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2章
Happy birthday2
しおりを挟む「アレス様、これ……香水、ですか?」
身をよじって彼を見上げようとするが、首元に顔を埋められ、抱き寄せる腕に力を籠められて叶わない。それも息苦しいくらい強く抱きしめられて、言葉を継ぐのも躊躇ってしまう。
これがいったいどういう意図なのかさっぱりわからなかった。
水仙も、香水も、嫌いだと聞いている。
だとすれば、誕生日を教えなかったことをものすごく怒っていて、もう近寄るなという遠回しな苦言なのかもしれないとすら考えた。
そんな考えにほんのり涙目になっていると、手元からきゅぽっとかすかな音がした。水仙の香りがふわりと立ち上り、香水瓶の蓋を開けたのだとわかる。
アレスはそのまま瓶の蓋にわずかについた香水を指にとってから厳重に蓋を閉め、ディーネの両手首とうなじに香水をこすりつけると、再びディーネの手のひらに瓶を押しつけるようにして戻した。
「あの……香水……お嫌いなんですよね?」
彼は耳元に顔を埋め、深く息を吸いこむ。
「……ん。このくらいならいいな……」
吐息が耳にかかってくすぐったいが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
香水が嫌いという情報は間違いだったのかしらとびくびくしていると、彼はそのまま苦々しい溜息を漏らした。
「確かに強い香りは全般的に気分が悪くなるから嫌いだが、このくらいだったら許容範囲だ」
そう言ってから、ふんふんと鼻を利かせていい香りだと悦に入る。
「……あ、あの、水仙、も……」
とりあえず怒っているわけではないらしいとひとまずは安心したものの、耳元で穏やかな含み笑いをこぼされると、なにか体の奥からむず痒いような感覚が湧き上がる。
なんだかお酒に酔ったみたいにぽぅっと顔が火照って、あわあわと口ごもってしまう。
「香りが強い花は好まないというだけだ。そうやって噂話ばかり信用して事実を確認しようとしない姿勢は感心できないな」
「………はい」
彼の声がいつものようにちょっと冷ややかで、すっと頭に上っていた血が下がっていく。けれど。
「それに、そもそも――」
「ひゃっ」
そのままの体勢で唐突にぐいとベッドの奥に引き寄せられ、彼の膝の上に乗っかってしまったので思わず小さな悲鳴を上げてしまう。
「貴女が私の好みを差し挟む余地を与えてくれなかったんだろう?」
冗談半分に責められ、落ちた視界にはオレンジ色の灯りに照らされた香水瓶があった。瓶の首にかけられたタグにはとてもシンプルに《親愛なるディーネへ 誕生日おめでとう》と流麗な彼の筆跡で記されていた。
それを見た途端、頭が真っ白になって、しばし言葉を探す羽目に陥った。夜の空気に冷やされた背中がすっぽりと包まれて温かいから、なおのこと。
「ご………めん……なさい……」
けれどどれだけ考えてもただただ呆然と謝罪を絞り出すことしかできなかった。
「でも、アレス様、教えないとなにもやらないっておっしゃっていたのに……なんでですか……?」
それでもかまわないと、思っていた。
誕生日なんか来なければいいと、本気で思っていた。
誕生日は母の命日。父が墓前で泣きながら母に詫びる日。ディーネに死へのカウントダウンを否応なしに突き付ける日。
なのに、どうしてだろう。
嬉しい。
誕生日の訪れが、こんなにも心を震わせるなんて。
「あぁ、日付も好みも教えてくれないから、とりあえず実用的で日持ちするもので――思い出す限りでは水仙の香りを楽しむあなたが一番幸せそうだったな、と、これが考えうる精一杯だ」
精一杯――その言葉が胸に響くと、涙がぽろぽろと溢れて落ちた。
「ご……めん……なさい……ごめんなさい……っ!」
胸の奥から猛烈な勢いで溢れてくる様々な感情と涙が、喉を詰まらせた。アレスは一瞬ぎょっとしたが、すぐに苦笑いをこぼした。
「……気に入らなかったのか?」
「いいえ!」
ディーネは力一杯に首を振って否定し、香水瓶を握りしめた。
「……大事に……宝物に、します。そうじゃ、なくて――」
――私は、呪われているんです。
口にしようとしたその言葉が喉につっかえて、言葉を継ぐことができなかった。この呪いは当事者以外に伝えることができないよう、魔女が定めているからだ。
小さい頃はそのもどかしさに癇癪を起こして、無理矢理声に出そうとしたり喉を掻き毟ろうとした。そうすると、今度は意識が遠のいていって――結果、何度も卒倒して、体が弱いということになっている。
「…………っ」
今は卒倒するわけにはいかないので、何度も何度も、口に出せる言葉を必死に探した。そして、ようやく口の端にのぼらせることができたのは、
「……誕生日、秘密にしていて……ごめんなさい……」
たった、それだけの言葉だった。
「反省したなら来年は意地を張らずに何が欲しいか教えてくれ。こういう慣れないことをするとものすごく疲れる」
彼は呆れ混じりの笑顔を浮かべ、抱きしめる腕に力を込めた。
身の内に渦巻く敗北感を、ぴたりとくっついた背中から伝わる彼の体温が埋めてくれるような気がした。
「………はい」
なんとか涙を留めて頬を拭い、決意とともに返事をした。
来年の誕生日までには、すべてきちんと片づけていなければならない。
口にすることのできない決意を秘めた胸を押さえ、再びこぼれ落ちそうになる涙を留めて笑みを作る。
彼は満足げに笑ってから額に軽い口づけを落とした。
「約束する。来年は2年分盛大に祝う」
胸が捻れるように痛んで息苦しくなるが、それでも笑う。
「……はい」
来年、ここにいることはできない。
それどころか、一月もしないうちにここを発つことになるだろう。
けれどそれを口にすることはできないから、せめて、その気持ちが嬉しいと伝えるために笑った。
――私はね、グラ家が呪われていると知っていてなおマリーと結婚することを望んだし、それを後悔したことはないよ。どれほどの痛みでも苦しみでも、マリーと過ごす幸福には適わなかったからね。
(………お父様、私………私は、幸せです………)
昔、お父様が呟いた言葉に胸の中で返事をしてから、返事を書かなければと思った。
アレス様は私をとても大事にしてくださっていて、とても幸せです――と。
だから、あと少し。
もう少しだけ、ここにいさせてほしいと。
香水瓶を胸に抱いていると、ほのかに立ち上るその香りに優しく包まれて、いつまでもこうしていたいほど幸せだった。
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