田舎の犬と都会の猫ー振興係編ー

第26章 さらば、振興係

０１ 年度末

　そろそろ本気で異動に向けて動き出し始める時期が来た。異動対象に上がっている渡辺と谷口は、いや応なしに田口に仕事を引き継いでくる。それに合わせて、自分は十文字に仕事を引き継がなくてはいけない状況になっていた。

　星音堂せいおんどうに行く際は十文字を必ず同行させ、細かい事をその都度、説明していた。星音堂に行くと安齋がいる。飲み会の席ではなんだかんだと話してくるが、仕事になるとさっぱりよそ行きだ。今まで通りというのだろうか。

　あの研修以来。研修メンバーの四人はたまに顔を合わせて飲み会をしていた。『横のつながりは大事だから、いい事だ』と保住は言うが、そのくせ、自分は同期との付き合いを全くしていない。

　なんだか腑に落ちない気持ちになるものの、たまには違った人たちと意見を交わすと言うことは田口にとったら新鮮だった。部署を超えた同期の存在はなかなか興味深い。色々な視点を学べて有意義な時間だったのだ。

　しかし年度末を控えて保住はますます忙しい様子だった。毎晩のように帰宅は夜の十一時を回る。

　ここのところ田口の方が先に帰らされることも多い。

　——今まで年度末だからといって、こんなに忙しかっただろうか？

　出来る仕事は出来る限りサポートしているのだが、彼はなにやら書類作るで忙しい様子だ。いつもはパソコンを打つなんてことがあまりない保住なのに、パチパチと軽快にキーボードを叩く音がよく聞こえている。

　なんでも手伝える。自分にも教えて欲しいが口を噤んでしまわれると、なかなか聞き出せない自分に歯痒さしかない。そんなざわざわした気持ちの時期なのに、夕方、突然に爆弾発言が飛び出した。

「すみません。渡辺さん。今日の新年会、パスさせてください」

　「え？」と田口は目を瞬かせる。

　今日は係で新年会の予定だった。今朝までその話をしていて保住も行くつもりだとばっかり思っていたから、突然のキャンセル宣言に田口が一番驚いた。

「なんで……？」

　保住からの言葉につい田口は呟く。

　——なんで？

　今日一日でなにか行けない理由なんて出来たのだろうか。田口には心当たりがなかった。なんだか不安になった。

　時刻は六時を回っている。二月も過ぎているが、忙しくてなかなか時間が確保できなかったせいで、やっと新年会の予定が組まれていたのに。突然のことに田口は聞いていないとばかりに保住を見る。彼は本当に申し訳なさそうにした。

「今日中の仕事に目処がつかないのです。申し訳ありません。場所の予約もしてあることだし。みんなで行ってきてください」

　保住はそう言って渡辺に封筒を手渡した。どうやらいくらかのお金が入っているようだ。自分のキャンセル代とか、上司としての気遣いだとか、そういう類のものらしい。

「しかし……」

　保住の意思は固そうだ。全く動く気配もない。渡辺はそう理解したのか、頷いてからそれを受け取った。

「わかりました。係長の分も楽しんできます」

「そうしてもらえると助かります」

　彼はほっとしたように笑顔を見せる。本当に切羽詰まっているのだろう。

　しかしそんなに納期に追われるような案件はないのだ。一緒にいても係長の業務はよくわからない部分も多い。

　仕事ができることで安堵の表情を浮かべた彼を見て、無理矢理に新年会へ誘うことはしてはいけないことだなと理解した田口は「わりました」と呟いた。それから気を取り直したように笑顔を見せた。

「では、みなさんで参りましょうか」

「そうだな」
　
　ドヤドヤと帰り支度になったメンバーの中、保住が田口を見ていた。黙ってその視線に返すと、彼は「すまない」とだけ言った。本当は「そんなこと言わないで行きましょう！」と腕を引っ張りたいところだけど……。田口は頷く。

「無理しないでくださいね」

「ありがとう」

　彼だけ置いていくなんて。自分も居残りたい。そんな気持ちでいると、谷口が声を上げた。

「行くぞ、田口」

「あ、はい。……では」

　後ろ髪引かれる思いいっぱいだが、それを振り切るように事務室を出た。やはり隔たりがあるのだ。立場が違う。一般職の自分が係長の彼の仕事の全てを知る事はできないのだ。

　——早く隣に行きたい。

　焦る気持ちで胸がいっぱいだ。みんなを促しはしたものの一番ショックで行きたくないのは自分だった。


＊＊＊


　静かになった部署を眺めて保住はため息を吐いた。そこまでしなくてもいいのかも知れないが、色々と今回の人事は無理が多い。自分と渡辺、谷口が異動対象になっているため、彼らは自分たちが異動すると思い込んでいるが、実際はそうはならない。

　渡辺も谷口は異動の内示を見たら慌てることになるだろう。そうならないように後任者が困らないように準備が必要なのだ。議会も控えているので野原のサポートが必要なため、幾分業務量は増えていたが、自分が取り組んでいるのは自分がいなくなった後の事だ。

　渡辺たちが困らないよう業務のマニュアル作りにも手をつけ始めたのだ。時間が足りない。日常業務にプラスして残務整理は大変だ。

「もう少しだな」

　帰宅し始めている他の部署を横目に一人パソコンに視線を落とすが、一度途切れた集中力を戻すには時間がかかるようだ。軽く息を吐いてから、そっと誰もいない島を眺めた。

　ここに座って色々なことがあった。本当に色々だ。入庁してからあちこちの部署を回ったが、ここが一番思い出深い場所になることだろう。この席を別の誰かに譲るのかと思うと、保住のような男でも考えてしまうなんて、余程愛着ができてしまっていたのだろう。

「感傷に浸る質ではないのだがな」

　そんな思いに浸ってから気を取り直す。新年会を蹴ったのだから、それなりに仕事を進めないと。そして、ふと置いていかれる飼い犬みたいな目をした田口を思い出して笑ってしまった。「なんで？」「どうして？」と不安そうにしていた。

「もう少しだ。田口。辛抱しろ」

　保住は軽く息を吐いてからパソコンに向かった。