地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

文字の大きさ
28 / 94
Stabat Mater

第15話 動き出した歯車

しおりを挟む




「ねえ、栄一郎さん」

 先に帰っていった蒼を見送った二人は、窓辺で肩を並べて座っていた。彼女の手には、栄一郎が差し入れた文庫本が一冊ある。

「私、いいのかしら?」

 濡羽色ぬればいろの瞳を見つめて栄一郎は頷いた。

「いつでも帰ってきていいんだよ。みんなが待っているのだから。ねえ、うみ

「はい」

「僕たちの結婚生活は実質一年もなかった。また一から始めてはもらえないだろうか?」

 彼女の細い指先を握りそっと見下ろした。

 あれから十年以上が経つ。当時の彼女はキラキラしていて眩しかった。

 明治から続く老舗病院の看板を背負わされ、妻に先立たれて途方に暮れていた頃だ。

 友人の誘いで訪れた場所にいた彼女に一目惚れしたのだ。「息子がいるので」と何度も断られたのに、足繁く通いなんとか口説き落としたのが間違いだったのだろうか? いや。そんなことはない。

 過去を振り返れば取り返しのつかないことばかりだが、それでも自分は生きている。これからできることは彼女を幸せにすること。そしてその息子である蒼を見守ること。

 彼の本当の父親は、蒼の存在を知らない。だから彼の目の前に現れる可能性は限りなくゼロに近いのだ。蒼の父親は自分一人なのだと栄一郎はそう言い聞かせていた。

「栄一郎さん。ありがとうございます」

 頭を下げた海の気持ちを理解して、栄一郎は笑みを浮かべた。

「準備しようね」

「ええ」

「蒼も帰ってきてくれるといいんだが」

 栄一郎の言葉に海は首を横に振った。

「あの子はもうすっかり立派な大人になったわ。いつまでも私が引き留めてはいけないと思うのです。好きにさせてやってもらえませんか?」

「そうだね。蒼は友達もいて、仕事も充実しているみたいだ。僕も、もう手が届かないよ」

「もっと蒼の話を聞きたいわ」

「これからたくさんあるよ。それに蒼と話せる時間もね」

 二人は顔を見合わせて頷いた。

 昼下がりの病棟は夢の中の微睡みみたいにぼんやりとした空気が漂う。なにが本当でなにが夢なのか。

 しかし、熊谷家の止まっていた時間の歯車は確かに動き出した。


***

 
 蒼が出て行ってから一時間が経過した。無事に会えたのだろうか? 持参してきた楽譜を開いて眺めては見るものの、なんの意味もなさないことはわかっていた。 

「嘆きのマリアとの対面か」

 マリアは息子を慈悲深き心で受け入れてくれるに違いないとは思っていても心は落ち着かない。

 そわそわと楽譜を捲っては閉じを繰り返していると、ふと助手席のところに人影を認め、驚いて顔を上げた。 

 そこには蒼がいたのだ。 

 『どうだった?』と尋ねたいところだが、彼の表情を見る限り、この面会の結果は一目瞭然だった。

「ただいま」

「おかえり」
 
 助手席に乗り込んできた蒼は、少し上気した頬を赤くして関口に頭を下げた。 

「ありがとう。関口」

「そっか。よかったな」 

「——本当。よかった」 

 彼はそれっきりなにも言わない。関口は戸惑い、そしてずっと聞きたかったことが頭に浮かんだ。

「お母さん、どうだった?」

「え? どうって?」

 唐突な質問に蒼は意図がわからないとばかりに眉間に皺を寄せた。

「なに?」

「だからさ。お母さんって蒼に似てるのかって聞いてるの」

「え! ってかさ。なに? 関口は年上好き!?」

「ち、違……!」

「やだー。関口って。あのね、母はちゃんと既婚だし。変な気を起こさないでよね!」

「だから……。もういいや。帰るか」 

「そうだね」 

 ニコッと微笑む蒼の笑顔は、暖かいお日様みたいだ。彼が笑うと辺りが明るくなる。

 ただ、彼の母親ならきっと彼と同じお日様みたいな女性なのかと思っていただけだ。彼女もまた一時は翳ったのだろうが、きっと蒼と再会してその輝きを取り戻したに違いないと思ったのだった。

 なんだか気恥ずかしいような気持ちを誤魔化すようにエンジンをかけてから、車を発進させた。
 
 梅雨の合間の昼下がりの空は真っ青だ。ジリジリと照りつける日差しが妙に眩しかった。もう夏がすぐそばまでやってきているのだろう。

 しばらく走ると、蒼が声を上げた。

「ねえ、関口」

「なに?」

「あのね。おれに音楽のこと教えて欲しいんだけど……」

 蒼の言葉に目を見張ってから、口元を緩める。

「まあそうだな。出来損ないの職員のままでは星野さんたちに迷惑がかかる。協力できることはするよ」

 可愛くない言い方だが、蒼は文句を言うつもりはないらしい。「ふふ」っと軽く笑うと「そうだね」とだけ言った。もう怒るつもりはないらしい。

 嫌な奴なのに……。蒼が嬉しそうに笑っている横顔を見ているとなんだかくすぐったい気持ちになるのはなぜだろうか? 

「ねえ、来る途中にジェラート屋あったじゃん。寄ってよ」

「僕は東京に帰りたいんだけど」

「いいじゃないの。付き合ってくれたって。そう時間かからないでしょ?」

「と言うか、緊張して黙っていたのかと思ったら、ちゃっかりそういう店は把握していたんだ」

「なにそれ! 食いしん坊みたいに言わないでよ」

「いやいや。食いしん坊でしょ? いやしいって言うか」

「う、うるさいな。おごってあげないからね!」

 蒼は頬を膨らます。怒ったという仕草か。関口は苦笑した。

「べつにジェラートおごってもらうほど生活に窮していないけど」

「ああ、本当に可愛くないね! お礼でしょ? お礼」

「え! お礼ってジェラートで済むと思ってるんだ。うわ、浅はか」

「あのねぇ! 本当可愛くないね!」

 蒼の口から飛び出す悪口を聞くほど心が和んだ。彼は他の誰にも見せない顔を自分に見せてくれている気がするのだ。

 熊谷蒼という男はお日様だ。




― 第二曲 了 —
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...