えちゃうじゃないですか!」 

「はは。お前ってさ。素人すぎて笑えんな」 

「笑わないでくださいよ!」 

 もしかしてからかわれているのではないかと疑いたくなるが、星野の言っていることは本当らしい。星野の指示通り、ピアノをステージの上に配置すると、先ほどと同じように運搬車を外してから、それをステージ袖に片付けた。 

「いいか。ピアノの運搬は必ず一人でやるな。おれに言えよ。危ねーからな」

 蒼は頷いてから、それから星野に尋ねたかったことを口にした。

「星野さん。明日の『ピアノの日』ってなんなんですか」 

 星音堂のステージは間口全体が階段になっている。一般的なホールの造りだと、一列目の客から見て立ち上がり部分が圧迫感を与えるものだが、階段で緩やかな距離感は、観ている者とステージと繋がりを作りやすい。 

 星野は適当に階段を横切ってから、客席側に降りてからステージを確認しているようだった。 

「よし。明日の準備はオッケーだ。『ピアノの日』ってーのは、おれたちが考えた苦肉の策ってやつだ。平日、大ホール遊ばせてもおけねーだろ。月に一回、このスタンウェイを二千円で五十分貸し切り出来るって企画なんだぜ」 

「貸切ですか?」 

「そうだ。大ホールもスタンウェイも貸し切りだぜ? 堪んねーだろ?」 

「はあ」 

「だからよ。その『はあ』って気の抜けた相槌はやめろ」 

「すみません」 

 星野は生き生きと説明してくれるが、正直、蒼からしたら魅力があるのかどうかわからない。 
 ピアノを弾く人にとったら、それはそんなに魅力的な企画なのだろうか?


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