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第14章 彩られる世界
02 心が知りたい
しおりを挟む渡辺が早退し、その代わりとして同行した保住はいつもの如く、相手に不快感を与えないように、うまく短時間で挨拶回りをこなした。
やはりこうしてそばで見ていると、彼の交渉術はスマート。素直に勉強すべき点が多いと感心するが、今までみたいに上手くコミュニケーションが取れないことがもどかしい。
せっかく一緒にいる時間が得られたというのに、どこからどう切り出したらいいのかわからないし、なにより勤務中である。それに一緒にいても彼は、移動の間は書類を見ているか、目を閉じていた。
完全に拒否されている態度に、田口は踏み込めずにただ、黙っていることしかできなかった。
「楽器店には、スタッフの増員をお願いした方が良さそうですね」
ハンドルを握りながら田口は呟く。シートに体を預けたまま、保住は軽く息を吐いた。
「管弦楽団専属で連れてくるスタッフもいるのではないかと思う。有田さんに確認をしておかなければならないな。他に管弦楽団のサポートとは、なにが必要なのだろうか?」
「水分や食料の調達……でしょうか?」
「確かにな。それは大切だ。渡辺さんが出てきたら相談しておけ」
「承知しました」
仕事の話だとこんなにスムーズなのに。必要なやりとりが終わると、すぐに窓の外に視線を向ける保住。
——こんなにそばにいるのに……遠い。
隔たりは大きいと実感させられた。今の現状は、かなり厳しかった。
移動途中、運転をしている田口は、ただ黙り込んでまっすぐ前を見ることしかできない。信号で停止してしまうと、車の中は居心地が悪い静寂に支配されている。時間は五時を過ぎた。渡辺と回っても戻りは六時過ぎ予定だったので、少し早めに物事が進んでいると言えた。
最後の訪問場所である印刷会社を目指して、車は走った。だんだんと帰宅時間と重なり、道路は渋滞気味だった。
田口に視線も寄越さない彼がもどかしい。少し手を伸ばせば届くところにいるはずなのに。
好きの気持ちは誰にも負けない。だけど、相手に拒絶されているのかと思うと辛い。挫けそうになる気持ちは、自分でも重々理解できるのだが、それでもなお、この気持ちを押し隠すことは限界に来ていた。
——伝えよう。今日。全部が終わったら。保住に伝えるのだ。今日しかない。
今日を逃したら、こんな機会は永遠に訪れない気がした。田口は心を決めて、まっすぐに前を向いて、目的地に車を停車させた。
***
「それでは、よろしくお願いします」
辺りは暗かった。印刷会社での打ち合わせは、思ったよりも時間を要し、時計は六時半を回っていた。
「いいものになりそうだ。よろしくお願いします」
予想外に時間を超過しだが、印刷会社の担当者はニコニコ笑みだった。打ち合わせをしているうちに、どんどんアイデアが出てきたようで、当初のものから比べると大幅に変更を余儀なくされたのだ。
しかし、相手は満足しているようだった。やはりプロなのだろう。いいものができると嬉しい。そんな顔だった。
保住とのことで、気持ちが塞ぎ込んでいるものの、こうしていい方向に進んでいるプロジェクトを見守るのは嬉しい気持ちになった。
しかし、担当者に頭を下げて、二人きりになると、やはり現実に引き戻された。
田口への労いの言葉も少なく、保住はさっさと公用車に乗り込んだ。
「終わったな。さすがに疲れた」
「お疲れ様でした。渡辺さんの代わりで大変でしたね。直帰しますか? ご自宅にお送りしますが」
田口の提案に、彼は視線を逸らす。
「いや。いい。戻る」
「わかりました」
そして沈黙。なぜこんなことになってしまったのだろうか。正直、田口にはわからない。自分は保住に指示をされて、神崎のサポートを任された。仕事として、それを全うしただけなのに、帰ってきたら彼はこんな調子だ。
一体、保住の中でなにが変わってしまったのだろうか。
——澤井さんとお付き合いを始めたから? そのことを指摘されるのが嫌だから?
どうして、どうしての嵐。どんな結果であれ、保住の口から聞きたい。もう我慢できないのだ。辛い思いや、苦しい思いはたくさんだった。
——人を好きになるって、こんなに苦しいものなのだろうか?
彼と過ごした日々は、キラキラと輝いていて人生で一番楽しかった。なのに今は、一人でいた時よりもどん底だ。こんなに苦しいなら、いっそここから消えてしまいたいと心底思った。
帰宅ラッシュで予定よりも遅れて車は市役所に到着する。膨大にある公用車は、ほとんどが綺麗に並んで停まっていた。こんな時間に外勤に出ている職員はいないということだ。指定の場所に車を入れ、エンジンを切ると、「お疲れ」とだけ言って、保住が降りていく。
——待って。行かないで。
田口は慌てて自分も運転席から外に出ると、彼の腕を掴まえた。
「な、なに……? 田口……」
***
田口に腕を握られた保住は目を見開き、じっとしている。彼の熱がダイレクトに感じられて、戸惑ったのだ。それに、まっすぐに見つめてくる視線は、保住にとったら受け止め切れないくらい真摯で、とても誤魔化して逃げるなんてことはできそうになかった。
「離せ」
いくら暗いとは言え、誰もいないとは言え、こんな場所で……。保住は視線を泳がせて抗議した。
「嫌です。離したくありません」
しかし、田口は低い声でそう答えた。田口のそんな声を聞いたことはない。保住は狼狽えた。正直、田口も戸惑っているのかも知れないが、保住も同様だった。どうしたらいいのかなんてわからないのだ。
こんなうだうだのなか、田口と半日も一緒に過ごせただけで自分としては上出来なのに。精神的に疲弊しているおかげで、もう限界だった。
「田口……」
視線が泳いで、隙だらけの保住をいいように扱うのは容易なことだと言わんばかりに、田口は保住の腕を力任せに引っ張り、側の管理棟の壁に追い込んでくる。
「帰しません」
「な、なんなのだ? そんな怒らなくてもいいだろう……」
こんな乱暴な彼は見たことがない。
——いつもは従順なくせに。
逃れたいのに、逃れさせてくれない田口が怖い。
「保住さん、おれが嫌いになりましたか?」
田口は真っ直ぐに保住を見つめてきた。その視線は熱がこもり、田口の必死の気持ちが伝わって来る。浅はかで、後ろめたいことばかりの保住には、到底耐えられるものではなかった。田口の視線を直視できずに、保住は思わず顔を背けた。
一日の終わりは、精神的にも疲労が蓄積していて、お互いが追い詰められている。こんな状況で話し合うなんて、いいことではないと思うのだが、田口は止めるつもりはない。もう止められないということをひしひしと自覚していた。
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