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無伴奏ヴァイオリンソナタとパルティータ 第一番
エピローグ そして……それから。
しおりを挟むその場所は梅沢駅の東口側、十五階建ての建物の最上階にあった。遠方から見てもすぐにその施設がどんな機能を持っているか一目瞭然だ。
銀色の半円型の大きなドームがガラスでおおわれている。太陽の光を浴び、輝くようなその物体を地上から見上げていると、「蒼」と声がかかった。
墨色のコートに瑠璃紺色と黒色のチェック柄マフラーをした関口が蒼の名前を呼んだのだ。
「ほら。上映時間に遅刻する」
「あ。うん」
あれから——。
関口はコンクールで無事に一位を獲得した。梅沢市制百周年記念の一環として、来年度に開催される予定のリサイタルへの出場権を手に入れ、ヴァイオリニストとしての小さな、それでいて彼にとったら大きな一歩を踏み出したのだった。
そして、今日は約束のプラネタリウム。コンクールで優勝したら来る約束をしていた場所だ。友達と出かけるということに馴染んでいない蒼からしたら、女の子とデートをする時くらいドキドキするイベントだった。二人はエレベーターに乗って最上階を目指す。
「帰りにラプソディに寄っていい?」
「いいけど。——ねえ、コンクール終わっちゃったし。もうラプソディで弾かないの?」
「そうだね。どうだろうね……」
「これからどうするの?」
平日のこの場所は人が少ない。二人きりのエレベーターは静かだった。
「今まで通りだよ。市民オケに行って、ヴァイオリン協会の講師に復帰でしょう。それから東京の明星オケにも戻るけど……春からは正式採用になると思うから、そっちが忙しくなるかもね」
「その明星オケはコンマスなの?」
「んなわけないでしょ。ペーペーだよ。コンマスになるには、また試験受けなくちゃいけないけど……僕にはまだまだ経験が足りないかな」
「じゃあ、まだいる? 梅沢にいるの?」
「そうだね。嫌だって言われてもいると思うけど」
「——でも、収入も戻るわけだし。おれ、出て行ったほうがいいかな……」
不安げな瞳が揺れる。
——もう一緒にいる意味がないしね。
しかし関口は肩をすくめた。
「ねえ、蒼さ。気が付いていないと思うけど、僕の家に来てから荷物増えたでしょう?」
「へ?」
「本買いこんでいるもんね」
「そ、そうだけど……」
はっとして顔を上げると、関口の眼鏡の奥の瞳は優しい色を帯びていた。
「引っ越すの大変じゃない。実家に帰るなら話は別だけど——。新しいアパート契約するにも大きなお金が必要だ。僕は東京との行き来も増えるかも知れないし。なにも気兼ねしないでいればいい。僕も誰かが留守番をしてくれると思うと安心できるしね。——と思うんだけど?」
「そ、そっか。わかった。いいよ。そんなに頼み込まれちゃうと、断るわけにはいかないな~」
蒼はぷっと視線を伏せた。
——なんだか関口じゃないみたいだ。
あのホールで堂々たるソロを響かせた彼は、彼であって彼ではなく見えた。だから気恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。だがやはり、関口は関口だ。
「ピン」とチャイムの音が響いて扉が開く。眼前に広がった銀色の半円の建造物を見上げてから蒼は「うん」とうなずいた。
「仕方ないね。おれがいないとダメなんでしょう? いいよ」
「本当。蒼は生意気」
「うるさいね」
いつものように軽いテンポで言葉を交わしながら二人はプラネタリウムに向かった。
***
古ぼけた昭和時代の建物は老朽化が甚だしい。がたがたと窓を揺らして入ってくる隙間風と相反するように轟々と燃えているストーブの横で、水野谷は目の前にある書類を見切ってから机に置いた。
「決まりだね」
目の前に座っていた男——教育委員会文化課長の野原は表情を変えることなく「ええ」と答えた。
『指定管理者制度の導入及び運用に関するガイドライン』
