22 / 44
2章
黄昏3
しおりを挟む「あなたは何も言わないくせによく泣くから、困る」
耳元に失笑を落とされ、はたと涙が止まった。
彼の前で泣いたのは嫁いできた夜と誕生日の時くらいだったはずだけれど。
程度の問題?
それとも、夜毎泣いていたことを気づかれているのだろうか。
その理由を聞かれたらと思うと、ばくばくと心臓が暴れ始める。
「泣くなら泣くで愚痴を言うなりしてくれないと、どうしたらいいのかわからない」
優しく背中を撫でてくれるぬくもりがじんと心に染みた。
けれど、次の瞬間には凍りつく。
「私に言えないようなことをされたのか? 事と次第では断固抗議してくるが」
「や……やめてください!」
彼の言葉はひやりとするほど鋭く、慌てて首を振った。
ディーネの実家が公爵であっても嫁家リベーテは子爵、一方のランドハイア家は侯爵だ。
元より謝罪してくれただけでもありがたい。まして頭を下げる相手が愛妻の元恋人ともなれば、いかに温厚なイグニスでも心中穏やかではなかったはずだ。それでも、ディーネのことを幼い頃からよく知るイグニスのことだから、倒れたと聞けばきっと心から憂いて謝罪してくれたのだろう。
それなのに、さらなる抗議など。
「本当に、本当に……なにもされてません! ただ……」
だがその先を口にするのが憚られ、言葉が尻すぼみになって消えていく。
「ただ?」
まっすぐな視線で射抜かれ、静かに促され、つい、俯いてしまう。膝に乗せた手をぎゅっと握りしめ、その白い包帯を見つめる。
「……ただ……アレス様は、あの、夫婦の契りを交わす時……どうなのかと聞かれて……」
――リズ、愛してる。
またしてもその一言が脳裏に蘇り、再び胸が苦しくて息ができなくなるような錯覚に囚われる。呼吸を保つことに意識を集中し、なんとか胸の痛みに耐える。
「聞かれて?」
なのにこともなげに続きを促されて、握りしめる両手にさらに力がこもる。息ができなくなりそうで、ぴりぴりとした痛みに意識を集中し、よけいなことを考えないように努力する。
「………私、答え……られ、なくて………」
沈黙が怖くて、またぽろぽろと涙がこぼれた。
「本当は抱かれたことないんじゃないかって、言われて……それで……息ができなくなって………」
「――本当に、それだけか?」
溜息混じりだった。
疑っているわけではなく、本当にたったそれだけのことでと呆れ果てた溜息。身が縮む思いでなんとか小さく頷くと、今度は吐き捨てるような剣呑な声が答える。
「それだけのことで、なぜ泣くのかわからない」
その声音にますます身が縮む思いがして、涙がぽたぽたと落ちる。
「責務なら果たしていることにしておけと言っただろう。適当に話を合わせればすむことだ」
「情事の最中のあなたの様子を知ってる人に、どうやって話を合わせればいいのですか?」
勢い責めるような反撃をしてしまうと、彼は一瞬だけぎくりとして、背中を撫でる手が止まった。
やっぱり本当なんだと視界がぐるぐるまわり始める。ぎゅっと目を瞑って目眩を堪え、涙を止めようとする。
「私……私は、知りません……っ」
けれどももう涙腺が壊れたんじゃないかと思うほど、涙が止まらなかった。堪えようと両手で目頭を押さえてみても、どうしても止められなかった。
「……わかり、ません。夫婦の、こと、も……あなたのことも……、なにも……っ!」
涙に混じった訴えにはさすがに少しだけ躊躇う気配があって、それからアレス様は背中をゆっくりと一撫でした。
「そうだな。それは……すまなかった」
腰のあたりで止まったその手のぬくもりが胸まで沁みた途端、つっかえたように涙がぴたりと止まった。
「けれど、倒れるほどのことか?」
それはさっきまでの苛立った声ではなくて、だから、大荒れの胸中がふっと凪いだ。けれど、口を開けば一緒にまた涙が出てきそうだったので、こくりと頷くだけに留める。
「まさか彼女のお腹の子の父親が私だと疑ってるわけじゃないだろうな? 別れて以来、顔を見るのも今日がはじめてなんだが」
違う、と必死に首を振ると、また、溜息が聞こえた。
その溜息に、再び身が竦んでしまう。
「もし後ろ暗いことがあるなら、わざわざあなたと引き合わせるような面倒な真似はしないと思わないか?」
