地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番

第4話 トミさんの麻婆豆腐

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 気分が悪かった。 

 ——あの男と会うと本当に気持ちが悪い……。 

 明日は定期演奏会の本番なのに、このタイミングで姿を現すなんて嫌がらせに違いないのだ。 

 親というものは残酷だ。子供の気持ちなんて関係ない。自分のエゴばかり押し通してくる。 

 ——どうしてそっとしておいてくれないんだよ。 

 心の中で悪態を吐いても、もう取返しのつかないことなのだ。あの男の姿を目にしただけで、もう心がざわついて荒波のようにうねっているのだ。 

 ここにきて関口の気持ちは安定していた。あおという人間がいてくれるからだ。音楽のことをなに一つ知らない。共通の話題もあるわけでもなく、ただ同じ空間での時間を共有しているだけの間柄だ。だがそれがよかったのかも知れない。
 
 今まで生きてきた世界は、足の引っ張り合いばかり。心許せる人間なんて周囲に一人もいなかった。自分に寄ってくる人間は父親である関口圭一郎目当て。もしくは、自分の足を引っ張ろうとしたい人間だった。
 だから、誰も信用していなかったのだ。なのに——。

 蒼にはそういう利害関係など無縁だ。それが関口へ安寧をもたらしてくれる理由だ。

 せっかく安定してヴァイオリンを弾けていたのに。やはり関口圭一郎という男を目にすると、気持ちがぐらりと揺れるのだった。 
 彼はそれだけ関口の根底を揺さぶってくるくらいの影響力を持った人間なのだ——。

「くそ」 

 まったくもって集中できない。せっかくいい感じで仕上がっているというのに……。 

 寝るとは言ったものの、到底寝られるとは思えない。イライラした気持ちを持て余し、そして頭をもしゃもしゃとかき乱した。 

 ——イライラする。 

 関口は思い立って襖を開けた。居間には蒼が正座をしていた。自分に配慮してくれたのだろう。静かに夕飯を摂っているところだったようだ。 

「ご、ごめん。今、片付けるね」 

 彼は慌てて箸を置いた。テレビもつけずに静まり返った部屋で夕飯を食べさせるなんて——。関口はそんなことをさせている自分に更にイラついた。 

 ——バカか。本当に。僕はなにをしている。 

「蒼!」 

「はい!」 

 大きな声に蒼は肩を竦めた。 

「僕も食べるから」 

「あ、関口、まだだったんだ。ごめん。おればっかり」 

「いい」 

「持ってくるね」 

 彼の座っていた隣に腰を下ろすと、入れ違いに蒼は席を立ち、そして台所に走っていった。がちゃがちゃと台所で食器を動かしている音を耳にすると、少し気持ちが落ち着いた。誰か人がいてくれるということが嬉しく感じられたのだ。 

 ふと顔を上げると、お盆に夕飯を載せた蒼がじーっと関口を凝視していた。 

「なに?」 

「いや、あのねえ。ニヤニヤしているけど、大丈夫?」 

「失礼だね。蒼は」 

「だって。本当のことだし……」 

 蒼は不可思議な表情を浮かべながら関口の前に茶碗と味噌汁のお椀、それから春雨入りの麻婆豆腐を置いた。 

「関口の麻婆豆腐美味しいよ。春雨入ってるの好き」 

 彼はにこっと笑みを浮かべてから自分も食事に戻る。正直に言うと本当に彼には救われている。とげとげした気持ちを和らげてくれるのだから。 

「そう? 当たり前じゃん。僕が作ったんだから」 

「素直に『ありがとう』って言えばいいのに。本当に可愛くないんだから。——関口は料理はどこで習うの? お母さん?」 

「母親は家にいた試しがないからな。いつも面倒みてくれたトミさん」 

「トミさん?」 

 蒼は首を傾げた。 

「蒼の家も家政婦さん来てたって言ってたじゃん」 

「そうだけど。家はいつも違う人が出入りしてたから。特定の人ってわけじゃなかったな」 

「そうなの?」 

「食事の時だけ来てくれるんだよ」 

「ふうん。家は住み込みの人頼んでいたから。おむつ交換から、身の回りのことが出来るようになるまではトミさんが全部やってくれた」 

「おばあちゃんみたい」 

「そうそう。もうおばあちゃんだよ。まだ家にいてくれる」 

「なら帰ってあげないと。心配しているんじゃないの」 

 蒼は箸を止めて関口を非難するような表情を浮かべた。 

 ——すぐこれ。蒼は人のことになると一生懸命。 

「週末帰った時は寄ってるし。明日の演奏会終わったら一度東京行ってくるから大丈夫だ」 

「ならいいけど」 

 関口の返答に蒼はほっと息を吐いた。そして食事を始める。いつもだとああだこうだと話をする男だが、今日は圭一郎の件で遠慮しているのだろうか。珍しく静かに黙々と食事を摂っていた。 

「あいつは、僕の父親だ」 

 関口は唐突にそう口にした。蒼はびっくりしたようにきょとんとした顔をして関口を見ていた。 




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