「管理運営方法の検討が終了いたしましたので、次年度から動き始めることになるかと」
「なんだか寂しいねえ。これが星音堂《せいおんどう》のためになるってわかっているんだけどねえ」
「同感です。しかし、それがあのホールのためでもある——」
「野原の言うことは正論なんだけどね。僕はね。あのホールにとてつもない愛着を持っているようだね。嫌だねえ。年を取ったのかな?」
ふふふと軽く笑う水野谷の様子を伺っていた野原は眉一つ動かさないが、水野谷にはわかる。彼もまた、苦渋の決断だったということ。
「どこか心ある団体が応募してくれるといいんだけど」
「そうですね」
「ねえ、野原」
「はい」
「キミ、異動なんだってね。どこに行くの?」
「農産業振興課です。——星音堂の件は、自分で決めておいて、最後まで見届けられないのが残念で仕方がありません」
「そっか。仕方がないよね。——体、大事にね」
水野谷はそう呟いてから、ガイドラインを野原に返した。
「水野谷課長……。あの」
「僕が星音堂で働けるのもあと一年だ。まあ、頑張りますよ。本庁に戻ったらよろしくね」
「——はい」
蒼白な顔色の野原を見てから水野谷は「どれ」と立ち上がった。
「そうなると少しでも長くあの場所にいたいものだ。帰りますけど……また飲もうね。ドラゴン・ファイヤーでね!」
野原は困惑した顔をしていた。氏家の親父ギャグを思い出しているに違いない。
水野谷はにこっと笑顔を見せてから本庁の会議室を出た。
***
「蒼ちゃ~ん」
事務室に響く女性の声。蒼はぎょっとして、身をかがめようとするが遅かった。やって来たのは、梅沢市民オーケストラの秋元と橘だ。彼女たちは凝りもせずに蒼のところにやってくる。
「ねえねえ、今日は早めに練習終わるんだから。一緒に夕飯行きましょうよ」
「行きませんよ。おれ、忙しいんです」
「嘘だ~」
「いいじゃないの」
カウンター越しに蒼を誘う女性二人の元に星野がやってくる。
「おいおい。姉ちゃんたち。おれが付き合ってやろうか?」
「え~。星野さんじゃ、ヤダー」
「え~。そんなストレートに言わなくてもいいじゃん」
星野は秋元の声色を真似て体を揺らす。
「だって~。気持ち悪いし。星野さん。じゃあ、いいや。バイバイ」
「またね! 星野さん」
さっさと退散していく二人を見て、星野は「ちぇ」っと言ったかと思うと蒼の頬をつねり上げた。
「いだだだだ……っ、な、なんなんれすか!」
「お前ばっかモテてつまんねーし」
「別に、おれはいい迷惑ですよ」
星野の腕をつかんで引きはがすと、彼はふんと踵を返した。
「今日は蒼のおごりな~。夕飯。ソラマメでいいからな」
「え! そんなのとばっちりじゃないですか」
「いいの。新人野郎は先輩に奉仕しなさいよ」
「課長みたいな口調したって駄目ですからね。パワハラで人事に訴えます」
「きー。生意気言っちゃって。最初の可愛さはどこにいっちゃったんだろねえ。——ほらほら。さっさとラウンド行ってこいっつーの」
星野に足蹴りをされて事務室から追い出される。橙色の淡い光の廊下に出ると、なんだか心が落ち着いた。
蒼が星音堂に来て一年が経とうとしていた。最初はどうなることかと思った。周囲に哀れみの目で見られ、流刑地と言われて、不安しかなかったのに。
市役所職員としての仕事だと思い責務として取り組んだ。しかし仕事として、だけではなかったのだ。
この場所に来てから蒼の人生自体が、がらりと様変わりをした。
そう、今まさに。熊谷蒼は自分らしく人生を歩み出しているのだった。
地方公務員になって配属されたのは、流刑地と呼ばれる音楽ホールだったが、そこは蒼にとったら掛けがえのない大切な場所になったのだ。
「よっし! 頑張るもんね」
蒼は懐中電灯を手に持ち、中庭を横目に施設内を歩いた。蒼の星音堂人生はまだ始まったばかりだった——。
— 第10曲 了 —
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