それは自分でも何度も言い聞かせたことだ。
けれど、返事ができずに口を閉ざしてしまう。
「……そんなに、私が信用できないのか」
「ち、違います! アレス様は絶対にそんなことをする方ではないと、信頼しています!」
呻いた声が苦々しい自嘲を帯びているのが忍びなくて、声を荒げた。
「……ただ、昔のことでも………嫌、だったんです………」
言葉にすると、胸の中の黒い靄まで一緒に溢れそうで怖かった。
交際していたのは過去のことだ。
それは、揺るぎのない事実なのだろう。
それを疑っているわけではない。
……だけど。
「過去のことをどうこう言われても、どうにもできないだろう?」
「……わかってます。わかって、います、けど……」
ビリビリと痛む喉から声を絞り出すが、うまく言葉にできない。
結婚する前の彼が誰となにをしていようと、過去を変えようもない。どうしようもないことをうじうじと文句を言われても困るだろう。
それはわかっている。
わかって、いるけれど――。
「妻でも婚約者でもない女性と関係を持つような男だと失望したか?」
また涙が喉を詰まらせて、ただ首を振った。
ショックを受けたのは確かだけれど失望したのとは違う。
ただ――彼は愛を囁きながら契りを結びたい、と言った。
彼女は、愛しているという言葉をもらった。
(けれど、私は?)
毎晩添い寝をしていても夫婦の関係を求められず、その言葉をもらえない私は?
「ディーネ、泣いてばかりいないでちゃんと答えてくれないか?」
溜息混じりに言いながら、遠慮がちに背中を撫でる。
「……ディーネに泣かれると、どうしたらいいのかわからなくて困るんだ」
怖々と見上げたら、彼は子犬のアベルを撫でていた時と同じような困り果てた顔をしていた。
ずきり、と胸が痛んだ。
(……私は、あの日のアベルと同じ?)
なんとなく捨て置けないだけ?
妹のように、あるいは愛犬のように、かわいがっているだけ?
(……い…や…………)
じわり、とそんな想いが胸の奥に滲む。
(………そんなの、嫌………っ)
あの日からずっとずっと、アベルに向けてくれた情を私にも向けて欲しいと思っていたはずだった。なのに今はなぜか、心の奥底から呻きのような悲鳴のような思いが次々と湧きでてくる。
「もし――……もし、リズベット様がまだ、アレス様に未練を残されていたら?」
恐怖に突き動かされたが、率直に「あなたの妖精は彼女ですか?」と聞くほどの勇気はもてなかった。
妖精――夢幻のように、手の届かない想い人。
それは、彼女のことではないだろうか。
彼女の良縁のために身を引いて、ひっそりと想い続けているとしたら、すべての辻褄が合う。
心が、散り散りに引き裂かれそうだった。
(……私は、愛されることを求めてはいけないのに)
なのに、彼女のように愛していると言って欲しかった。
(妖精なんか忘れて、私を――)
「未練? 恨みの間違いじゃないのか。手酷く捨てたからその腹いせだろう」
そんな心の痛みとは逆に、彼はこれ以上ないくらい盛大に眉をしかめた。
「アレス様をお慕いしているから恨みにもなるのでしょう?」
「どちらにしろ、関係ない」
彼は鼻で笑いきっぱりと言い切ると、唐突に顎を掬って強引に見上げさせた。 まっすぐな視線に射抜かれ、心臓が跳ねた。
「ディーネ、私の妻はあなただ」
心が震え、全身がざわりと粟立ち、直前の思考が吹き飛ぶ。
「…………は……い……?」
放心しているうちに、両腕で強く抱き竦められて耳元に顔を寄せられる。
「選んだわけではなくとも、私の妻はあなただ。……私は、その幸運に感謝している」
愛しているとは、一度も言ってくれない。
言ってくれないけれど――どうしてそう、愛されていると夢をみたくなる言葉をくれるのだろう。
もどかしくて、切なくて、泣きたくなる言葉を。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
ちょっと大人な物語はこちらです
神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な短編物語集です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる