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第18章 飼い犬に手を噛まれる
03 嘘
しおりを挟むその日の夕方、四時を回った頃、事務局長の佐久間が顔を出した。
「保住ちゃん、ごめん。おれ、これから会議なんだけど、県から呼び出しきちゃってさ。こんな時間なんだけど行ってきてくれない?」
「はい」
「野原くんも出張でいないし。どうやら、記念館のことみたいだから」
野原とは佐久間の後任で異動してきた新しい課長のことだ。佐久間は本当に「悪いな」と何度も手を合わせる。
「承知しました」
「助かる! ありがとね。報告は明日でいいから。あ、それから直帰してもいいし」
保住はふと十文字を見る。
「いえ。記念館のことであれば十文字を連れて行くので、一度戻ります」
十文字はキョトンとしていたが、「はい!」と頷く。
「そう? まあいいけど。任せるよ」
「ありがとうございます」
佐久間は申し訳なさそうに頭を下げると姿を消した。それを見送ってから保住は十文字を見た。
「聞いた通りだ。残業になる。すまないな、十文字」
「いいえ。大丈夫です」
——また二人で……。わかっているけど。
ヤキモキする気持ちが膨らんだ。仕事なんだから仕方ないじゃない。もう記念館の担当は自分ではないのだから。しかし依頼状の件は今日いっぱいと言われていた。
田口は保住に声をかけた。
「係長。依頼状のたたき台は……」
仕事に夢中になると周りが見えないのは仕方のないことだが、田口の気持ちなんて一つも理解していないのだろう。保住はあっさりと返す。
「明日でいい」
「はい」
——今日中にって言ったじゃない。
ぼんやりしていて効率も上がらない中、なんとかしようと奮闘していたのに。
「大変ですね」
「お疲れ様です」
渡辺たちに見送られて姿を消す二人。田口はため息しか出ない。どうしたらいいのか、見当もつかないのだった。
***
結局、しばらく残業していたが保住たちは帰ってこなかった。渡辺や谷口に誘われて、まだ仕事をしたかったが退勤した。二人も心配してくれているようだ。飲みにでも——と言われたが、とてもそんな気持ちにもなれない。体調が優れないとお断りをしてから自宅に帰った。
だんだん忙しく、なかなか保住との時間も取れない。土日も仕事で、悶々とした日々が続いていた。効率も悪いし、いつもの自分らしさもないし。踏んだり蹴ったりだった。
保住との付き合い方がわからない。
——どうしたらいいのだろうか。
彼がなにを考えているのかわからないのだ。
お付き合いをするなんて、本当に久しぶりだし、そう経験豊富なわけではない。それに輪をかけて相手は生まれて初めての男性だ。そして上司——。正直、嬉しい気持ちだけではやっていけないと言うことを痛感していた。
翌朝出勤すると十文字が先に来ていた。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「昨日、帰るの遅くなっちゃって……仕事が中途半端だったなと思って、早く来ました」
——遅い?
「そんなに遅くなったの?」
動悸がした。
「県の話は大した内容じゃなかったです。記念館でやってもらいたい企画があるみたいなことでした。係長は。随分と渋っていましたけど。記念館にも悪い話ではないから、結局受けることになって」
「そうか」
「で、帰りに係長が夕飯おごってくれたんです。それで」
「そ、そう……」
十文字は笑う。
「係長って、お酒入るとツンツンした感じじゃなくなるんですね。ふにゃって感じで可愛かったです。あ! 仲良しの田口さんに、こんなこと言ったらいけないですよね。すみません。朝から」
「いや。別に」
——全然気にしているくせに。気にしているくせに!
「おはよう」
渡辺が顔を出す。
「早いな。昨日は遅くまでお疲れ様」
「あ! 渡辺さん! おはようございます」
十文字は、なにやら答えているが田口の耳には入ってこない。そのうちに、谷口も出勤してきた。いつもは早い保住が遅い。彼は、八時半ギリギリになって顔を出した。
寝癖。
疲れた顔。
寝不足の時の彼だ。
「おはようございます。寝坊するなんて……」
「珍しい。昨日は飲みにでも行ったんですか?」
渡辺の問いに保住は首を横に振る。
「いや。夜遅くまで考え事をしていただけです」
——隠すのか? 十文字と飲みに行ったことを。
田口はますます気が気ではない。心がざわついて不安で支配された。保住は席について落ち着くと、田口を見た。
「田口、すまなかったな。昨日の書類は……」
保住が手を出すと、そこに数枚の依頼状を渡す。
「これです。見てくださいっ!」
「あ、はい」
ギラギラしている田口の視線に、流石に保住も身を引いたようだ。
「おれ今日は一日、星音堂の保守点検に立ち会いです! 夕方に戻りますから添削お願いいたします!」
ダンっと机を両手で叩いて、彼は事務室を出て行った。
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