地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

文字の大きさ
35 / 94
ダビデの詩篇歌集 SWV22-47

第3話 心の渇き

しおりを挟む

 


 菱沼ひしぬまは今年七十歳になる古参音楽家だ。もともとは高校教諭で現役時代から合唱を指導していた男だ。星野は彼と話をするのが好きだった。彼の音楽論が星野の感性にマッチしていたからだ。 

「黒川、今日はこの話は終わりだ。星野くんたちに迷惑だろう。日を改めよう」 

「先生! もうこの件は何度もお話しておりますよ。はぐらかさないでくださいよ」 

 若い黒川に推され気味な菱沼を擁護するわけではないが、つい星野は口を挟んだ。 

「黒川、もっと穏やかに話し合いをしないと……」 

 星野の声に、黒川は今度は彼に食ってかかった。もともと熱のある若者だ。いつもはさわやか系だが、こういうところはさすが団を結成して運営するだけのパワーがある。 

「星野さん! あんたは部外者だろう? 口出ししないでくれ。音楽の一つもやっていないくせに——」 

「黒川! お前。星野くんに失礼なことを言うんじゃない」 

 ——音楽の一つもやっていないくせに……。 

 顔面パンチを食らったみたいにくらくらとした。つい思わず側の壁に手を着く。菱沼はきっと黒川をにらみつけた。 

「黒川。お前は自分のエゴを通そうと周囲を傷つけるつもりか? おれは、それを良しとはしない。音楽をやるということは、そういうものではないからだ。お前がそういう態度なら、おれはしばらく練習は遠慮させてもらうよ」 

 菱沼は怒りとも落胆とも取れない複雑な表情を浮かべる。それを見て、黒川はかっと顔に血が上ったのか、さっさと走り去った。 

 取り残された菱沼は、立ちつくしている星野を見つめた。

「星野くん、すまないね。僕の指導が悪かったようだ」 

「い、いえ。いいえ。大丈夫です」 

 ——大丈夫じゃねー! 

 しかし菱沼にあたっても仕方のないことだ。何事もなかったかの如く、取り繕おうと努力するが、その言葉は星野の根幹まで傷つける強烈な言葉だった。 

「黒川はパワーがある分、爆発すると周囲への配慮に欠ける。今回も定期演奏会の演目で衝突してしまってね……」 

「そうですか」 

「僕はね。お客さんに喜んでもらいたいんだよ。難易度の高い曲を羅列しても退屈なだけだ。途中にお楽しみ曲を入れたいんだけどね。どうしても聞き入れてくれないんだ」 

「——そうでしたか。おれは、先生の言い分のほうが最もだなって思いますけど」 

「さてね。黒川がどう考えるか。頭を冷やしてくれるといいんだけどね」 

 菱沼は寂しそうに笑うと、「僕も失礼するね」と立ち去って行った。 
 星野はその場でじっとしていた。 

「きついな……」 

 ——苦手なら、もう触れなきゃいいのに……。 

 光に憧れて、つい寄って行って身を焦がす虫と同じだ。 いくら恋焦がれても、それを手にすることはできないのだ。触れれば触れるほど、ジリジリと体が焼かれるように痛みを伴うだけだ。

 姉はもうすっかり音楽など携わっていない。東京で出版会社に勤務している。音楽には興味がないと常に言っている。

 彼女の興味はもっぱら観劇だ。美しいものへの憧憬はあるにせよ、興味を持つところは音ではなく視覚だ。

 やりたくてもやれなかった自分は今でもこうして追い求めているというのに——だ。

「くそ」

 握りしめた拳で壁を叩いてじっとしていると、人の気配にはっとした。

「星野さん?」 

 ふと顔を上げると、あおが心配そうな顔をして立っていた。 

「あ、悪りぃ……」 

「大丈夫ですか? 星野さん」 

 ——こいつは、ちょっとしたことにすぐ気が付く。そういうところ、嫌になるな。 

「蒼」 

「はい」 

「お前、これから予定ある?」 

「え? ないですよ」 

「じゃあさ、付き合えよ……」 

 目を瞬かせている蒼にそれ以上のことは言わずに星野は歩き出した。 

 


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム

ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。 けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。 学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!? 大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。 真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...