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ダビデの詩篇歌集 SWV22-47
第1話 人が変わると空気も変わる
しおりを挟む「星野さーん。こんばんはー」
星音堂の静かな事務所に能天気な男の声が響いた。
——この声は……。
顔を見なくても誰だかすぐにわかると星野は思った。
「お前よお、寄り付くのはいいけどさ。ちゃんと練習してんのか?」
渋々と腰を上げてカウンターに行くと、そこには白いTシャツに濃紺色のカーディガンを羽織った男が立っていた。彼は白い歯を見せて、さわやか俳優気どりだ。
——おれは好きじゃねえ。
なのになぜか懐かれているのが嫌だった。
「そんな邪見にしないでくださいよ。今日は真面目に相談に乗って欲しいんですってば」
「おれに相談だって? 高いぞ」
男はにこにことしたまま、カウンターのところに設置されている椅子に腰を下ろす。星野はその向かい側の椅子に座って男を見た。
「今度の定演の曲が決まらないんですよ。なんか相談に乗ってくれません?」
男が取り出したのは『UMアンサンブル 第2回定期演奏会 演目』とタイトルが打たれ、その下に合唱曲のタイトルがいくつか並んでいた。
「ほう。今年はシュッツのダビデの詩篇集かよ」
「そうなんですよ。バッハもいいですけど、シュッツ、最高です! おれ好きなんですよね」
「しかし、お前んとこの編成だときつくねーか」
「なんですけどね~……。まあ各々頑張るってことで」
彼はあっけらかんと笑うが、ついていく団員は大変だと思った。ダビデの詩篇集はバッハよりも前のバロックの作品だ。8声から12声の構成は、少数人数の合唱団には過酷だ。
合唱にはさまざまな形態がある。一般的には混声合唱、男声合唱、女声合唱、少年合唱などである。
混声合唱は、通常は女声パートが高い順にソプラノとアルト。男声パートはテノールとバスだ。これが6声部になると、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルト、テノール、バリトン、バスという具合に増えていく。声楽は担当する音域の高低でパートが振り分けられるのだ。
今回のシュッツのように、声部が増えるということは、一声部を担当する人数が少なくなる。各声部の人数が減るほど、それぞれの力量がダイレクトに推し量られるということでもある。
——よっぽど練習しねーと。大変だろうな。
「お前ねえ。団長がそんな無責任な発言するかよ。だから菱沼先生と衝突すんだろ」
星野の言葉に男は苦笑いをした。
「星野さん、それ言わないでくださいよ。曲もそうだけど、そっちのほうが悩みですよ」
「上手くやれよ。先生がへそ曲げたらお前ら大変だろう?」
「わかってますよ」
UMアンサンブル団長の黒川は真面目な顔で答えた。
***
それから二、三の案を授けると、練習時間だと言って黒川は事務所を出ていった。それを見送ってから自分の席に座ると、斜め前の新人、熊谷蒼が物言いたげに星野を見てきた。
蒼の言いたいことは星野にはよくわかる。星野は無視しようかとも思ったが、そうきらきらした視線で見据えられると無碍にもできずに口を開いた。
「UMアンサンブルって、梅沢市を中心とした若手揃いの合唱団の団長、黒川だ」
「UMってなんかUFOみたいでカッコイイですね」
蒼は案の定の反応だ。星野は苦笑する。
「UMって聞こえはいいが、ただの『うめざわ』の『うめ』の部分を取っただけだ」
「ああ」
蒼は納得した顔をしたかと思うと「ふふ」と笑った。
蒼が配属されて二か月。事務所の雰囲気は随分変わっていると星野は見ていた。
蒼が配属される前に、蒼の席に座っていた男は、野獣染みた人間味に欠ける男だったからだ。彼がいた頃は、無駄話をしていると冷たい視線が飛んでくるし、一番下っ端だった吉田は萎縮して大人しいしで、ぎすぎすした雰囲気がいつも根底に流れていた。
ところがその男が一人抜けて、この天然新人が入ってきたことで、吉田は先輩として頑張っているし、周囲の雰囲気も明るく朗らかになった。
——人が変わると空気も変わるもんだな。
蒼は仕事の覚えが早かった。真面目で丁寧、仕事に向き合う姿勢も一所懸命でみんなの好感を得ていた。星野もその一人である。
最初は新人なんてめんどくさいと思っていたものの、二か月が経過し、持ち前の世話焼き根性が発揮されて、こうして蒼の面倒をみているというしだいであった。
——まあ、明るいだけじゃねえ。なにか抱えているようだけど。そんなものは人間誰にでもあることだ。
「お前は音楽やったことないんだよな?」
「そうです。本ばっかり読んでいました」
「へ~。どんな本読むの?」
「えっと……広辞苑とかですかね」
蒼の返答に星野は「ぶ」と吹いた。
「なあ、それって読書に入れていいのか?」
「え? ダメですか?」
「いや。いいや。いい。お前がそれでいいならいい」
星野は苦笑した。
——本当に、こいつには救われるな。
今日は星野と蒼とでの遅番だった。遅番は基本的に二人セットで行うようになるが、ここに残業組が入って賑やかになることも多い。
しかし今日は、珍しく星野と蒼だけだった。蒼はまだなれないのか、遅番の時は緊張しているようだ。遅番でこうして座っていても表情が硬いのだ。そんな蒼の様子をくみ取っている星野は、こうして無駄な話をしながら蒼との交流を図っていた。
「それにしても星野さんって、本当音楽のこと詳しいんですね」
「え?」
「だって、演奏会の曲目の相談って、すごいじゃないですか」
「そうか?」
星野にとったら普通のことかも知れないが、蒼には物珍しいということなのだろうか?
しかしそんなに褒められたことでもないのだ。そう——そんなに褒められたことではないのだ。
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