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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
第1話 引っ越し
しおりを挟む市民オーケストラの定期演奏会は土曜日の夜に開催予定になっていた。その週の月曜日。関口に押し切られて、あれよあれよと蒼は引っ越しを行った。
もともと大した荷物もない男だ。四月から数か月しか住まなかったアパートを片付けることなど容易《たやす》いことだった。
大きい家電——と言っても洗濯機くらいだが——は、大学時代から使っていたものなので、処分してしまっても構わないと思い、それだけは業者に依頼した。冷蔵庫は小ぶりなものがそもそも部屋に備え付けられていたので、そのまま。ベッドなどという大型家具は一つもない蒼だったおかげで、引っ越し業者に頼むほどでもなく。関口の自家用車を使って二人で何往復かしただけで済んだのだった。
「しかし、本が重い」
最後の段ボールを一番奥の部屋に置いた関口は不満を洩らした。
「だから引っ越しなんてしないほうがいいんだって」
「生活感ないのは僕だけじゃなくて蒼もでしょう? なにこれ。本しかないじゃない」
「だって好きだし」
「しかも辞書ばっかり。どういう趣味しているんだろうね。この子は」
「うるさいな。あのねえ、いろいろと文句言うなら食費出しませんからね」
蒼の言葉に関口は黙る。黙るしかないのだ。世の中、お財布を握っている人間が立場上強くなるのは当然のことだった。
「とりあえず、荷物は運びこんだし。後の片付けは自分でやれる?」
「それくらいできます。っていうか、定期演奏会まであと五日でしょう? 練習しなくていいの? 関口、ソロやるんでしょう?」
蒼の言葉に彼は曖昧な返答をした。それから、「夕飯は」と言いかけた。
「おれやるから、練習どうぞ」
彼は複雑な表情を浮かべてから頷いて出ていった。彼が防音室に入ってしまうと、家屋内は静寂に包まれる。
秋の匂いのする庭先は少しずつ葉の色が変わってくる。時折飛んでくるのはシジュウカラだろうか? いや。ムクドリかもしれない。
「大きさが違うからわかるだろう?」と星野には言われるが、並んでいるならまだしも、蒼には区別をつけるのは難しいように思われた。
部屋から見える庭の景色が見慣れていないおかげで、なんだか落ち着かない。
——今日から本当にここに住むの? おれが?
なんだか信じられない。蒼はそう思う。
どうしてこんなことになったのかわからない。まさか関口と一つ屋根の下に住むことになるなんて……。最初に会った時には想像もいていなかったことだった。じっと庭を見つめながらそうしていると、不意に咳き込んだ。
先日の台風の夜から、蒼の予測通り、喘息の症状がぶり返していた。星野には「大丈夫」なんて言ったものの、結局は実家の外来を受診し栄一郎に薬を処方してもらったのだ。今日は荷物の運搬でかなり負担がきたのだろう。仕事用のリュックの中から吸入薬を取り出してそれを吸い込む。即効性のある薬だ。すぐに良くなる。
一緒に住まうのはいいが、関口には心配をかけたくはなかった。今週末の定期演奏会。そして、年明けにはコンクールが控えている。
あれから関口はコンクールに応募した。彼がコンクールに応募をしたことを事務所のみんなは知っているが、誰も大げさには言わない。みんながみんな、心の中でひっそりと彼を応援しているということはよくわかった。
星野曰く、コンクールは一般的に録音審査が入る。ある程度の腕前の人だけに振るいをかけておかないと、ろくでもない参加者に時間を費やされる可能性があるからだそうだ。
今回の梅沢新人音楽コンクールも同様で、申込期間はそろそろ締切を迎え、録音審査が十一月末に行われるとのことだった。参加者はそれまでに任意の曲を録音し提出する。
『普通は録音審査にも課題曲が割り振られることが多いんだ。なにせ、なんでもいいってことになると、曲の難易度がバラけちまうからな。そこが経験浅い梅沢新人音楽コンクールの失態だよな』
星野はそう言っていた。
『参加者も困るわけだ。どのくらいのレベルの曲弾くの? って話だ。まあ、今回は何次予選もなしに録音審査からの本選だからよ。本選の課題曲のレベル相当の曲選べばいいんじゃねえのか』
蒼にはよくわからない話ではあるが、ヴァイオリンの曲にも難易度というものが存在するのだろう。本選で設定されている曲と同等の難易度の曲が弾きこなせれば本選に選ばれる可能性が高いという星野の解釈だ。
今回のコンクールは三つの部門に分かれていた。ピアノ、声楽、ヴァイオリンである。本来はパイプオルガンも加えたかったようだが、そうなると本選の日程が長引く。審査員のスケジュールと、初めて開催という不慣れなところで大きく広げるのは得策ではないという主催者の判断があると星野が言っていた。
これから、関口はきっと大変なことになるのだろう。素人の蒼からしたら、彼がどんなに大変な道を選択したのか想像もつかないことだが、迷惑だけはかけたくなかった。少しでも力になりたい。そう思っていたのだ。
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