地方公務員になってみたら、配属されたのは流刑地と呼ばれる音楽ホールでした。

雪うさこ

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交響曲第9番  d moll Op.125

第1話 新しい師匠

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 ヴァイオリンケースを背負い、くしゃくしゃになったメモを眺める。 

 ——本当にこんなところなのか? 

 メモに書かれている住所は確かにここ。大きなマンションの向かい側にあるその店は、まだ開店していないようで、紫色の看板は消灯したままだ。隣にも居酒屋が数件並んでいる。夜になると賑わうのだろうが、日中は閑散としているものだった。 

 『くれぐれも夕方前には行くように』と柴田が言っていたのは、こういうことか。店が始まると忙しくなるということだろうか。 

 何度もメモとスマホを確認し、やはりここだと思うしかないとあきらめてから、古びた木製のドアを押した。 

「あの——」 

「まだやってないよ」 

 中にいた女性は長い黒髪をポニーテールに結い、モップで床の掃除をしているようだった。 

 ——タバコ臭い。 

 そばのテーブルに置かれている灰皿からはタバコの煙が漂っていた。 

 ——本当にここなのか? 

「あの。柴田先生からこちらに来れば、ヴァイオリンを教えてもらえるって聞いたので伺ったのです」 

「ああ。聞いているよ。あんた——」 

「関口けいです」 

 やはりここで間違いはないようだが。 

 ——この女性が柴田の師匠だって? そんなはずない。だって……。 

 目の前の女性は柴田よりも随分と若く見えたからだ。 

 関口は女性に頭を下げたが、彼女は大して興味もなさそうに大きな目を細めると、それから掃除の作業に戻る。 

 ——無視なの? なんだよ。この女……。 

「あの」 

「うるさいね!」 

 女性はきっと関口をにらんだ。 

「桜だよ。——あんた。圭一郎の息子なんだってね」 

 突然、父親の話題に取り繕うこともできない。思わず顔に出る。それを見て、桜は大笑いした。 

「あははは! やだねえ。まだまだ子供じゃないか。父親の大きさに萎えてんのかい? 小さい男だね」 

 彼女の言葉は図星だ。言い返したくとも言葉が出てこない。 

「まあ、いいけど。どれ一曲弾いてみせな」 

「え?」 

「楽器持ってんだろう? なにしに来たんだよ。グズ」 

 目鼻立ちがぱっちりとしてエキゾチックな匂いのする美人なのに、口を開けば汚い言葉ばかり出てくる。本当に彼女が自分にヴァイオリンを教えてくれるというのだろうか? 正直に言うと疑いしかない。しかし、こうしてもいられない。 

 関口はヴァイオリンケースを開いて愛器を取り出し、そばのピアノで調弦する。 

 ——スタンウェイだって? 

 驚きを隠し切れない様子で準備を整えてから、とりあえず録音審査に応募したシンディングの独奏ヴァイオリンのための組曲「シャコンヌ」を奏でる。 
 嵐の夜に蒼に初めて聞かせた時の曲だ。

 その間、彼女はモップを側に立てかけてから、グラスにビールを注いで飲み始める。正直、こんな場所で演奏なんてしたこともない。変な緊張感の中、途中で止められることもなく最後まで弾き切った。 

「どうでしょうか」 

 余韻を残し、弦を下ろしてから桜を見つめる。彼女は軽くため息を吐いた。 

「やだねえ。まだまだじゃない。なんで柴田も寄こしたんだよ」 

「え?」 

「まあ、いいや。とりあえず今日からここで弾きな」 

「は!?」 

「ちゃんと日当支払ってやるから。どうせ、コンクールに専念するなんてかっこいいこと言っちゃって無職なんだろう?」 

 ——なぜわかる!? 

「あ、あの」 

「桜だよ。呼び捨てでいいよ」 

「って、桜さん! 僕はレッスンをつけてもらいに来たんですよ」 

「はあ? そんなの知らないねえ。ちょうどピアノ弾きが辞めたばっかりでね。よかったよ。まあ、クズみたいな演奏でもないよりはましだろう? 文句があるなら柴田に言いな。あたしは知らないよ」 

 桜はそう言い放つと、口元を上げて不敵な笑みを浮かべた。 

 ——嘘だろう!? なんだこれは? 

 軽く眩暈がするが、桜はまったく相手にするつもりはないようだ。関口にモップを押し付ける。 

「開店までに掃除しておきな」 

「……」 

「返事は」 

「……はい」 

 柴田から聞いている話と全く違う。関口はなにがなんだかわからなかった。 




 

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